それは闇夜よりも濃い深い赫
「やあ、おはよう」
――俺の朝はいつもと変わらない。SOUNDONLYとのみ描かれた画面が映るパソコンから聞こえてくる声によって目覚める午前六時三十分。
彼女に名前など存在しない。ただ、便宜的にモノキュレーターと呼ばれている。
その名前の由来は実に簡単だ。「モレキュレート」――所謂分子を意味する言葉に「モノ=単一」を示す言葉と、キュレーター=保存、管理を行う人間を示す言葉をかけ合わせたようなものだ。要するに分子を唯一管理できる人間――モノキュレーター、造語だ。
作ったのは画面の向こう側の、声の男だ。
モノキュレーターは彼のことを便宜上お父様と呼んでいた。
男の名前はもちろん、モノキュレーターは知らない。彼は時折モノキュレーターに指示とも言えない助言を与えてはまたしばらく連絡を断つが、朝の挨拶だけはおそらく毎日送ってくる。そう、本当にただの挨拶だけ。
「おはようございます、お父様」
モノキュレーターは慣れた手つきで朝食を作る。
今の家にやってきたとき、傍につけていた人間は殺してしまったので全てモノキュレーターが一人で行っている。料理も掃除も洗濯も誰かにやらせたほうが合理的だがやったほうが楽しい。
彼女は楽しいことしかしないのだ。
今日はいつもと違う。
珍しい会話が起こった。
「その制服似合っているじゃないか」
「嫌味ですか?」
モノキュレーターはくつくつと笑った。穏やかな彼女は静かにコーヒーを口に運ぶ。
今日の朝食はベターにトーストと目玉焼きとサラダ、ウィンナーにハムというものだ。サラダにはたっぷりと手作りのドレッシングをかけてレタスをフォークで刺した。
彼女が身にまとっていたのは制服だ。
当然だ、モノキュレーターは学業を修める年齢――十五歳の春である。
「雄英に通うなんて言い出した時はどうしたものかと思ったよ」
「気まぐれです。だって、楽しそうじゃないですか!」
恍惚の表情を浮かべて、彼女はミニトマトをフォークで何度も何度も刺した。潰れたミニトマトからぷつり、とたっぷり落ちていくトマトの汁がレタスへ広がっていく。
「自分が壊すかもしれないヒーローたちを見ていられるんですよ?」
私立雄英高校。
ヒーロー教育の最高峰と呼ばれる学校だ。
モノキュレーターは門をくぐる。
明確な悪意を持ちながら純然たる興味だけで。
「死海さん!」
「なんですか?」
モノキュレーターは――死海アスナになった。
個性はないただの人間として、全ての能力を抑えて、頭脳も二割も使わない。身体能力も極一般の――本当に普通の人間として雄英高校普通科の最底辺のラインを生きることを強いた。抑圧され、しかしながら、アスナは楽しんでいた。
思ったよりも自分は完璧な「人間」になれるらしい。
食堂の食事はおいしい――味覚はおかしくなっていないから平気だ。
クラスメイトは意外といい奴等だ――ヒーロー科に入れなくて鬱屈した人間が多いが。
授業は普通だ――普通科だから仕方ない。
(思ったより、誰も気づかないんだな)
目の前にいるクラスメイトは自分の残虐性や狂気性には気づかない。
誰も気づかない。
「昨日の授業は難しかったよね〜、死海さん理解できた?」
「ううん、私ももう少し理解しなくちゃとは思うんだけど……」
当たり障りのない会話。
普通の高校生。
――くだらない、日常。
「ねぇ、すごい、きれいな髪ね」
かけられた声に振り返る。同じ制服を着ているがあまり見覚えはない――別の科――ヒーロー科の生徒だ。
きれいな茶髪。
猫のような耳。
大きく丸々とした碧の目。
「ありがとう。でも、貴方のほうが素敵だわ、ヒーロー志望さん」
にっこりと笑いかけた。
それが彼女――猫柳ミヤとの初対面であった。
* * *
起こる爆発。
崩れる建物。
絶叫する悲鳴。
――楽しいな、と顔は美しく弧を描く。
「な、んで……?」
悲鳴も楽しいけれど、もっと楽しいものがある。
それは人の心が折れる瞬間。
その表情が最も美しいと思っている。
「アスナ、ちゃん」
相手はヒーロー、スキャット。
猫柳ミヤだ。
「はじめまして」
にこりと微笑んだ。
紅い、長い髪が爆発の風に流されて揺れた。
「ヒーローさん、楽しい遊戯をしましょう?」
差し出した手。
歪んだ表情。
今にも泣き出しそうな彼女を見て、モノキュレーターは痛烈に愉快な気分だった。