浅き夢見じ
鼻歌を歌いながら何かを準備している佐登を見て、鴎外はマグカップの中の珈琲を啜った。その隣には義理の娘の治子も座っていてわいのわいのと話をしながら準備をしている。明日は二人で外出なのだそうだ。二人が揃っていると鴎外は自分が放って置かれるのは目に見えているので何も言わないが、流石にちょっとかまってほしいし、何を準備しているのか気になる。「暮、」と呼びかけてみれば、漸く気づいたと言わんばかりに振り返った佐登が首を傾げた。
「あら? まだ起きていらっしゃったんですか?」
「……いないほうが良かったかい?」
「嗚呼、否、そういうわけではないですとも」
治子がぷっ、と吹き出してしまうので鴎外がそちらを睨む。ごめんなさい、と治子が笑いながら答えるので少し不貞腐れたように鴎外はそっぽを向いて、ソファに沈み込む。嗚呼、いじけてしまったわね、と治子が隣で苦笑する。全く、と佐登も少しため息を付きながら、鴎外に子ども用のエプロンを見せた。
「……何、それ」
「子ども用のエプロンです。明日、咲月ちゃんにお料理を教えることになっていまして」
私から、ちょっとした贈答品です。
佐登が少しはにかむようにして、エプロンを丁寧にたたむ。淡いオレンジ色に猫の模様が着いた可愛らしいものだ。そういえば、治子となにか話し合っていたなぁなどと鴎外は思い出して、佐登が告げた明日の用事について気になった。
「料理?」
「ええ。この間、チーズケェキを、嗚呼、否、何でもありません」
「待って? 私、チーズケェキの存在知らないのだけれども」
鴎外がソファから身を乗り出す。そうだ、あのときのチーズケェキは鴎外が食べるはずだったものを仕事が終わらなかった意趣返しにとおみやげとして持っていったのだった。耳ざとく、チーズケェキの単語を聞いた鴎外が、じっと佐登を見てくる。明日は咲月が怪我をしなくていいようにと、一番簡単なプレーンのものと、ブルーベリーをたっぷりと使った二層のものの二種類を作る予定だ。買い出しは行く前に治子と済ませるという手はずになっている。鴎外のあの目は自分も連れて行け、と主張していた。
「……治子ちゃん、」
「だめよ、暮。目を合わせたら、負けよ」
義父に対して治子は容赦がなかった。目を合わせないようにしようと、佐登もそそくさとあたりのものを片付けて治子と共寝をするための準備でもしようかと思ったのだが、足がにゅ、と伸びてきたかと思うとあっさりと捕まえられて足の間に閉じ込められてしまう。あ、と思ったときには遅かった。
「首領っ、」
「首領はここにはいませーん」
「大人げないこと言ってなくていいですから、離してください、鴎外さん!」
家で首領と呼ぶと途端にこれだ。鴎外は不貞腐れた顔をしながらも佐登を確りと抑え込んでいる。バタバタと暴れてみるものの、この細身にどんな力があるのだろう一向に抜け出せそうにない。治子に救援を求めて手を伸ばしてみたものの、ははは、と苦笑されるばかりだ。助けて。
「私も行く」
「何言ってるんですか、護衛の問題とか面倒なんですよ」
「あ、暮、面倒って言っちゃうんだ」佐登の発言に治子が笑う。事前に準備するなら、大変ではないというのが佐登の本音だ。こうやって突発的になにかしようとして、人員を割かせて動かすのが意外と骨が折れる。首領の護衛だからと言って、簡単にその日の人員をきれいに持ってこれるかというとそうではない場合もある。余剰な人員がある時なら、まだしも……そも、明日は中原も、鴎外も休暇の予定が組まれている日なのだから、余剰人員がどれほど出せるか……などなど、佐登が頭を捻っていると鴎外は佐登に腕を回して自分の膝の上に収めた。
「ええ、いいじゃない。中也君の家でしょ?」
――――治子もいるし。
「また、そんな適当なこと言って……あと、おろしてください」
