一歩、大人になった日
ノアが久しぶりにミトとその都会ミアレシティに足を踏み入れたのは、夕方の事だった。すでに日暮れが進んでおり、今日の宿はどうしようか、とミトと話をしようとしたところで、あら?と聞きなれた女性の声が聞こえてきて、振り返った。
「母さん」
「先代」
ノアとミトがそれぞれがその人物を呼ぶとはぁいと語尾にハートマークでもつきそうなくらい上機嫌な声で彼女――アスナは笑って見せた。両手に抱えた紙袋の中には新鮮な野菜や果物がたくさん入っているし、長いパンがはみ出している。どうやら、今日の夕食はシチューらしいなとノアは入っている材料を見て察した。
「まさか、ミレアに帰ってきておいて他のところに泊まろうとか思ってないでしょうね?」
いつの時代も息子は母に頭が上がらないものだ。ノアは母の視線に押し負けるように、いや、家に、といわされたように口を開いた。ミトはそんなノアを見守っていると、アスナの手が優しくミトの肩をたたいた。
「さ、ミトもいらっしゃい。今日はね、シチューなのよ」
「やっぱり?そうだと思った」
「ふふん、ノアとミトが帰ってくる予感がしたのよね。好きでしょ、ノアもミトも」
アスナは紙袋をノアの腕に押し付けると笑いかける。ミトはどうしていいのかわからず、逡巡しているようで、そんなミトにノアは笑いかけて、手を伸ばした。
「帰ろう、ミト」
――母さんのシチュー、うまいだろ?
少しばかり居心地の悪さを感じていたが、ミトはあっさりとアスナの手伝いを言い渡されると一緒に台所へ入っていった。ノアはといえば、久しぶりに家に帰ってきたからか、妹のティアナと、弟のアレクが遊べ、とせがんでくるのに対処するので忙しかった。
相棒のニンフィア――ローザは我関せずとすでにポケモンたちが集まる一角へといってしまう。それを眺めながら、ティアナとアレクを同時に抱きあげて、何して遊ぶか、と問えば、ティアナからは「ポケモンバトル!」と元気な声が帰ってきた。
――まじか。
「ん〜、マーベラスな匂いだね!ママ」
ダイニングに助手二人分と家族、そしてミトの分含めて8人分の食事が並べられる頃にプラターヌがようやく姿を見せた。おや?と久しぶりに見たノアとミトを見て、慌ててミトがお辞儀したのに対して、笑って「おかえり」というと、ミトは少しばかり困ったように伏せながら、ノアに背中を押されるように「た、だいま……」と答えた。
(こういうとき、父さんの人柄には感謝せざるを得ないなぁ)
自分もああなりたい、と両親を見て思うのだ。
食卓に全員がつくと、元気な声でいただきます、と8人の声が重なった。――やっぱり、母さんのご飯はおいしい。とノアは久方ぶりに食べた、アスナの手料理に舌鼓を打った。
「ミトちゃんとは仲良くやってるかい?」
食事が終わってまだ仕事があるから、といったプラターヌの部屋にノアが頼まれたお茶を持っていくと、彼は書類を眺めながら礼を言った後、資料を眺めていたノアに優しい声音で語り掛けた。ノアはびく、と一瞬肩を震わせたが、少し照れたように、戸惑ったように笑いながら頷いた。
「うん。――最近、笑ってくれるようになったんだ」
おいで、とプラターヌが笑う。仕事用のデスクの隣に椅子を持って近づくと、彼からお茶が差し出された。ご飯後だから、ママには内緒だよ、と微笑む父の手から渡されたのは、ミレアで有名なミレアガレットである。
「寝る前にこんなの食べたら、怒られるね」
「確かにね。だから――パパとの内緒だよ?」
昔から変わらない。優しいけど厳しい母と大らかで優しい父は何かあるとこうやって話を聞いてくれた。あの頃は甘いハチミツ入りのホットミルクだったけれど、父と同じブラックコーヒーが飲めるようになった自分に少しだけ成長を感じた。
ノアの話はたくさんの冒険の希望と、ミトとの日常と、ポケモンたちとのきずなに包まれた暖かな話だった。昔、似たような話を同じような目で語る少女と旅をしていたことがある。プラターヌは穏やかに息子の話を聞きながら、コーヒーを飲む。話に夢中になるとコーヒーが少し冷めてしまうが、それ以上に息子の口から語られる話が暖かくて、優しい気分になる。
「んー、本当にノアはマーベラスな旅をしているね。そういう旅は一生に一度できるかどうかわからないよ」
プラターヌは息子の旅の話に柔らかな笑みを浮かべた。
「そうかな」
「そうだよ。君が出会う全てのものが、今の君の糧になっていると思うと、父親としてこれほど嬉しいことはないよ」
