あの人も、もちろん、人間です
鴎外が寝付いたのを確認して、佐登は静かに手を離した。穏やかな寝息を立てている鴎外の熱を確認したあと、数日は休ませたほうがいいだろうと思い、首領の寝室から執務室へと戻った。執務室にはすでに中原が訪れており、書類を確認していた。
「こいつぁ、俺じゃあ、処理できねぇな。緑さんに回すのか?」
「いつも半分近く、緑さんに回してるので申し訳ないのですが」
あの状態で執務させたくないので、と佐登は眉を下げて、困ったように笑う。今まで、体調管理はどうしていたのだろうか。もしかして、バレなければいいとか思って、そのまま仕事していたのだろうか、と考えると胸が痛い。ふう、とため息をつくと、中原が苦笑しているのが見えた。
「……まあ、手前ェがいてくれて良かった。俺らじゃあ、首領は聞いてくれなかっただろうしな」
「そうでしょうか。……無理やり、寝台に押し込んだだけなんですが」
「それでも、だ。首領の私室付近なんて、手前くらいしか近づかねえからな」
許されている、という意味で言えば、中原たちだってそうなのだろうが、彼らは中々私室フロアには近づかないらしい。まあ、気持ちはわからなくもない。私室付近に近づくのは未だに佐登だって勇気のいる行為だ。それでも、今日ばかりは仕方ない。執務室と私室の言ったり着たりをしなくてはならないだろう。まずはその前に、顧問役である緑に首領の休養と、書類や仕事に関するあれそれを打ち合わせしてきたほうがいいだろう。彼女はすでに本部ビル内に出社済みとのことなので、佐登が直接出向くことにした。その間に、中原は幹部でまとめられそうなものは手配しておくと言ってくれて、あとから紅葉も来ることを佐登に教えてくれた。――――ありがたい限りである。
「失礼します、顧問」
佐登がノックして部屋に入ると、そこには小柄な女性が机に向かっていた。佐登が入ってきたことに気付いたのか、顔を上げるといらっしゃい、と笑顔を浮かべて、ソファに座ったら、と勧めてくれる。佐登は困った笑顔を浮かべて、いえ、このままでと伝えると、彼女は少しだけ寂しそうな顔をした。
「どうしたの? 暮ちゃんが、ここに来るなんて珍しいじゃない」
遠回しに、森さんはどうしたの? と聞かれているような気がした。まあ、たいてい佐登の仕事の範囲内といえば最上階フロアだ。たまぁに下に降りることがあるが、本当にたまにしかないのだ
「実は誠に申し訳ないのですが、緑さんにお願いしたいことが」
「何かな! なんだろう、暮ちゃんにお願い事されたの初めてな気がする! 言ってご覧」
――――笑顔で言ってくれる緑に申し訳無さばかりがこみ上げてくる。
「……実はですね、首領が」
「森さんが? 森さんに無理難題でも言われた?」
「……風邪を引きまして」
しばし、沈黙。
そして、徐々に緑の顔色が変わっていき。
「え、ええーーーーーー!!!!????」
けたたましい声が顧問役の執務室内に響いた。あまりの声の大きさに外で待機していた護衛たちが驚いて部屋をノックしてくる。慌てて、緑が何でもないよ、と言って彼らを留まらせる。首領が風邪で寝ているなんて、幹部以下には話せない事情だ。万が一、外にでもバレたら大変なことになる。これを機にして攻めてくる組織があってもおかしくない。
「……症状は?」
「熱と倦怠感、頭痛のようですね。咽頭痛や咳はなさそうなので、侍医に見てもらって薬を処方してもらい、今は寝台で休んで頂いています」
一応、診断書です、と佐登は緑に一枚の紙を手渡した。
緑はそれを一頻り眺めたあと、佐登とその紙の間で視線をなんども行き来させた。その目をみて、なんとなく言いたいことは察する。
「森さんが、風邪……? あの、殺しても死ななそうな森さんが? 実は吸血鬼でしたって言われても全然おかしくない森さんが? ……風邪? 風邪で倒れたのあの人」
「厳密には、倒れる前に私が体調不良に気付いて、何やら言っていたところを無理やり寝台に押し込みました」
「意外と強かったね、暮ちゃん」
緑はうんうん、と頷きながら、佐登に診断書を返してくる。それを受け取ってファイルに戻すと、ふう、と佐登が頬に手を当てながら、ため息を付いた。
「つきまして、誠に申し訳ないのですが、本日から二、三日首領はお休みになられたほうが善いと思いまして」
「そうだねー。あ、そうか、それで私のところに来てくれたんだね」
「はい。顧問には本日中、もしくは二、三日中に決済の必要な書類に関しまして確認していただきたく。……相談役は、足取りがつかめなくて」
「あー……アスナさん、神出鬼没だから」
緑は苦笑した。一応、首領の相談役の地位にあてがわれているその人は鴎外の後見人でもあるらしいが、彼女がここに現れるとしたら病床にある鴎外をからかうため以外の何物でもないだろう。それくらいなら、いてくれないほうがすべて速やかに進むと思ったので、ふたりともあえて、その人物を探そうという気にはならなかった。
「書類の方は任せておいて、いつものことだし」
「復帰しましたら、緑さんの分も首領に回して頂いて結構ですので」
佐登はしれっと、とんでもないことを口にしているが、おそらくは実行されるのだろうな、と緑は思った。中々気の強い子だ。
「首領が復帰されるまで、私が緑さんのサポートをさせていただきます。書類の整理など、必要なことがあればお呼びください」
「いいよー。むしろ、森さんが逃げ出さないように見張ってて」
「然し……」
「森さん、風邪を引いて寝込むなんて、今までなかっただろうし。暮ちゃん、傍にいてあげて。どうしても困ったことがあったら連絡するから」
「……かしこまりました」
緑にそう言われてしまっては、さすがの佐登も無理してここで手伝うということもないだろう。確かに、緑の言うとおりに脱走とかの可能性も十分にあるし、甘えたいところもあるだろうから誰かは必要だろうとは思っていた。緑からの命令、というよりもお願いを聞くことにして、佐登は早急に確認してほしい書類をいくつか候補に上げて、資料なども手配していることを緑に確認した。
「……これだけ仕事してくれる秘書いるのに、どうして森さん、仕事しないの」
「……誠に申し訳ありません」
これでも、大分緑さんに回してた分、首領にやらせてるんです。