「やめ、て」

 紅葉の小さな声が、綱吉の耳に届くことはなかった。もしも、もしも届いていたのならば現状が変わっていたのかもしれない、と紅葉は頭痛に揺れる思考で考える。どうして、やめて、と言ったのかすら今の紅葉には理解するすべはなく、ただ、濁流のように押し寄せるに毒の痛みに耐えなければならず、意識を失わないようにとするだけで精一杯だった。崩れ落ちようとする体に鞭を打つように、必死に腕に力を入れる。エメラルドのような瞳から、一筋の涙が溢れて、落ちた。校庭の砂の上に涙が一つ落ちたぐらいでは、何も変わらないのと同じように、紅葉の口からこぼれ落ちる小さな言葉では、綱吉も、XANXUSも止めるには至らない。
「お願い……おね、がい…っ」
 それでも、紅葉は願うように言葉を発する。走り出して止めたい。綱吉の憐憫のこもった瞳がXANXUSを見下ろしている。あの目を、あの声を、あの言葉を、紅葉は知っている。知っていた。知っていなければならない。それは、かつて――――紅葉が最も愛おしく、そして、最も忌々しく感じていた記憶。最も知りたいと願ってやまなかった記憶。

「やめて、ツナ――――!」

 紅葉の声は虚しく、綱吉はXANXUSの腕に手をかける。静かに、XANXUSを見下ろし、そして一度目を閉じる。これで戦いが終わることを願って。XANXUSの怒りに染まった瞳が、驚きに見開かれている。
「零地点突破、初代エディション」
 静かな声と共に、綱吉の手がかざされている腕の部分からXANXUSは凍り始める。それはやがて全身へといたり、XANXUSを眠らせるゆりかごが再び出来上がるのだろう。凍りゆくXANXUSの瞳は、未だ怒りに満ちている。綱吉にはその怒りの理由がわからない。どうして、そこまで怒りに身を任せねばならなかったのか。少なからず、XANXUSという男の側には紅葉がいたのではないのか。紅葉は自分の記憶を消さなければ生きていけないほど、XANXUSという男を必要としていたと綱吉はリボーンから聞いた。なのに、どうして、この男は――――。
「……なぜだ。なんで、お前は……」
「うるせぇ!!」
 綱吉の言葉を切り裂く、XANXUSの怒りの声。それは、綱吉が今まで生きてきた中で感じたこともない憎悪が込められていて、びくりと一瞬肩が震える。それと同時に、どうして紅葉がXANXUSという男に惹かれたのか、わかったような気がした。紅葉は空っぽだ。何の感情も、紅葉自身は宿していない。強い感情を有する人に惹きつけられる。だから、紅葉はXANXUSを求めたのだ。XANXUSの、ここまで強く燃え盛る、怒りに。憎悪に。激情に。紅葉はそこに光を見出したのだ。平穏と離れることを、理解していても。
 XANXUSの赤い瞳が、驚きに揺らいだ。先程の怒りとは違う、その驚きの視線の意味を綱吉が理解することができず、だが、XANXUSは綱吉の先にいる影に向かって声を発した。
「来るんじゃねえ! 紅葉!!」
 綱吉が驚いた顔で後ろを振り返れば、紅葉がいた。感情の宿らぬ顔、瞳で、刀を構えて立っていた彼女はXANXUSの声で動きをピタリと止め、そして、もうあと僅かで全身が凍りついてしまうXANXUSを見ている。今にも、泣き出してしまいそうな顔をして、首を振った彼女の口から、小さく、本当に小さな声で「XANXUS様、」とこぼれ落ちたのを綱吉は聞いた。

