ただ広い水槽を眺めた


 それはサヴニエールの主人の唯一の趣味だった。かつては犬を飼っていたが屋敷が全焼してからはまるでタブーであるかのように家人たちは犬や猫を飼うことを拒んでいたが、とある日、ひょっこりと帰ってきて当主になった長女――アスナは突然アクアリウムを作りたいといい出したのだ。
 壁面に、すごく大きいのがいい。
 サヴニエールに身振り手振りで表現する主人の小さな我儘だった。いや、おそらくは普通の家庭からすればそれはとんでもない我儘だったのだろうが、まるで感情が消えてしまったように、子供であることを捨ててしまったかのように仕事に打ち込み続けようとした主人がたった一つ、サヴニエールに子供として頼んだことだった。使用人たちは喜んで一式を揃えて、アスナの部屋にアクアリウムを作った。小さな海。――それはアスナにとってぼうとしていられる時間だった。

 ゆらゆらと泳ぐエンゼルフィッシュのきれいな黄色のヒレを眺めながらアスナは部屋の明かりもつけず、水槽の青いライトアップのみに照らし出されていた。時刻は深夜零時をちょうど回ったところである。仕事を終え、執務室から寝室となっているこの部屋にはいるとすぐ水槽がありその前にはロッキングチェアが置かれている。ガウンを適当にロッキングチェアにかけると腰掛けてゆっくりとその椅子を前後に動かした。ぎぃという椅子の軋む音と水槽から聞こえてくるなだらかな水の音が心地いい。
「失礼致します」
「入れ」
 やってきたのはサヴニエールだった。からからと押してくるカートの上には紅茶のセット。ちらりと一瞥してアスナは椅子に腰掛けたままだった。それをわかっているのかサヴニエールは何も言わず静かに紅茶を用意し、ロッキングチェアの隣に置かれている小さなテーブルへ紅茶をセットした。
「寝る前ですので、ハーブティーを」
「ああ」
「お好きですね」
 何が、とは言わないサヴニエールにアスナはちらりと視線を送った。
「……海に行く暇になくなったからな」
 アスナは静かにそういう。小さな海をそこにつくって自分のものにして満足したいだけのただのくだらない子供の欲求なのだ、と自身を断じた言葉にサヴニエールは苦笑した。子供が子供でいられる時間など少ないというのに、彼女はあっさりとそれすら手放してしまった。毎日毎日クラウン家の当主としての勤めに追われながら、息をつく暇すらなくてはいつか壊れてしまう。
「よろしいのではないでしょうか」
「……父さんは犬が好きだった」
「ええ、従順だからという理由でしたね」
 サヴニエールはかつて犬を愛でていたそのアスナの父に聞いたときの理由を思い出してくすりと笑った。真顔で、だって犬は従順だろ、と言われた時はどうしようかと思ったものだ。良くも悪くも彼はアスナ以上に子供のような人だった、と思い返しながらアスナのナイトガウンを回収した。
「犬はお嫌いでしたか?」
「……いや、好きだったよ。ただ……うん、飼うならシェパードがいい」
 アスナはふと笑う。
「だってかっこいいだろ」
「……旦那様と同じことをおっしゃっておりますよ」
 サヴニエールがそういえば、アスナはむっと顔をしかめて、サヴニエールを睨みつけた。その表情があまりにもかつてこうやって椅子に座って庭を眺めていた男にそっくりで――サヴニエールは懐かしげに目を凝らした。しかし、眼の前にいるのはその男の娘であり、現在サヴニエールが仕えている主人である。
「さぁさ、そろそろお休みくださいませ。お嬢様」
 ――明日の学校に差し障りますよ。
 サヴニエールは主人であるはずのアスナを主人としては扱わない。お嬢様――子供として扱っていた。誰か一人がこうしていなければ、彼女は大人で在り続けなければならない。いや、大人であることを周りから強要されてしまう。だから、サヴニエールだけがアスナをお嬢様と呼ぶ。主人でもない、一人の女の子として取り扱うと帰ってきた彼女が当主になった日に決めたのだ。
「明日の朝食、サーモンアボカドサラダがたべたい」
「かしこまりました、ご用意いたします」
 アスナをベッドへ押し込んで、サヴニエールはアスナの頭をなでた。寝付きは悪い方ではないのか、アスナはすぐに目を閉じて眠りにつく。眠ったのを確認して、サヴニエールは静かに水槽の前に立った。主人のたったひとつの癒やしの魚達はブルーライトの中で静かに自由に――いや、水槽に押し込めて自由にもないか、と目を細めた。
(まるで、あなた達はお嬢様のようですね)
 満たされた水槽の中で、自由のように見えて自由なく泳ぐ魚。
 その末路はただの飼い殺しなのだということを、おそらくは彼女はしっていたのだ。

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