手は届かない
「おい、紅葉。もう遅いから、送っていくから待ってろ」
「え、いいよ。寮の食事の時間に遅れるじゃん」
ボールのたっぷりはいったケースを二つ抱えたまま呼び止められて、紅葉は反射的にそう答えた。いいから、それ終わったら着替えて待ってろ、とそれだけ言って彼はバッドを持っていってしまう。人の話を最後まで聞けよ、と紅葉は思ったが、まあ、確かにナイターのライトがついているのだから、当然辺りは真っ暗だった。一人で帰っても問題がないといえば、問題はないが――やっぱり不安であることも事実だった。
「送ってもらえばいいじゃん」
「鳴、いや、うん、そうしようかな」
「そうそう。じゃないと、雅さんも紅さんもくっつかないしー」
「いやいや、俺たちそういうんじゃないから、ただの同級生、ただのクラスメイトよ」
何か勘違いしている後輩のスネに蹴りを入れて訂正しておく。大した威力じゃないから問題ないが、成宮は暴力だーとか叫んで居るのが聞こえる。紅葉はそれを無視してボール磨きなどを始める。片付けが終わって更衣室に戻って慌てて着替える。寮で楽な格好に着替えてくるだろう原田を待たせるわけには行かなかった。慌てて校門前に行けば、ジャージとTシャツの原田が待っていた。
「おう」
「ごめん、待った?」
「いや。――行くか」
「よろしく」
街灯だけの道は真っ暗だ。紅葉はこの近くに家があるから、この時間まで残って手伝いができている。朝も選手たちが練習を始める少し前に来てボールの支度とか色々している。夜はいつも、三年生の誰かが、今日みたいに送ってくれる。彼らなりの感謝らしい。三年生が忙しそうな時は少し生意気だが、二年生たちが。ありがたい話だ。
「大分、暑くなってきたなぁ」
「もうすぐ夏だ。あっという間だな」
「そういえば、雅、テスト前の勉強進んでる?」
「あー……ぼちぼち、だな。あれだ、お前からノート借りたい」
「いいよ、用意しておく」
他愛のない、会話。
部活ばかりしてられないのが学生の悲しいところだ。原田だって、主将として試合に出るためにはある程度の成績を残していないと――国友監督はさぞや厳しいことだろう、と想像して紅葉は笑った。赤点なんて誰も出なければいいが、と静かに思う。
「古文と数学がな」
「古文は結構助けてあげられる。数学も基本なら問題ない、かな」
「鳴に笑われたんだ……『えー、雅さん、勉強紅さんに教えてもらってんのーー?』ってな」
「あはは、いいよ、それくらいしかしてあげられないし」
「……いや、毎日この時間まで残ってんだろ、お前」
片付けとか、他の手伝いとか。
「え、大したことしてないじゃん」
「おにぎりとか」
「あんなのただ、米たいて握っただけじゃん」
「……この間の朝練の時のおにぎりうまかったな」
「あー、ささみの梅肉和えのヤツ? また作ってこようか」
「いいのか?」
「大した手間掛からないし、他にもおいしいの作ってやろうじゃないか」
紅葉は小さな体で胸を張った。
「あ、レモンのはちみつ漬けも用意してあげようかな。鳴喜びそう」
「あー……あいつのモチベーションが維持されんのはありがたい」
「じゃあ、用意する」
おにぎりとレモンのはちみつ漬けの二つね、とメモを取りながら、紅葉は笑った。原田はそれを見ながら、頼む、と再度言って、またしばし無言になった。しかし、この二人の中で沈黙は苦痛ではなくて、むしろ心地良い。調子はどう、とか、聞こうと思えば聞くことはあるんだけど、いつも二人きりで帰るとなんとなくこうして無言で過ごす時間が長い。
(雅はきっとプロに行くんだろうなぁ)
プロに行ったら、きっと会えなくなるんだろう、とか考えると少しだけ寂しくなるし、この夏が終わらなければいいなんて身勝手なことを考えてしまう。実際にフィールドに立って戦うのは彼らなのに。紅葉は背中に背負ったリュックの位置を直す。重たい辞書が揺れて重さのかかり方が少しだけ変わって、右肩が急に重くなった気がした。
自分は大学へ進学だ。
きっと、彼と会ったりできなくなる。自分との接点ができなくなる。――こんな風に会えなくなると思ったら、すごい、心がきゅ、と締まる。
家の門庭が見えた。あじさいの花がたくさん咲いている門庭の奥には道場付きの古い日本家屋がある。あ、ついたんだ、と紅葉が顔を上げると、いつものようの原田が立ち止まって紅葉が門の奥に入るまで待ってくれている。――律儀だなぁ、と思いながら、紅葉はいつものように、じゃ、また明日、と言おうと思って、
「雅――」
名前を呼んで、声が止まった。
きっと、好きって言えば、また接点ができるかもしれない。って、思った。
「また、あした」
「おう。じゃあな」
でも、好きじゃないって言われたら怖かった。
友達としてしか、マネージャーとしてしか見たことなかったとか言われたらショックで立ち直れない気がして、やっぱり何も言えなかったんだ。紅葉は、きゅ、と唇を噛んで、門庭の奥へ入った。
(……終わったら、言うべきか)
門庭の奥へ紅葉が入っていくのが見送って、原田は頭をかいた。
(好きだって)
と思って、考えるのをやめた。結局のところ、優勝したら、と決めたんだからそれでいいんだ。甲子園で優勝して、伝えればいいことだ。
(その先は、これから考えればいい)