嗚呼、の如く


 くれはは途切れていた意識が不意に目覚めた気がした。――妙に右頬が熱く、全身が軋むような痛みを発している。数度瞬きしても周囲は薄暗く、今いるところが明るくないことを知る。両手・両足は壁につけられた枷に填められて動かすこともままならない。――ここは、どこだろう。ぼんやりと霞がかった頭で考えながら、くれはは眼の前に人がやってきたをみやった。
 見覚えのない男だった。顔にはマスクを付けており、全体的な顔を見ることは叶わなかったが少なからずくれはの生活の中にはいなかった人間である。それを見て、くれははああ、と思い出した。
 そう。本部ビルを抜け出した今日の日中のことである。いつものように、本部ビルの隔離フロアの空気ダクトの排気口を開けて、その中に入り込み誰も追ってこれないことを確認して本部ビルから抜け出して、外に出た。相変わらずの晴天。心地の良い風。服についたホコリを払い、くれははヨコハマの街に向けて歩き出した。今日は湾岸地域の方へ向かってもいいだろう、向こうについたらクレープとか、最近できたというアイスクリームのお店にでもと考えていた時のことだ。――背後の気配に気付かなかったのが最大の汚点だろう、とくれはは後に考えるが、その時は口元にハンカチを当てられるまで気付かなかった。薬の匂いが鼻をついて、ぐっ、と顔をしかめるが次の瞬間には意識が途絶えていた。
(そうか……誘拐か)
 しかも、計画的だ。本来、こんな風に使える揮発性の薬品など一般人が手に入れられるはずもない。当然のように裏社会の人間だと分かるし、小さな子どもを誘拐するような手はずではなかった。そう、子供を誘拐したなら縄で縛っておくだけでいいのだ。両手両足を枷で壁につける必要性など何一つない。彼らは知っているのだ、くれはが己の異能で幼児のまま外見が止まっていることを。おそらくはくれはがポートマフィアの人間だと知っている。
 眼の前の人間は口元を歪めて笑った。――ああ、なんて見にくい笑顔だろうか。



* * *



 本部ビル内は騒然としていた。いつもなら、くれはの脱走に対して大仰な反応をする首領、森鴎外も静かに執務室の椅子に腰掛けているせいもあるのかもしれないが、其れ以上に起こっている事態に対して早急な対処が求められている。おそらくは、森の奥方――くれはの命はまだ無事である。机の上に肘を付き、組んでいた手を冷ややかに見つめながら森は、状況の報告に来た広津の言葉を聞いていた。
「――以前、奥方の行方はわかっておらず、連れ去った組織の実態を含め調査中です」
「ありがとう、広津さん」
 非情なほど彼は穏やかだった。急かすわけでも、怒鳴りつけるわけでもなく、逆に其れが寒々としていて広津はひくりと喉の奥が引き攣るような錯覚を感じた。次の言葉如何では自分が殺されるのではないかと思うほど清々しい笑顔である。――それでは、と報告を終え、次の言葉がないということは退室してもよいと判断した広津は一礼して部屋から立ち去ろうと踵を返した。途端、森が広津を呼び止める。
「何かわかったら、直ぐに教えてくれたまえ」
「はっ」
 短く返事をした広津が部屋を出ていく。ぱたん、と閉まるドアをしばし眺めた後、森は部屋に飾られているフラワーアレンジメントを見た。あれは森自身の趣味ではなく、この部屋が殺風景で寂しいと口にした妻、くれはのものだ。春めいた桃色やオレンジ、白の花で可憐に飾られた花の、オレンジ色の薔薇を抜き取って、くしゃりと握りつぶした。
 彼女が大人しい人間であるはずがないことは知っている。必ず帰ってくることも知っている。だから、半ば監禁に近い生活をさせながらも時折外へ出ていく彼女を深く咎めない。しかし。――しかしこうなってくると話は別だ。遺恨で連れ去られたであろうくれはは今甚振られているに違いない。
(さて……どこの誰だか)
 ――冷たい視線は窓の奥へと向けられ、握り潰された花びらは床に向かってひらひらと落ちていく。



