鳥籠の鳥は闇に翔ぶ
真逆――彼女が鳥籠の中で大人しくしているなど一度も思ったことはない。
森鴎外は蛻の殻となっているたくさんの縫い包みに囲まれた部屋を眺めて、ドアに肩を預けて小さくため息を付いた。彼女がこの部屋から脱走するのは、ここ八年で一度ではない。数えて八十二回目。年に十回程度は脱走を試みる彼女に森は別段怒りは湧いてこない。彼女はここに帰ってくることを知っているが、それでも脱走されるのは快くはない。
「首領!」
「ああ、中原君。すまない、どうやら鳥籠の鳥が逃げたみたいでね」
――探すのを手伝ってくれないかな、と言えば中原は部屋の中を一瞥した後、すぐに一礼して走っていった。森はその背中をわずかに見た後、再び部屋の中を見て、その中へ入っていく。一つの縫い包みが置き去りにされている。テディベアは、その筋の人間が作った最高級品だ。辺りに散らばる服は森が彼女へ贈った一点物ばかりだ。
「さて、今日はどちらをお散歩かな」
彼女のお気に入りのテディベアを抱き上げて、森は踵を返して外へと向かった。
* * *
外の世界はいつでも晴れやかな空というわけではないが、くれはの目に映る世界は青々とした空が目の前に広がっている。久しぶりの洋装のたくさんのフリルとレースが心地の良い春の風に流れて、ひらひらと揺れている。お気に入りの縫い包みは置いてきてしまったが、相変わらずヨコハマの街は様々な人間の雑踏に溢れ、くれはの五感をたくさん刺激してくれる。がま口になっているポーチの中から、カエル型のがま口財布を取り出す。甘いものが食べたいのだ、近くからクレープの皮を焼く香りが漂ってきて鼻腔をくすぐる。小さなリボンの付いた靴で踏み出す。
ワゴンで売っているクレープを店員から受け取ると、くれははアイスクリームの入ったクレープを持ったまま近くのベンチに腰掛けてそれに齧りついた。口の周りにアイスクリームが幾分かついたような気がするが、目の前にある甘味を堪能するほうが先か、くれはは何も気にはせず食べ進めた。
そんなくれはの前に大きな影が現れる。
「お嬢さん、口元が汚れてますよ」
優しい声。
くれはにとって聞き覚えのある声だった。顔を上げてみれば、穏やかに微笑む森鴎外の姿があった。
「もう、見つかりました」
「うん、見つけちゃった」
彼はいつもの黒い外套ではなく、白い白衣を着ていた。森はくれはの隣に腰掛けるとホイップクリームのついた口元を白いハンカチを取り出して拭った。
「おいしいかい?」
「はい、旦那様」
「全く心配したじゃないか。勝手に出ていっちゃ駄目だよ」
もぐもぐとクレープを食べながらくれはは森を見る。
「旦那様、お仕事いいんですか?」
最後の一口を口に放り込んだくれはを森は抱き上げた。小さな体はあまりにも軽くてあっさりと持ち上がり、森の腕の中にすっぽりだ。
「くれはを見つけて、本部ビルに帰ったら仕事詰めだねぇ」
「……旦那様はお仕事をサボってきたのですね?」
「嫌な言い方をするね、くれは」
苦笑いしながらできるだけ人通りの少ない道を選んで歩く。路地を抜けた先には中原が立っており、その先には黒塗りのセダンが待っている。中原に片手を上げると、彼は車のドアを開いた。くれはもちらりと中原を見て、ぺこりと森の腕の中から頭を下げた。
「大捜索隊が組まれてるのかと思いました」
「そうしようかと思ったんだよ、だって、いきなりいなくなるから!」
車の座席にゆっくりと降ろされると、森の手でシートベルトがされる。かちり、とそれが止まるのを確認して森も座席に腰を下ろす。僅かな振動もなく車は動き出し、外の景色はあっという間に流れていく。
「でも、雑誌が部屋に落ちてたから。また、樋口くんに頼んだね?」
「だって、あの部屋、テレビもラジオもないから」
「必要ないだろう?」
森はそう言って微笑み、優しく頭を撫でた。くれはは頭を撫でられて目を細める。森はそんなくれはを優しくみやった後、そっと長い髪をすくい上げてキスを落とす。
「くれはは私が守るのだから、もう外を気にする必要はないよ」
その赤い瞳はゾッとするほど冷たい光を宿していた。くれははそれを見て、ゆったりと目を細めて、柔らかく微笑んだ。