ぺしん、と一発。腹回りを抱こうとしていた手をはたき落として、佐登は少し赤い頬を隠すようにして、顰めてみせた。おそらくは治子の側からは丸見えだったのか、くすくすと楽しげに笑う声が聞こえる。今度は佐登が少しばかり頬を膨らませて治子を見る。
「ねぇ、暮」
「……甘えた声を出してもだめですよ。中原幹部を困らせてしまいます」
――――それにあなたがいたら、杏さんも、咲月ちゃんも警戒してしまうでしょう。
ご尤も、と治子が頷く。そもそも、ポートマフィアの首領がそんなおいそれと出かけていいものか。佐登だって、考えてみればすごく久しぶりの外出なのだから。佐登がいそいそと鴎外の膝から降りる。随分とあっさりとおろしてもらえたなぁ、と思って治子のそばに寄ってみれば、鴎外は意外にもあっさりと舌表情で立ち上がった。
「それもそうだ。では、私は先に休むけれども、二人も早めに寝るのだよ? 夜ふかしは乙女の大敵だからね」
ではでは、と言いながら、鴎外はあっさりと自分の寝室へと向かっていった。普段二人で使っている寝室は、今日治子と暮がパジャマパーティーのために使用することが決定しているので、鴎外はそちらに寝室を移したのだ。おやすみ、と言われたので、二人でおやすみ、と返して、ばたり、と扉が閉じるまでの間その背中を見守ってしまった。そして、顔を突き合わせる。
「……な、何なんでしょう、あれ」
「……ええ……あの、パパは読めないわ……」
存外、あっさり引いた割には着いてきそうじゃない?
治子の言葉が、現実になるまで残り十時間足らずのことである。
中原のセーフハウスはいつもよりも少し浮足立っている咲月が朝からソワソワと玄関と居間を行ったり来たりしていた。まだかな、とつぶやくこと十回目である。杏はといえば、それを見てクスクスと笑ったり、もうちょっとよ、と優しく声をかけている。今日は何かあっただろうか、と中原は首を傾げつつ、カレンダーに赤く丸がされているのを見つけた。あれはなんだ、と杏に聞いてみれば、彼女が笑いながら応えた。
「今日はお料理教室なんですって」
「はぁ?」
「暮さんが以前持ってこられたチーズケェキを習うんだそうで」
「……佐登のやつ、最近こっち来すぎじゃねえのか」
中原の懸念は護衛云々ではなく。おそらくそちらは治子も着いてくるのだろうから気にしていない。むしろ、首領――――鴎外の方だ。今日は鴎外も休暇をとっていたはずで、本来なら二人で逢引をしたり、ゆったりと家で過ごす日だったのではないだろうか。数少ないそのような日を邪魔して、後で側杖を食うのではないかと考えてしまうのが幹部の悲しいところだ。この手の側杖は下級の構成員よりも接触が多い上級の構成員のほうが多い。特に、この用件で佐登がここを訪れるのならば、完全に嫌味を食うのは中原だった。
「佐登さんも楽しみにしてる、って治子さんが言ってました」
「……まあ、佐登も外出は多いほうじゃ、ねえからなぁ」
中原は困った。下手に外出するよりかは、こちらのほうが安全なのはわかっているが。だからこそ、首領も文句言わずに送り出しているのか、と思ったところでチャイムが鳴った。っと、と思いながら中原はいつもどおりにドアホンを手に取る。「佐登です」と聞こえてきたのは、少し疲れ果てた佐登の声だった。何かあったのか、と思うよりも早く鴎外と一悶着でもしてきたか、と中原は察して、今、開けると告げる。そわそわとこちらをみている咲月に対して、佐登だとよ、といえば、駆け出すようにして玄関に向かっていった。それを追いかけるようにして、ついていって、そして、扉を開けたことを心から後悔した。
「やぁ、中也君、良い天気だねぇ」
足元にぴゅうと駆け出してきた咲月に何事かと思ってみれば、にこにこと笑っているのは鴎外である。両手にはスーパーの袋。服装はいつもに比べずっとカジュアルで、どこにでもいそうな男性だ。その隣では治子と佐登が苦笑しつつ、咲月に挨拶をしていた。なぜ、ここに、と聞くよりも早く鴎外の手から荷物を取り上げてしまったのは、部下の悲しい性である。