* * *



 元々時間感覚がいい方ではなかった。
 くれはは八歳からその時間の体が止まってしまったこともあるからか、ヒトよりもずっと体感時間が遅く、ひどく長い時間を過ごしていたような気がするのに、実はほんの数分の出来事だったなんてよくあることだった。今日もどうやら同じようだ。何度か殴られて、小さな、身動きの取れない体では抵抗のしようもない。殴られた頬や腕、腹がじんじんと熱を持つが、しばらくするとそれもなかったことのように、何も感じなくなった。――止まっている時間に何をしようとしても、それは何も起こらない。時間停止に寄る"事象の拒絶"、それこそくれはの異能力の本質である。空間・認識・時間を狂わせるところで、それが起こったところまで時間が進んでいないと世界に認識させることで、くれはが殴られた全てが「なかった」ことにされた。といっても、この異能力は完璧ではないのでは、ダメージを負った直後は必ず痛みがあるということだし、餓死は防げないということ。時間が止まっていても、くれはの体には生命活動をするための最低限のエネルギーを必要としていた。時間停止による干渉の無効は起こるまでタイムラグがあるからだが――これではいいサンドバッグだな、とくれはは苦笑した。
(……懐かしいなぁ)
 もう、八年も前になる。くれははこんな風に枷に繋がれた。――殴られもしなかったが。
 あれは森鴎外が先代を殺した時のことだ。くれはは先代の子飼いとして、森鴎外に食って掛かった。彼を殺そうとしたのである。それは結局叶わず、くれはは殺されず、白の調度品で固められた綺麗な部屋に押し込められ、手枷足枷に繋がれた。食事を拒絶し、人間との接触を拒絶し、異能力故に死ねずにいたが――森の手によって無理やり生かされ続けた。暴れないように拘束され、点滴を入れられ、異能力を解いて出血死しようとすれば輸血を入れられ、傷の治療がされた。死ぬために必要なものは全て片付けられ、白い清潔なシーツの上でただ転がっているだけの――人生で一番退屈で、一番死にたかった日々。
(結局、あの人に折れたのは私。あの手を取ったのは私だった)
 ぼんやりと考えながら、くれはは静かに笑った。
 笑ったことが気に入らなかったのだろう、思いっきり拳がくれはの頬に入る。怒りの声が耳に入ってくるがそれを言葉としては認識できず、何を話しているのかくれはには全くわからなかった。くれはは途絶えかけている意識で男を見た。痛みはあっという間に消えて、以前の状態に戻った。それを繰り返せば、さすがのくれはの体力も底をつきそうだ。
 ――眠りかけた意識に、数多の銃声と爆音が響いた。
 普通の人間なら飛び上がっただろう。くれはは深淵の底に誘われるような眠りに必死に耐えながら顔を上げた。鉄のドアが軋みを上げた。蹴り破るよりなお悪い爆音にも等しい音を立てて、ドアがひしゃげて飛んでいった。無理やり開かれたドアの向こう側にくれははうっすらと目を見開いて、ゆっくりと目を細めて微笑んだ。
「――旦那様」
 うっとりとした、眠たげな声に森は微笑んだ。
 ポートマフィアの幹部を連れ、更に幾人の部下がいるのだろう、銃声があちこちで聞こえ悲鳴がくれはの眠たい意識を劈いた。くれはは手を伸ばそうとして、自分が枷に繋がれていることを思い出して少しだけ顔を顰めた。すると、ぱきん、と音を立てて手枷足枷が外れると、くれはの体は床に投げ出された。支えをなくしたくれはの体はあっという間にだらりと、寝そべった。
「駄目じゃないか、くれは、探したんだよ。あれほど、知らない人についていっちゃ駄目だと言っただろう?」
 優しい、柔らかな声だった。
 くれはは床からわずかに顔を上げた。そして、体が硬直するような錯覚すら感じる。――目が笑っていない。それどころか、全身に走る寒々とした殺気。助けに来たのではない、殺しに来たのだと思うほどに。もしも、体が動けていたのならば今すぐにここから逃げ出す程には。そう。その場にいた、誰もが動けないままただ森がくれはに近づいていくのを黙って見守っている。
「さぁ、帰ろう」
 差し込まれた手でくれはは床から離され、森の腕の中へ入れられた。黒いコートをかけられ、そっと抱き寄せられると森はあっさりと踵を返した。くれはを殴りいたぶった連中には一瞥もくれず、大した興味もないと言わんばかりである。そして、出口へと向かい、思い出したように振り返る。

「彼らは好きにしていい。生かさなければ、どんな風にしても構わないよ」

 ぞっとするほどに冷たい声だ。――思い出した、この人はマフィアの首領だ。
 忘れていたわけではないが、日頃自分に向けられる表情などからは比べ物にならない。すだ、この男は裏社会を統べる男であった、とくれはその腕の中で考えた。ふと、見上げてみればたまたま自分を見ていた森と目が合う。
「……旦那様」
「帰ろう」
 それしか言わなかった。夜の闇に紛れるように、森はつよくくれはを抱いて歩き出した。後ろから聞こえる声にも、銃声にも見向きもせずに。

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