夜の兎は眠れない
「あら、はじめまして。――夜の兎さん」
――黒い番傘には真っ白な花が散らされた"粋"な模様が見える。
真っ赤な大きい瞳が阿伏兎を視界に捉えて、穏やかに微笑んでいた。阿伏兎は瞬間的に察した。こいつは危険だ、と思った瞬間に阿伏兎は夜兎の本能と、自らの夜兎の血を愛でる心が交錯し足がすくんだ。
「どうしたの? 俺を始末するように言われてきたんじゃないの?――春雨に」
それが当然であるかのように、少女は首を傾げて問うてきた。しゃん、と鈴が鳴るような声だった。
「あらぁ、お嬢さん知ってんのかい?」
「邪魔になったんでしょ? 春雨ってそういうところだから」
「……困ったなァ。おっさん、共食いは趣味じゃねェんだよ」
そういうとくすくすと笑いだした。自分の命が狙われているというのに、この笑顔を浮かべていられるのは夜兎という血の成せる業なのか、それとも――少女の足元に転がっている数多の死体と血溜まりに、今更恐れすら無縁だという程の実力を証明させているからだろうか。
「共食い、ね。いい表現だわ。確かに夜兎同士で殺し合っても無益よねぇ、だって、絶滅危惧種なんだから」
「わかってくれるんなら、素直に春雨に戻ってきてほしいねェ……」
阿伏兎はやれやれ、と首を横に振った。にこやかに笑う、その少女はその日照りの中傘を閉じた。夜兎にとっては致命的だと言うのに。気づいた瞬間にはもう顔が眼前に迫っていた。
* * *
「……っ、夢、か」
飛び起きたのは船内の自室だった。見慣れた天井に命の危機を感じた戦場から今は違うのだと、過去を思い出すそれが単なる夢であることを自覚すると阿伏兎ははぁ、と息を吐きだして寝返りを打とうとして、右半身に僅かに重さを感じて、視線を向けた。
(……このお姫さんは)
長い白銀の髪、白い睫毛に縁取られた瞼は瞑られていて瞳は覗けないが――夢の中で不敵に笑ってみせた少女の姿そのものであった。静かに寝息を立てるその少女はあの時の戦いの面影など微塵も感じさせない寝顔である。夜兎とはいえど、白いにも程があるその肌には僅かな服のみを纏い、阿伏兎が起きたことに気づかず眠っている。
(まぁた、俺は気配に気付けなかったわけ、か)
いつの間に忍び込んできたのやら。勝手に右腕の中に収まって枕にして眠っている。まあ、起きてる時に来ても言うことは到底その年頃の少女から聞かれていい言葉ではないので、静かに眠っていてくれる方がありがたい。阿伏兎は時計を確認してまだまだ眠っていても問題のない時間だと悟るとまた瞳を閉じようとした。
「ん……阿伏兎、起きた、の?」
「……」
「寝たふり、しないでよー」
「……あーあー、はいはい。起きてますよ」
ぺしぺし、と胸を叩かれる。目を開ければ、えへへ、と嬉しそうに破顔して擦り寄ってくるが決してそういう仲ではない。一方的に迫られているだけだ。あの出会った日から、今日に至るまでこの少女から愛の告白を聞かない日は、少女が仕事に出かけているときだけだ。
「仕事で帰ってこないんじゃなかったのか?」
「――ん、終わったの。おもったより、早く」
褒めてー、と続ける少女の頭を阿伏兎は仕方なしに撫でた。撫でなければ後でずっとせがまれるのは目に見えているから。少女は撫でられて更に破顔して、ゆっくりと目を閉じた。やっぱり、まだまだ眠たいのだろう。睡眠不足は美容の大敵とか、夜兎の割にはそういうことに気を使っているから普段ならもう、眠っているのだ。
「なんだ、お姫さんにしちゃ珍しいな。疲れてるのか」
「……んー」
シャワーを浴び来ているはずなのに、かすかに血の匂いを感じて阿伏兎は珍しさを感じた。仕事をした後はそれはもう鬼のように体を洗って血の跡も、匂いも全て消してから来るようなやつなのだ、この少女は。阿伏兎は血の匂いが残っていようが気にするタイプではないが、この少女は少女自身に血の痕跡が残っていることを何より嫌う。
「阿伏兎、抱きしめて寝てくれてもいいのよ?」
挑発的に笑う。
「何言ってんだ、人のベッドに勝手に入り込んだやつが」
「追い出すのなんて簡単なのに追い出さない阿伏兎は優しいのね」
「追い出したらうるさいだろ、あんた」
体勢を変えて、阿伏兎は少女の身体に腕を回した。抱きしめてぽんぽんと背中を叩くと、紅い瞳をまんまると見開いて少女は動きを止めた。阿伏兎はそのまま目をつむる。
「阿伏兎?」
「今日だけ、だ。いいから寝なさいな、明日は俺は早いんだから」
うん、と小さく呟いた少女からまた寝息が聞こえてくるには時間はかからなかった。十六歳の少女に春雨が強いている仕事を思えば――と同情するようなタイプではないし、春雨がそういう場所であることを阿伏兎は知っている。
別に恋愛感情があるわけでも、庇護欲が掻き立てられる女というわけでもないし、阿伏兎からして、これはまだまだ子供だ。夜兎の子供を愛でている――そういうことにしておこう、と阿伏兎も眠りへ意識を落とした。