「だって、暮が、チーズケェキを作ると言うんだもの」
はぁ。居間に鴎外を案内して、杏もとっさに身を固めてしまったが、鴎外が鷹揚に気にしないでくれ給えというので困ったような視線を中原にちらちらと向けつつも彼女はやってきた佐登と治子とチーズケェキを作るための支度を始めている。
「前回作ってもらったときは食べれなかったからねぇ」
――――ええ、ここで振る舞われていましたから。とは中原は言えずに、とっさに黙り込む。
「なので、着いてきたのだよ」
おそらく、本当の目的を述べるなら、咲月と杏のことでも見に来たのだろう。杏にいうほど興味がないとはいえど、一応中原預かりにしているし、咲月に至っては思い出づくりが重要だと判別したばかり。佐登をこのように差し向けているのも、いわゆる思い出づくりの一貫というやつだ。鴎外にしていうなら、佐登の息抜きもできて一石二鳥と言ったところか。
「これ、いいんです、か?」
「ええ、私からの気持ちばかりですが! 可愛いと思うんです!」
佐登が子ども用のエプロンを咲月に手渡しているのが見える。佐登は詳細について知らないにせよ、咲月が記憶を代償にして異能力を使うということは知っている。いずれ、アレのことも忘れてしまうと知っていてもなにか、形に残るものを渡さずにはいられなかったのだろう。喩え、忘れられる悲しみを感じることになったとしても。
「一時間かけて選んだらしいよ」
鴎外が少し遠い目で、佐登を見ている。ああいう清廉潔白さと言うのはポートマフィアでは少しばかり貴重だ。中原は、はあと答えつつ、鴎外がなぜ佐登に武器を取らせたがらないのかわかる気がした。戦えるようになったときに、佐登はああいう甘さを切り捨ててしまうだろうとすぐに理解できたからだ。
「では、今日は二種類を作ろうと思います」
はぁい、と揃う、治子と杏と咲月の声に黒い猫の着いたエプロンをつけている佐登がうんうんと頷いた。教師役というのはどうにもなれないが今回作るレアチーズケェキは混ぜるだけなので、簡単だ。おっと、と思い出した佐登はおもむろにビスケットの箱を取り出して、袋詰めにすると、麺棒と一緒に鴎外に差し出した。
「粉々でお願いしますね」
「はぁい」
「一寸、一寸待て、佐登」中原に止められて、佐登は首を傾げた。
「手前、しれっと首領にやらせてんじゃねえよ」
「いいえ」佐登にしては強い口調だった。「ここにいるのは首領ではなく、鴎外さんです!」
なにか、二人の中で明確に区分があるのだろうか、と中原は一瞬顔をしかめて佐登を見る。すると、じゃあ、中原幹部にも差し上げます、と言われ同じく袋詰にされたビスケットを渡された。潰せと、と見てみれば、粉々です、と返ってくる。佐登はくるりと咲月に振り返ると、ニコリと笑う。
「ああやって、ビスケットは粉々にします。少し恨みを込めるくらいでいいです」
「おい、手前料理教える気あんのか」
「うらみ、をこめる」
「咲月もそんなところ覚えてんじゃねえよ」
どうやらこれはチーズケェキの土台になるらしい。佐登が教えているのを中原は意識半分程度に聞いていた。鴎外が意外と潰すのって大変だよね*というので、中原は自分の分をさっさと終わらせて(途中、異能力も使って潰したのは誰にも言わないが)鴎外の分も引き受けた。潰した分は咲月に手渡してほしいと言われたので、咲月にわたす。それに、電子レンジで温め溶かした乳酪を入れる。袋の上から揉んで乳酪をなじませると、佐登が持参してきたチーズケェキの型にそれを広げて匙で押し広げて、均す。
「ぎゅ、と押さえつけていいですよ」
「……こう?」
「そうそう。あ、杏さん、できるだけ平らになるようにしてください」
「こう、ですね」
「そうそう」
