イン・ザ・シネマ
久しぶりの完全なオフになった。なった、というのも二面ある野球部用のグラウンドに業者の入る整備が必要になったのがつい昨日のこと。練習は室内練習場を使って――という話も上がっていたが、夏の大会を前にした今、選手たちに一日完全な休養をという話も出てきたようで、国友監督も珍しい機会だからしっかりと体を休めてこいと一日練習道具を持つのも禁止され、寮では鳴が久しぶりに家に帰ってなどという話をしていた。
確かに東京都内に実家がある生徒たちはそれぞれ家に戻ってみると言って昨晩からそれぞれ行動していたが原田は特段家に帰るつもりもなく寮にとどまっていた。朝、多田野と洗面台ですれ違うと、驚かれた。
「てっきり、右京先輩と約束してるのかと」
「あ?」
突然持ち上がった幼馴染の名前に咥えていた歯ブラシを落としそうになった。
「ほら、前に約束してたじゃないですか。完全オフができたら、右京先輩と出かけるって」
「あー……」
そういえば、そんな話をしていた。昨日のその出来事が起きた頃には既に幼馴染の右京は家の用事もあって慌てて帰路についていたので、今日、野球部がオフになったのは朝方メールをしたっきりだ。特段その後に連絡を入れたわけではなく、そう、とだけ返事が返ってきて終わったが……
(もしかして、俺から誘ったほうが良かったのか)
あいつなら自分から言ってきそうなもんだが。
「右京先輩、主将から連絡来るの待ってんじゃないですか?」
「…………かもな」
誘わなかったら後で根に持たれそうだな、と苦笑するときっと明日ネチネチ言ってきますよ、と多田野が笑った。
別に期待していたわけではない。
昨日の夜は長らく残っては居られず、早々に自宅に帰ってきたせいで完全にオフになったという話を見たのは朝方、用件だけまとめられた原田からのメールを見てだ。だが、そのメールは本当に部の連絡事項のみ。
(いや、わかってたよ、雅はそういうやつだよ)
きっと、約束も忘れてる。完全オフというのも無いことだと思ってたから、右京自身も忘れていたということもあるが、まあ、言ってこられないとそれはそれで寂しいというか、まあ、体を休めていてほしいという気持ちもあって少し平常心を保てないまま家の道場に早々に閉じこもった。期待してない、なんていいつつ、それは嘘だとわかっている。期待した。すっごい期待した。
(……デート、行きたかったなぁ)
道場で座禅を組みながら、はぁ、と溜息をつくと、とんとん、と板張りの廊下を歩く家人の足音がした。この足音は母だな、と右京は静かに廊下の方へ視線を向けた。
「紅葉」
自分の名前を呼ぶ母の声は相変わらず淡白だ。警察官である彼女は真面目ではあるが堅物ではない。右京をじと見やって、玄関の方を指差した。
「まーくん、来てるわよ」
「……は?」
慌てて立ち上がって玄関の方向へ走った。――といっても、幼馴染の彼にとっては勝手知ったる家だ。玄関の途中にある居間で彼はお茶を出されて座っていた。父は元気そうだね、と原田に声をかけ、はい、と返事をする彼に慌てて足を止めて、何してんの、と声をかけた。
「何って――実家、この近くだろ」
「……そりゃね?」
近所だし。
もしかして、おばさん出かけてたのかな、と右京は居間の中に入ってその近くに腰掛けた。お茶飲むかい? という父の声にうん、と頷いて紅葉は原田を見た。シンプルな出かけの服装だが、決してラフではなかった。家に帰る服装とは少しばかり思えなくて、首を傾げた。
「……」
「……」
沈黙。
いや、用事があったんじゃないのか、というツッコミは喉の奥に押し込んだ。そういえば、右京自身も中学とかの時は用事がなくても原田の家に居た。普通に彼の部屋のベッドでくつろいでた。どうぞ、と父から差し出されたお茶には茶柱が立っていて、少しだけほっこりとした気分になれた。
「紅葉、暇か」
「……うん、まあ」
「……出かけるか」
