穏やかな食卓


 本部ビルの中を歩いていた鏑木蓮の背中にぽすり、と何かが突進してきた事に気付いたのは短い腕が自分の体の横を通過してからだ。――気配はまるでなく、突然そこに現れたかのように突然である。鏑木はとっさに身構えそうになるがこの本部ビルでそんなことをしてくる人間はたった一人であったし、そもそも少し振り返るとポートマフィアの首領である森がくすくすと笑っている。視線を少しだけ落とせば、そこには夕日色の髪の少女が鏑木の背中に抱きついていた。
「くれはさん」
「れん、捕まえた」
 少し抑揚に欠けた片言のような拙い言葉遣い。回りきらない細い腕で鏑木を必死で掴んでいるのは、まさしく捕まえ、というに相応しいだろう。鏑木は少しふふ、と笑った後にくれはを軽く抱き上げる。
「捕まっちゃった」
「れんに捕まっちゃった」
 くるくると少しだけ回った後、鏑木によって優しく地面に下ろされる。楽しそうにふんふんと鼻歌交じりのくれはは洋服を来ていた。たっぷりとフリルのあしらわれた可愛らしいお人形のようなドレスだ。森が連れている少女、エリスは丈が短いものが多いが、くれはのは足元まで覆われそうなものだ。歩きづらそうだな、と鏑木は思うのと同時にあれでは標的を殺しに行くのが大変だ――と考えてかぶりを振った。確かに元々くれはは暗殺者であったが今は違う、いや、違わないのかも知れないが違う。森はおそらくくれはに仕事をさせる気など微塵もなかった。
 しかし、くれはが洋服など珍しい。本部内では基本的に、それこそ歩きづらい、いや、動きづらい白無垢を着せられていることが多いというのに。洋服なんてそれこそ――
「森さんと出かけるの?」
 くれははこくりと頷いて、再びとてとてと鏑木に近づくとぎゅうと抱きしめてきた。
「――れんも」
「俺も?」
 反射的に聞き返し、なかなか拙く要領を得ないくれはの言葉の補足を森にもとめて顔を上げた。目が合えば面白そうに眺めていた森は鏑木とくれはのもとへやってきて鏑木に抱きついたままのくれはの頭に優しく手を置くと頭をなでた。
「くれははね、私と、蓮と食事に行きたいんだって。この後の予定は?」
「――いえ、何も」
 ありませんけど、といいかけて、くれはがじと鏑木を見つめていた。一緒に行こう、と訴えかけてくる目に鏑木はうと言葉をつまらせた。せっかくの夫婦水入らずだろうに、と考えるよりも早くくれはを抱き上げた森が鏑木の肩に手を回して歩き出した。
「ちょ、森先生!?」
「いいじゃないか。せっかくだ、三人でご飯を食べてこよう。広津さん一押しイタリアンだよ」
 楽しみだねぇ、と笑う森にくれはもこくこくと頷く。ずんずんと進んでいってしまって気付けば出口だ。車がすでに外には待機していて、あ、このまま乗せられると覚悟した鏑木はせめて自分で歩かせてくれ、と森に訴えることになるのだった。


「おいしいね、れん」
「うん、おいしい」
 さすが、広津さんと口をそろえる二人を見て、森は頬を緩ませた。鏑木と森のグラスに注がれる赤ワインをしばしみやった後、森は静かに口に運んだ。くれははアクアパッツァを綺麗に切り分けるとたっぷりと口に含む。あまり表情が動く方ではないが、食べてる時の幸せそうな顔は相変わらず、つい鏑木も眺めてしまった。
「くれはさん、食べてるときは幸せそうだね」
「食べる、幸せ、噛みしめる……」
 おいしい……と繰り返すくれはに鏑木はついつい吹き出してしまう。なるほど、くれはの楽しみは食べることらしい。時折、鏑木と共に外出しても食べることを重点に置くだけはある。――とはいっても、外見に違わない食事量が限界なのでちまちま食べられるものの方が好きなようだが。
「れんも、食べてる?」
「うん、食べてるよ。おいしい」
 ――真逆、個室だとは思わなかったけど。
 まあ、森の安全というよりか、立場を考えれば仕方のないことか。真逆、レストランで狙われないとは思いたいが手段を選ばない連中はどこからでも襲ってくるものだ。くれはを巻き込まないためにも、裏口から個室に入るというのは防犯上正しい判断だっただろう。
「親子、水入らず」
「え?」
 くれはが満足げに頷く。森はそれをみてクスクスと笑う。
「くれはちゃんがね、蓮とご飯を食べに行くなら邪魔されない個室がいいって。ほら、どうしてもくれはは子供扱いされちゃうだろう?」
 ――それが愛らしいんだけどね、と笑う森。
「れん、私の息子」
 くれはの小さな手が鏑木の頭を撫でる。少し届かないが、鏑木がそっと頭を近づけると、小さな手が髪の毛の流れに逆らわないように優しく、優しく撫でていく。なんだか、きゅうと胸が熱くなるような、締め付けられるような。ニコニコと笑うくれはの口元にはソースがついているのが見えて、鏑木は笑った。
「――台無しだよ、くれはさん」
「はっ」
 くれはが照れたように動揺して慌てるので、ナプキンを手にとってそっと拭き取る。顔を赤くして椅子におとなしく収まったくれははやっぱり少女のようで。
「蓮、それは私の仕事だったのに!」
「だって、俺の方が近かったよ、森さん」
 少しだけ穏やかで、楽しい食事だった。

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