絶望の輪舞曲は鳴り止まない
アスナは記憶喪失だ。
クラウス・V・ラインヘルツが保護している記憶喪失の女性。年齢はクラウスと同い年、身長は女性にしては高く(それでも、K.Kやクラウスよりも背が低く、小柄に見える)グラマーな体型をしている。
紅い髪は長くゆったりと流されて、結ばれること無く重力に逆らわない。赤と金色の瞳はどこか宙をさまよい、虚空を見つめてやまない。何か見えているのだろうか。
「アスナ」
あまり声に反応することはないアスナだがクラウスの声にだけは反応して顔を上げた。手元にはスケッチブックとパステルのチョークたち。描かれた絵はひどく繊細で、しかし、風景のようではなくて――所謂心象画と呼ばれるようなものだ。
「今日も一人にしてすまなかった」
彼女は首を横に振った。
アスナは何も言わない。記憶喪失になったその日から、声を失った。医者は心理的ショックによるもので、声帯には何の異常もないと言った。彼女の記憶喪失は医学的には何も解明できないと言われた。頭への衝撃もない、海馬など脳にも何の異常はない。HLに来て、ようやくそれはわかった。――神との契約。
彼女が記憶を取り戻すことはない。――喪うことはあっても。
「今日は――」
クラウスは彼女に聞かせることにしている。どんなことがあったのか、どんな日常だったのか。できうる限り、彼女をこの鳥かごから出さないようにしようと決めている。何度も、何度も彼女は記憶を失っている。まるで繰り返されるように、クラウスは彼女に告げるのだ。「はじめまして」と。
「そういえば、君が好きだった花を用意してみたのだが――喜んでくれるだろうか」
「……」
きっと彼が言うのだから、私はこの花が好きだったんだろう。
白い可憐な花。
彼の大きな手によって差し出されると余計に小さく見える。くすり、と笑いながらそれを受け取った。何て、素敵できれいなプレゼントなのだろう。
「……アスナ」
貴方は時折すごく悲しそうな顔をする。
アスナは首を傾げた。
「――私は、君を都合よく作り変えては居ないだろうか」
差し出された手。
大きくて、力強くて――とても優しい手。苦悶に満ちたその手にそっと手を重ねた。大きな手はかすかに震えているような気がした。
「記憶のない君に、私は、押し付けていないだろうか」
彼は苦しんでいる。
しかし、その苦しみをアスナは共有することも、救うこともできない。彼が求めている返答は与えてあげられない。彼の懺悔は――記憶のあるアスナにしか与えられない。彼はきっと、私を見るたびに苦しむ。
首をふることもできず、アスナはただ、静かに抱きしめた。彼の大きな体にそっと手を回す。
「アスナ――私は」
大きな腕は抱きしめ返すことを戸惑った。
「私は、君を救えているだろうか」
――助けて。
自分の中の誰かが、彼に向かって叫んだような気がした。