「いや、……いやっ、XANXUS、さま、XANXUSさま……っ」
 ――――命令して。
 私に、あなたを、脅かす全てを殺せ、と命じて。

 来るな、なんて言わないで。
 あの、八年前。
 無力だった私と同じように、今の私を扱うあなたは。

「あ、ああっ」

 また。
 私を置いて、凍りついてしまうというのですか。

 XANXUSの全身が凍りつき、まるでオブジェのように静寂となる。全てを燃やし尽くしそうだった怒りも、憎悪も全て氷の奥へ封じ込められてしまい、まるで片鱗も感じられない。どさり、と膝から崩れ落ちた紅葉は、しばらく呆然とXANXUSが眠っている氷を見つめていた。何も考えられない、と言った表情を浮かべたまま、ただ、氷を見つめていた紅葉が、ゆっくりと動き出し、そして、まるで確認するかのように、指でなぞる。冷たい、感触だけが、指先に伝わり、紅葉はゆっくりと顔を上げて、XANXUSを見上げた。
 ――――強い、痛み。
 胸に差し込む、刃で貫かれたかのように痛みが、ゆるゆると蘇ってくる。どうして、今まで全て忘れていたのかと、紅葉はただ、その緑色の瞳から涙を流して、座り込む。
「あ…………ざ、ん、ざすさま。XANXUS様、……XANXUS、さま………どうして、あ、あ、ああ、」
 何度も、繰り返し。
 XANXUSの名前を呼び、紅葉は氷を抱きしめるかのように、手をのばす。まるで、親を求める子供のように、恋人を求める女のように、その瞳から大粒の涙をこぼして、地面を濡らし、ただ、XANXUSのぬくもりを求めた。八年前、同じようにして、失ったその全てを思い出して、紅葉の心を占めたのは昏い、暗い絶望だ。また、失ってしまったのだという理解だけが、冷静に紅葉の頭の中に現れて、それを否定する幼い心が現れる。もう、何もかもが紅葉の中でめちゃくちゃにせめぎあい、そして、ついに壊れた。

「あああぁっ、いやああああああああっ!!!!!」

 絶叫。
 夜の闇すら、氷の静寂すら切り裂く、紅葉の絶叫が並盛中学校全体に間違いなく響いていた。絶望に身を任せ、叫んだその声に、その場にいた全員が驚いた。通信機器にすら、紅葉の声は入っただろう。守護者全員が、つんざくその悲鳴を耳にしたことになる。
「……紅葉」
 綱吉が残りの気力を振り絞るようにしてなんとか、立っている。その名前を呼び、紅葉へ手を伸ばそうとするが、紅葉は綱吉の声も、姿ももはや目には入っていない。おそらく、現在がリング争奪戦が行われているということすら忘れているだろう。八年前の記憶が戻った衝撃で、紅葉は今、十四才の右京紅葉ではない。XANXUSに庇護されていた頃の六歳の子供になっている。――――生きることを拒絶し、周りからの手を全て拒否したあの頃の紅葉である。
「……XANXUS、さま。XANXUS様…………ざんざす、さまぁ……いや、どうして……どうしてぇ……っ」
 置いていかないで。
 一人にしないで。
 紅葉の手は氷をかきむしった。しかし、それは虚しく、傷をつけることすらかなわない。ぎりぎりと硬い氷を裂こうとした結果、紅葉の爪が割れて、そこから血が溢れ出す。だが、紅葉はやめない。必死で氷をかきむしり、時には、その素肌で氷を何度も、何度も叩きつけて、XANXUSを救い出そうとした。それがかなわないと、知っているはずなのに。結末を理解しているはずなのに、紅葉は、やめられなかった。
「XANXUS、さま……おね、がい…………ひとり、に、しないで……っ、おいて、おいて、いかないで……っ」
 ばん、と強い叩いた拍子に紅葉の皮膚が、裂けて、血が流れる。
 痛い。
 痛くて、痛くて仕方がない。
 だが、それ以上に紅葉の心が、頭がいたい。苦しくて、息ができない。XANXUSがいない、という現実そのものが、紅葉を絞め殺していた。
「あっ……どうして、どうして、壊れないの……っ、XANXUS様、XANXUS様、を返して、どうして……」
 どれほど、紅葉はそうしていたのだろうか。その間、何度も綱吉に呼びかけられ、やめろと言われても紅葉の耳には届いていなかった。何度目かの殴りつけが終わり、紅葉は漸く理解した。いや、とっくに理解していたことを心が受け入れたとでも言うべきなのだろうか。――――XANXUSは助けられない、という現実を、紅葉は漸く受け入れ、そして、考えることを、やめた。
「…………紅葉?」
 突然動きを止めてしまった紅葉を、綱吉はおかしいと思った。先程までの動転具合からは想像もできないくらい、紅葉は一気に動きを止めてしまった。ぺたりとXANXUSの氷の前に座り込んで、そして、何も言わなくなった。先程まで、あれほど子供のようにXANXUSを呼び続け、声も枯れかけていたのに、今は嗚咽の一つすら聞こえなくなり、綱吉は崩れ落ちた体を引きずるようにして、紅葉に手を伸ばす。無理やり、肩を掴んで、振り向かせた紅葉の緑色の瞳は――――死んでいた。
 浅い呼吸。
 焦点の合わない瞳。
 綱吉を近くで見ているはずなのに、その瞳には何も、映っていない。
 力の抜けた体は、ぐたりと、何もできなくなっている。
「…………………どう、して」
 小さな唇から、そっと落ちる声。
 はらはらと瞳から、とめどなく落ちる涙。もう、自分でも止めることができないのだろう。
「……どうして、死なせて、くれないの」
 唇が僅かに震える。
「………………どうして、」
 紅葉の体はぐしゃりと崩れ、地に伏した。

「どうして……俺に、くるな、って…………XANXUS、様」
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