一瞬聞き間違いかと思った。
ごめん、もう一回、と聞き直したことは許してほしい。まさか原田からその言葉が出てくるとは予想してなかったのだ。暇か、じゃあ、練習付き合え、ぐらいかな、とか思ってたらまったく違った。動揺して、お茶をこぼしそうになって父からす、と差し出された布巾でテーブルにこぼしてしまった分のお茶は拭き取った。
「だから、出かけるかって」
「……練習は?」
「監督から今日は休養日にしろって言われてんだよ」
「あー……なるほど」
あの監督ならそれくらいは言うだろう。まあ、折角の機会だししっかりと体と心を休めておくのも必要なことだ。心はずっと張り詰めすぎていても本番でぷつん、と糸が切れてしまっては困る。適度に緩めて休憩させないと集中は持続しないものだ。
「でも、――」
と、いいかかって、母から二枚、チケットが渡された。
「なら映画でも行ってきなさいな。これ、紅葉が見たがってたアクション映画のチケット」
原田と右京の間に差し出されたチケットを二人で見た後、そのチケットの先にいる右京の母を見上げた。相変わらず読めない表情をしている。原田がそのチケットを恐る恐る受け取ると、楽しんできなさい、と母が珍しく笑うので、右京と原田はしばし顔を見合わせて、困ったように眉を下げた。
映画館はそれなりに人がいたし、期待値の高い映画だったということもあってシアターはほぼ満員に近い。初回公演から既に一週間以上経っているというのにすごい人だなぁと思いながら右京は原田のジャケットの裾を掴んだ。
「探せねぇから迷子なんなよ」
「そんな子供じゃないし」
原田の手に飲み物とポップコーンもすべて預けた。その代わり二人分のチケットを預かった右京が席を探す。あ、ここらへん、と言って列の中に入っていく。席に腰掛けて、原田から飲み物を受け取るとポップコーンへ手を伸ばした。塩とキャラメルのハーフ&ハーフだ。
なんだか、普通にこうやって出かけるなんて何年ぶりだろう。中学はお互いに野球と剣道で忙しくてそれどころじゃなかったし、小学校が最後だろうか。いや、その小学校ですらお互いのスポーツのことで忙しかっただろうし、高校に入ってからはうん、言うまでもない。ぽり、と久しぶりに食べたポップコーンは中々美味しかった。
「ねぇ、雅」
「あ?」
「寮で寝て休息してればよかったのに」
映画が始まる前のプレシネマが流れているのを見ながら右京がぽつりと呟いた。
「嫌だったのかよ」
原田も視線はそちらだ。といっても、プレシネマそのものが楽しいとかそういうわけではなくて、ただ他に視線のやり場が無いだけだ。なんだか隣を見たら負けな気がした。
「そりゃ、嬉しいけど。雅とデートだし」
「これ、デートなのか」
「デートでしょ」
今更な事を言い出す幼馴染にう今日はつい苦笑した。男女二人きりで映画を見に来るなんて、デート以外の何物でもないと思うのだが、もしかしたら原田の中では自分との外出は「友人同士のお出かけ」であって「男女のデート」とはかけ離れているのかもしれない、とか思いながらちらり、と原田を伺いみた。
「そうか、デートか」
困ったように、でも、些か嬉しそうに笑う原田を見なければよかった、と目の前のスクリーンへ視線を移す。肘掛けに乗っている手をふと見た。ちょっとくらいいいだろうか。どうせ、暗くなったら見えなくなるだろうし、と思いながらう今日は自分よりもすごく大きな手に、自分の手を乗せた。一瞬だけ、ぴくり、と動いた手はしばし行き場もなさそうにしていたが次第に落ち着いて、右京の小さな手を包むように握られた。
「…………手汗」
「るせぇ」
映画館の中だからか控えめに出された声。照れが混じっているようなその声、ふと顔を見てみればスクリーンを見ている横顔の耳がうっすらと赤くなっているのが見えたところで辺りの照明が落とされて周囲が暗くなり、真正面のスクリーンに予告が始まった。
繋いだ手が、すごく暖かくて心地が良い。