少しだけ、近づいてもいいですか
鬼を調伏するための訓練を終え、姉である亜簾那と離れたのはつい、30分ほど前の話だった。今日は、十条家に戻って訓練の成果を伝えなければならないから、とグレンの家には寄らずに真っ直ぐ帰ってきた美十が部屋に入ると、すぐに携帯が鳴った。
こんな時間に誰?と思いつつ携帯を開くと、十条家には伝えずに姉が独自ルートで手に入れた盗聴が全くされていない携帯電話の番号の表示に、美十はついつい緊張が走ったのを感じた。何か、あったのだろうか。亜簾那は今、従者も誰も連れずに、あの高層マンションの広い広い58階フロアでたった一人で生活している。まさか、百夜教から襲撃を……と考えて、そんな暇はない、と慌てて電話を取った。
「姉さん」
少し声に緊張が混じってしまったのを、美十は重々に理解している。恐らく亜簾那もそれを分かったのだろう、携帯の向こう側で亜簾那が苦笑しているのが何となくわかった。
「別に大したことじゃないんだけど……あのね、ちょっと助けてほしくて」
「…?」
十条家が亜簾那に買い与えたマンションは所謂高級マンションと呼ばれる部類のもので、エントランスには、コンシェルジュが控えているタイプのマンションだ。60階建てのそれの上下の2フロアを全て買い取り、58階のフロアを亜簾那が一人で使っている。部屋は全て6室あまり残っているというのだが、実際には上下のフロアは十条家の護衛――という名の暗殺者たちが24時間体制で亜簾那を監視しているという徹底ぶりだった。
この、コンシェルジュも恐らくは、十条家が手を回した人なのだろう。オートロックを開けて、美十がエントランスへ入ると丁寧な礼と共にすぐにエレベーターへ案内され、亜簾那が住まう58階のボタンが押された。
エレベーターの中で一人になりながら、持ってきた紙袋の中を確認した。――喜んでくれるだろうか。と思いつつ、エレベーターが止まるまで待つ。さすがに、60階近くともなれば、時間がかかる。エレベーターが止まるまでが余りにも長い時間に感じられて、少しばかりだが自分が姉に会うことを楽しみにしていることに美十は気づいた。以前だったら、こんな風に思えただろうか、と考えつつも、58階で止まったエレベーターから降りて、姉の部屋のインターホンを押した。
「いらっしゃい」
ほどなくして亜簾那が姿を現す。インナー姿の彼女は何か困った様子を表情に浮かべて、美十を部屋へ招き入れた。整理整頓の行き届いた、几帳面な姉らしい綺麗なリビングダイニングを抜けて、亜簾那が寝室として使っている部屋へはいると、それまでの様子とは全く異なった、物が散乱した部屋になっていた。
「姉さん……」
「いや、電話でも言ったんだけど……何着て行くか、まったく決まらなくて」
「お出かけだなんて、急にどうしたんですか?あ、私の服を持ってきましたよ?」
姉の部屋は、思った通り物がないというよりも、必要最低限以外の物品がないという印象だった。恐らくは、十条家からきつく言い渡されているのだろう。自分の証拠になるものはできるだけ、ここには残すな、と。
「ありがとう……!俺の服じゃ、こう、味気ないっていうか」
「機動力を意識しすぎなんですよ、姉さんは。とりあえず着てみてください」
「うん」
インナーといっても、ほぼ下着に近い服装だったから、亜簾那はすぐに持ってきてくれた服を着た。ふわふわとしたトップスに、ショートパンツ。サイハイソックスに、髪留めも可愛らしいリボンへ変わっている。
「おお……誰だこれ」
「姉さんですよ!さっすが、可愛らしいです!!」
同じ顔立ちをしている二人が鏡の前で並んでいるなんて、何とも奇妙な心地だが、まるで、自分が自分ではないような錯覚に、亜簾那は少しばかり照れくさくなってしまった。うん、女の子らしい格好をすると、それらしく見えるものだな、と思って顔を背けた。
「それで、誰と出かけるんです?」
美十の何気ない質問に、亜簾那は顔をこわばらせた。え、いや、と返答にならない返答を繰り返す姉に、顔を顰めた。何か、隠し事だろうか、とじっと、その青い瞳で亜簾那を見つめてみるものの、亜簾那は目を合わせようとせず、必死に何かを隠そうとしている。
「と、ともかく、ありがとう!今日は泊まっていったら?」
「いえ……まだ、お父様とお話しできてませんし」
「そう!?ほら、じゃあ、気を付けて帰ってね!!」
「ちょ、姉さんっ!?」
ひどい姉だな、と思いつつ、美十を部屋の外へ追いだして、亜簾那ははぁ、と玄関でため息をついた。そして、少し前のことを思い出した。
「なぁ、明日、出かけないか?」
いつもと同じように訓練を終えて、家に帰るといった亜簾那を出迎えた五士がそういったのは夕暮れによって、オレンジに染まった街並みの中だった。出かける、といわれて一瞬何も思い浮かばなくなった亜簾那は言葉を失って、ただ、五士を見上げていただけだった。
「買い物。少しだけ、恋人らしいことしてみてぇなぁって」
思ってさ、と言葉が紡がれるまでの間、亜簾那はふと、そういえば、この男と所謂恋人関係になったんだ、ということを思い出してしまった。一緒に家に帰ることが最近当たり前になって意識していなかったが、この男はそういった意識を持って、自分を送り届けてくれていたことに嬉しさと、照れが入り混じって何とも言えない気持ちになって、五士を見ることができなくなった。
「嫌か?あ、それとも明日、何か用事でもあるか?」
――明日は、訓練が休みになった。
毎日毎日、日程を詰めて訓練をしても、という配慮から出はなく、これまでの研究や訓練の成果を整理する時間がとられた訳だ。明日からまた同じように訓練が再開し、鬼呪をコントロールするために、研究が進められる。
いつ、戦争が起こるかわからない緊張状態の中で、言うようなことでもないことは亜簾那が一番わかっていた。だが、悔いの残らないようにという思いが五士の中にあることは何となく察せられた。亜簾那も同じだ。後悔だけは、したくなかった。
「別に、ない、けど」
「じゃあ、行こうぜ」
突然決まったデート、だ。緊張してしまって、夜も眠れそうにない、というか、元々夜は眠れない方だ。これから先、この緊張と、胸の高鳴りと、欲望の高まりを感じながら、長い長い夜を過ごさなければならないのか、と思うと気が遠くになりそうだった。
鬼の、ささやく声が聞こえる。
――彼と一緒にいたいんだろう?
――さあ、僕の手を取るんだ。
未だ、彼を鬼呪にする方法すら浮かばない自分。このままでは、自分は消えてしまうんじゃないだろうかという、恐怖すら感じる。ああ、真昼も、彼女もこんな気持ちで生きてきていたのだろうか。
恋をしなければよかった、だなんて思ってしまうことすらある。でも、それでも、今自分がここにいることの意味を噛みしめなければならない。彼がいてくれることの暖かさに感謝しなければならない。
早く、早く明日にならないかな。
期待に火照る逸る気持ちを抑えながら、朝を待つ。