まだ、もう少しだけ
げほ、と吐き出した咳と共に口元を抑えていた紅葉の白い手を汚した紅いそれを、紅葉は忌々しそうに見つめ、近くにあった布で乱暴に擦った。ベッドから起き上がるのも億劫なほどの体調不良はすでに3日目を迎える。昨日は指一本動かすことすらできなく、急な体調不良ということで、暮人に任されていた用事をキャンセルしたくらいだ。といっても見舞いがあるわけではなく、こういった時は基本的に面会は謝絶となり、紅葉は暗い、狭い呪術で覆われた個室に押し込められる。ベッドにはありとあらゆる呪術を書き込まれた札が並べられ、白いベッドに敷かれた、真っ白なはずのシーツにも呪術用の梵字が真っ黒な墨で書かれていた。
――この命は後、どのくらい使えるのだろう。
ぼんやりと、紅葉はベッドから見える薄暗い天井を眺めて思った。この体になったことに決して後悔があるわけではない。この身が柊家のためになるならば、喜んでどんな実験に出も、戦いでもできる。死ぬことすら恐れはしない。どの道、この吸血鬼に蔓延した世界等、人には死を待つだけ。ならば、その命を有用に使ってやろうではないか、と紅葉は思っている。そう、この命は使われるためにあるのだ。こんなところで寝ているためにあるのではない。紅葉はベッドから起き上がって、膝を抱えた。
『紅葉』
あの人――真昼様の声が聞こえる。あの人が死んでから――正確には一瀬グレンが持つ鬼呪装備の鬼となってから――紅葉の耳につく、あの人の声。消えない契約、逆らえない命令。紅葉を縛る、鋼の檻。紅葉はいまだ、真昼の幻覚に縛られて生きている。――いや、生かされている。きっと、紅葉の存在ですら、あの人の手のひらの上であったと思わざるを得ない。あの人は壊れていた。でも、あの人は美しかった。心が鬼に喰われて、壊れていくあの人の姿はとても美しいとすら思えた。初めて会ったのは、いつだったか。
あの頃はまだ、彼女は壊れていなかった。ただの、純粋で、一人の人を思い続ける強い、綺麗な、そういう人だった、はず、だ。右京家の命令で、真昼に仕えることになった紅葉を腹の同じ妹と同じ年だから、と妹のように可愛がってくれた人だった。そして、暮人を主と定めていた紅葉の気持ちをよくわかってくれた。忠義と、愛とは言えど、一人の人を思い続ける気持ちを共有していた。壊れていったのは、いつだったか。彼女の、実験台に何度も、何度もなった。右京家の人間はその呪術で比較的頑丈だ。
何度も、何度も再生するように作られている。だから、紅葉は真昼の実験台に喜んでなった。それで、彼女の心が救われるなら、一瀬グレンのもとに、敬愛する彼女が行くことができるのなら、彼女に与えられた力が柊家を、暮人様を間接的にでもお守りできるのなら――
――紅葉――
恐らく、紅葉の命はそろそろ終わる。いないはずの真昼の腕が、紅葉の体に巻き付いてくる。紅葉、紅葉、と何度も彼女が自分を呼ぶ声が聞こえる。いつから、この幻覚と幻聴を耳にするようになったのか、もう紅葉は覚えていない。ただ、"主"がいるという安堵感を、紅葉に与えてやまないその狂気に満ちた声はいつも言う。
――欲望に身を任せよ、と。紅葉は小さな体をさらに縮めるようにして、膝を抱え込んだ。冷えてくる感覚。足先と、指先の感覚がなくなる。徐々に、痛覚を、触角を失い始めているのかもしれない。
すでに、目は光を捉える機能が弱まり、弱視となりつつあった。だから、紅葉は知らないのだ。成長し、大人になった暮人の姿を。ただ、陰で見える暮人の姿を捉え、声を聞き、気配を感じることで彼の存在を確認していた。
役に立たないのなら、この目などなくてもいい。抉り出してやろうかとすら、思ったこともあった。この、翡翠の瞳を美しいと――決して本心ではないだろうし、ただ単に、世辞だったのだろうと紅葉は思っているが――言ってくれた暮人の声を思い出すと、途端に手は勢いを失くす。
真昼は契約で紅葉を縛るが、暮人はその声で、紅葉を縛る。彼の言葉に紅葉が従う必要も、意味も正直言ってないはずなのに、それでも紅葉は彼の言葉に縛られて今もなお生きている。
――暮人様に仕えたい――
暮人を思い出すと、心がじわじわと熱を帯びる。生きたい、死にたくない。と心が叫ぶ。それに過敏に反応した鬼たちが、真昼の影とともに現れる。こちらへおいで、怖いものなどない…と。忠義が、欲に変わればそれはただの、――と思いかけたところで、この地下室へ続く階段から足音が聞こえる。紅葉は思考を止めて、足音に集中した。誰だ。誰が来たのだろう。でも、聞きなれた足音に、顔を上げた。
「紅葉」
名前を呼ばれただけで、今まで聞こえていた真昼の声も、鬼の声も影を潜めた。暮人の声だった。なぜここにいるのだろう。
「早く、戻って来い」
それだけだった。たったそれだけ言いに来たのだろうか、彼は再び階段を上がっていった。ああ、早く戻らなければ。あの声を聞くと、逆らえない。まだ、もう少しだけ。もう少しだけ、この体がもってくれれば、それでいいのだ。暮人が望む、人間が吸血鬼を駆逐し、再びこの地上の人間の楽園を作り出す、その日まで。
この命はそのためにあるのだ。
――紅葉――
紅葉の前で、真昼がつまらなそうに頬を膨らませて消えていった。