最後の夜は深かった
八月中旬。甲子園も残り、一試合となり熱気を孕んだ夜風が開け放った窓から入ってきて原田は若干の寝苦しさを感じて目を開けた。携帯をなんとか探り当てて開いてみれば夜半も深く、深夜二時。翌日、決勝戦の試合開始は午後からだったが、まだ眠って置かなければ明日に影響が出そうだ。深くため息を付いて、携帯を閉じて放り出す。
昨年の甲子園三回戦での敗退から一年。良く、ここまで来たものだと思えば充実していて、目まぐるしい一年だったと思う。明日の試合が終われば、あのワガママな二年エース、成宮鳴の女房役もしなくて済む。解放されるのだ、と思うと少しだけ寂しような気がして――原田は顔をしかめた。
(なんで、俺が寂しいと思わなくちゃなんねーんだ)
あいつにどれだけ振り回されたと思ってるんだ。と心の中で悪態をついてみるものの、苛立ちは解消されない。明日のことをふと思い馳せてみたが、正直緊張してきそうで余計に眠れなくなった。夜半だというのに、耳を突くセミの声や、熱気を孕む風が全て神経を逆なでして眠気を遠ざけさせてしまった。成宮には早めに寝ろと言った手前、いつまでも起きているわけには行かないと思うが、このまま寝ていても余計なことを考えそうだったので原田は布団から起き上がって、同室の吉沢や平井を踏みつけないように気をつけながらそっと部屋から出た。
もう夜も更けているからか、宿舎も人気がない。稲実の選手たちも大半が寝入っている時間で、原田も少し気晴らしをしたら部屋に戻ろうとは思っている。自販機で、飲み物でも買って、と思ったところで自販機の近くに人影を見つけた。柔らかな明るい茶髪は首裏から緩やかに三つ編みにされ、肩にかけられていた。日本人には中々見られない大きな緑色の瞳は原田を見つけると――にや、と少し口角を歪めて楽しげに微笑んだ。
「来ると思ってましたよ、意外と小心者のまっさとしくーん」
「……なんで、起きてんだよ」
盛大に舌打ちしてしまった。マネージャーで幼馴染の右京紅葉はほら、座りなよ、と自分の隣を手でぽんぽんと叩いて椅子から立ち上がるとスポーツドリンクを隣の自販機から二つ買うとそのうちの一つを原田へ手渡してきた。
「雅が、くるかなーって」
ぽすん、と原田より先に腰掛けて笑った。ペットボトルの蓋を開けて、交換するように手渡す。力がないわけではないがどことなく細腕の紅葉を気遣ってしまうがいらない気遣いだとはしっている。紅葉は原田が思っているよりも弱いわけじゃない。だが、紅葉はそれをいらない気遣いだと言うこともなくありがとうと朗らかに受け取るので、原田はどことなく毒気を抜かれたようにため息を付いてベンチに腰掛けた。
会話があるわけではなかった。だが、どことなく雑念が払われていくような気分になれるのは紅葉の性質なのかもしれない。紅葉は悪ふざけだってするし、感情を表に出すことも多いが――本質はひどく静まり返った凪のような人間だ。
「お前、なんで寝てなかったんだよ」
たっぷりとした沈黙の後、妙にささくれだっていた心が静まると原田は口にした。紅葉は一瞬、ほんの一瞬だけキョトンとした顔をしたが爽やかな笑顔を浮かべる。
「緊張しいの雅なら、夜中にふと目が開くかなーって」
と思ったら、自分も目が開いてしまったのですよ、と紅葉は横に座った原田の身体にそっと体を預けた。緩やかな熱と重さが心地よくて原田は少しだけ肩から力を抜いた。紅葉が原田の手を捕まえて、指を絡めてつなぐと夏だというのにその手は冷たく感じられた。緊張しているわけではなくて、単純に紅葉が筋肉質で常に体温が高めの原田に比べて冷え性なだけだ。だが、妙に熱を持った手にはひどく心地良い。
「大丈夫、なんて言ったら無責任?」
緩やかで穏やかな声。自分よりも圧倒的に小さな体で、手の大きさも半分くらいしかなさそうな紅葉はいつだっておおらかに原田に傍にいた。
「でも、大丈夫だよ。大丈夫。勝てるとは言わないけど、全力は尽くせるよ」
「勝てるって言わないのがお前らしい」
紅葉は精神論で話さない。剣道という、それこそ精神論の世界で生きてきたが、小さなからで生き抜くという過酷な環境に置かれていた紅葉は気持ちだけでどうにかならないことを知っている。楽な生き方を選択できない幼馴染に少しだけ同情もするが、そういう視点を持って接してくれることには感謝している。
「だって、わからないもん。勝負は始まってみないと、わからない。――でも、これだけ雅たちがやってきたことだけは真実だよ」
紅葉の声はすんなりと耳に入ってきた。楽観的なことは言わないが、悲観的なことは口にしない。はっきりと真実だけ伝えてくるからこそ、原田は少しだけ気が楽になってきた。気持ちが緩やかになってくると急に眠たくなったような気がして、瞼が重たくなる。それに目ざとく気付いた紅葉は原田の背を緩やかに撫でた。
「もう寝る?」
「……おう、そうする」
大きな欠伸を一つ。そんな原田を紅葉は優しく見守った。
立ち上がって部屋に戻っていく原田の後ろをとことことついていきながら、原田の部屋に戻ろうとしていないところに気付いた首を傾げて、服を掴んだ。
「雅、そっちじゃないよ」
反対だよ、と続ける紅葉の手を取って、原田は目も合わせず進んでいく。少しだけ見上げてみれば、少しだけ眠そうなのに耳が紅い原田がそこにいた。
「送っていく」
「ホテルの中なのに」
「いいだろ、別に」
同じ階だからすぐについてしまう。皆寝入っているからとても静かで、二人だけ。部屋の前で紅葉はふと立ち止まって原田を手招きした。こそこそと話すときのように口のあたりに手を添えた紅葉に合わせて、原田はいつもどおり身体を屈ませると紅葉はその頬にそっと唇を押し当てた。驚いた顔をして一瞬で離れていった原田にけらけらと楽しそうに笑って、おやすみと部屋の中に入っていく紅葉を少しだけ恨めしそうに見送って原田はため息を付いた。
窓の外は少しだけ明るくなっていて、ああ、もう寝なくては、と思って自分の部屋に戻るために足を進める。ぐっすりと休めそうだ、と肩をほぐして笑った。
――明日は決勝戦。
泣いても笑っても、三年の夏は明日で終わる。