筆に取ったの具


 ライブラに飾られている数々の絵画。名も無い画家の極彩色で描かれたその絵画はひときわアスナの心に響いてくる。

 記憶もない。
 声も出ない。

 自身のアイデンティティが薄いアスナにとってはライブラに飾られている絵が一体何を示すものなのか良くわからない。ただ、それでも、何もないときはその絵が飾られているところへ行ってアスナはずっと座り込んで絵を眺めていた。たくさんの絵が、飾られている部屋。アスナが足を運ぶと、その部屋はいつもどおり、静かになっていた。
 音もなく、ゆっくりと足を運ぶと一番大きな絵画の前に立った。

「アスナ」

 ――また、ここにいたのか。
 声に反応して振り返ってみれば、クラウスがそこに立っていた。心配したぞ、といわれて、少しばかり頭を下げた。アスナが申し訳なさげに彼に近づくと、クラウスはその先にある絵を見つめた。
「あれが気になったのかね?」
 こくり、とアスナは頷いた。
「あれは君が描いたものだ」
 ――覚えてはいないだろうけれど。
 といいながら、クラウスはアスナの手を取ってアスナを再び、彼女が描いたという榎本まで近づいた。その絵は、天使が描かれている。だが、その下にいる男女は離れ離れになっているようにアスナには見えた。
「君はよく美しい絵を描いていた。もし興味があるのなら、ここの画材は君のものだから、使って構わない」
 そういうと、クラウスはアスナの肩を抱いた。

 離れ離れの男女、きっとモチーフは私達なのかもしれない。
 詳しいことはわからない。でも、恋人だった、というクラウスの瞳はいつもさみしそうに歪んでいて。いつでも一緒にいれるわけではないのだと、悲しむ彼に「初めまして」と私は何度告げたのだろう。
 ――クラウス。

 私の声が出たのなら、
 私の腕がもう少し長かったのならば、

 この絵の向こう岸にいる男を呼び止める女になれたのだろうか。

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