ノアは少し照れくさそうに父からの称賛を受け入れた。こうした純真さ、というか素直なところは母によく似ていると、顔立ちばかり自分に似た息子の髪を撫でた。きっと母に似たら綺麗なストレートであっただろう髪は癖っ毛で、手にくるんと巻き付いてくる。
「なんか、大人になった気分」
「ん?」
プラターヌはノアの言葉に顔を上げた。まだ照れくさそうにしているノアは目をそらしながら窓の外の月を眺めた。
「昔はさ、父さんが夜に研究してる時は、もう母さんに寝なさい、って言われてベッドに連れていかれるの、多かったからさ。なんか、ちょっとドキドキする」
「……ノア」
ぽん、とまだまだ及びもつかない大きな手がノアの髪を撫でる。
「君はね、もう十分大人になってきたよ。だから、僕もママも君をそれらしく扱うことにしたんだ」
「……厳しいことも言われるって事?」
「もちろん。大人になるって事は責任が付きまとうって事だからね」
プラターヌはブラックコーヒーを飲み干すと、時計を確認した。
「さて、そろそろパパも頑張らないと、ママに怒られちゃう」
「……うん、ありがと、父さん」
おやすみ、と言って部屋から出る。何だか、父さんに認められたみたいだ、と思うと胸がどきどきした。とてとて、と廊下の先から歩いてきたのはローザだった。ローザはしゅる、と手にリボンを絡めてくるとふぃあ、と鳴いた。
「えへへ……なんだか、破顔しちゃうな」
「ノア、嬉しいことがあったの?」
「うっ、わ!!!み、ミト!!!?」
「ローザと一緒に来たの」
暗がりの中出てきたのは、ミトだった。驚いて素っ頓狂な声を上げてしまったノアは壁際に背中が激突した。
「……大人、って認めてもらえてちょっと嬉しかったんだ」
「ノアは大人になりたかったの?」
「んー、ちょっと違うんだけど。でも、俺、認めてほしかったんだよな」
二人はいつもすごいところにいた。
――母はミタマ地方のチャンピオン。
――父は新しい発見を世界に発表した研究者。
そんな二人に当たり前のように新しいことへ踏み込んでいく。挑戦へのためらいがない二人はいつでも新しいところへ進んでいく。子供ながらに、そんな両親において行かれるような気分になっていたのかもしれない。二人はそんなことをしない、と知りながら。いつでも立ち止まって話を聞いて、一緒に考えてくれたり、一緒に学んでくれたりしていたのに。
「ミトは、お父さんの事、好きだった?」
ミトは首を傾げた。
「よく、わからない。好きになれるほど、一緒にいなかった」
「そっか」
ノアはミトの手を握った。
「今度は好きかどうかわかるくらい一緒にいたらいいよ」
うちの両親はきっとそうしてくれるよ。
「楽しそうじゃない?ご飯の後にこっそりおやつ食べるなんて」
プラターヌはびくり、と肩を震わせて、食器を台所に置いた。
「ま、ママ!アレクと寝たんじゃなかったのかい?」
「とってもかわいい子供たちが今日は皆で寝るんですって。まあ、ティアナがミトお姉と一緒に寝る!っていう話から始まったんだけどね」
アスナは腰に手を当てながら笑ってそういった。その笑顔も少し穏やかなものに変わって、プラターヌの傍によると、洗うのは貴方よ、といった。食器を流す音が台所に響いて、アスナは静かにそれを眺めた。
「大きくなったね、ノアも」
昔から優しい子ではあると思った。その優しさはきっとプラターヌに似て、誰かを救う優しさになるだろうと、アスナは信じていた。彼が、ミトという自分とそっくりな少女を連れてきたときにその予感は現実へと変わり、ミトを見ていると、かつての自分を思い浮かべ、罪の意識に苛まれることもある。
「うん、あれは大物になるね」
「ふふ、貴方も大概な親ばかね?」
「自分の子供がかわいくない親なんていないさ!ましてや君と、僕の子供だよ」
僕は信じてるよ、とプラターヌは水道を止めると、アスナの額にキスを落とす。アスナは少し照れくさそうに笑いながら、プラターヌに腕を回して抱き着いた。
「……あなたに会えて、よかったって心から思ってほしいの、ミトに」
「うん」
「私がそうだったように、ミトにとってノアとの出会いが自分を救うきっかけになってほしい」
「大丈夫だよ、ノアはちゃんとわかってる」
プラターヌの腕が優しくアスナが包んだ。あの日、日時計で誓った約束は今も色褪せないままだと信じて。
プラターヌとアスナが静かに子供部屋に入ると、性格が出る寝相で寝るノアたちがそこにいた。