ビスケットでできた土台はラップを掛けて冷蔵庫で冷やすらしい。中原宅の冷蔵庫に広い隙間が用意されていたのはこのためか、と中原は思いながら咲月と佐登がそれを冷やすために冷蔵庫の前にいるのを眺めた。
「じゃあ、ここからは種づくりです。まずは少しクリィムチーズを温めて、それをボウルの上でなめらかぁになるまで混ぜます」
「なめらかぁに」
「そうです、なめらかぁに、です」
意外とチーズが硬いのか咲月がうんうんと言いながら混ぜている。途中で杏も加わって混ぜてなめらかになったそれに、佐登は砂糖と生クリームをいれた。泡立てちゃだめですよ、と言われ丁寧に丁寧に混ぜている。レモン汁とヨーグルトも入れ更にかき混ぜると、別にとってあった生クリームで溶かしたゼラチンをいれて更に混ぜる。混ぜている間、咲月が少し楽しそうな顔をしているのが見えた。ビスケットを砕くのが終了した時点でお役御免となっている鴎外と中原は黙ってそれを見ているだけだ。
「じゃあ、濾したら、これを型に流し込んで、冷えるのを待つだけです!」
「完成?」
「冷えたら、ですね。最低でも三時間は待ちましょう」
型に流し込んで、むらなく空気を抜いたそれを冷蔵庫へとしまった。咲月がキラキラと目を輝かせているので、完成が待ち遠しい。冷えるまで少しだけお話とかしましょう、と治子たちに誘われて、女子は女子の話へと盛り上がっていくのだ。今日は鴎外もいるので、流石に恋バナとかで盛り上がったりはしないかわりに、治子たちが持参してきたカタログで、杏の服やら、咲月の服やらを話し合っている。ここで話したものは後日、治子が買ってきてくれるのだろう。
「……首領」
「うん?」中原に話しかけられた鴎外は少しだけ視線を向けた。
「善かったんですか。佐登と、休日を過ごす予定だったのでは……」
「嗚呼、いいとも。楽しそうだからねえ」
柔らかい、目をする。エリスをみているときにそのような目をすることは度々あるが、こうして佐登に向けているのを見るのはどうにも慣れなくて中原はむず痒くなる。先程まで感じていた胃痛はどこへやら。だが、然し、鴎外の目がすっと細められて、咲月へと向いた。
「いい、思い出になりそうだね」
その言葉の意味を中原は理解している。そうですね、ときゃあきゃあと盛り上がっている四人には聞こえないように返して、紅茶を淹れてきますと言って立ち上がった。
ブルーベリーのゼリーを乗せたほうが冷えるのに時間がかかったため、最終的には六時間近くかかって、チーズケェキは完成した。
キラキラと目を輝かせている咲月にせがまれるようにして杏が切り分けている。佐登はプレーンのチーズケェキに合わせて、ソース持ってきたのでどうぞと言って出していた。更に盛り付けられたケェキを見て、中原は少し目を細めた。確かにこれなら簡単に、咲月にも作れるだろう。
「ん*美味しい」
「宜しゅうございましたね」
ふう、と佐登はため息を付きながら満足げな鴎外を見て、苦笑する。咲月ももぐもぐと食べているので、問題はなさそうだ。
「どうです? できそうですか?」
「分量図って、混ぜるだけ」
「一応、簡単な作り方はメモしてありますから。どうぞ」
絵柄付きのものだ。所々にパンダのような生き物がいるのは、もしかして佐登はパンダが好きなのだろうか、と咲月は一瞬首を傾げてしまう。似ていないこともないが、一寸不思議なパンダだなぁと思ってみていると、佐登が少し照れたように「あ、いや、あの、か、かわいいかな!? って」と言い繕っている。かわいくない、こともない。うん。
「暮さん、ありがとう」
咲月がそういって顔を上げるので、佐登は朗らかに笑った。少しでも、善い思い出になってくれたのならば、よかったのだが。喩え、それが忘れてしまうとしても、という自己満足になっていないか不安になるが。
「こちらこそ、楽しかったですよ」
こうやって、杏や、治子たちと女の子らしく過ごせるなんてそう何度もあることではないのだから。