甘噛みじゃは残らない


 ぼんやりとその背中を眺めていると、服を投げつけられて紅千は衝撃に逆らわず座っていたベッドへごろりと倒れ込んだ。
「いたぁい」
「って、思ってないだろ、姫さんは。第一、刀で傷付けられて平然としてるような奴が、服を顔に投げつけられて位が何だってんだ」
 阿伏兎はそう吐き捨てながら着替えを続けている。出ていけ、という発言はすでに何十回と繰り返されているが、一向に動く気配のない紅千に阿伏兎も諦めたのかさも当たり前の様に着替えを始めている。まあ、ここは阿伏兎の部屋なので阿伏兎が何をしていても紅千に文句が言える立場ではないし、勝手に居座っているので、紅千は気にしてもいない。
「阿伏兎は鍛えられてるのね」
「あのな、姫さんみたいなのが例外だから。――まあ、夜兎なら珍しくはないとしても」
 ちらりと、阿伏兎が投げ出されている紅千の真っ白な足へ視線を向けた。夜兎は肌が白いという特徴がある。まるで兎のように白いが、紅千は別格だ。まるでその中が透けそうなくらい――白い。おかげで、日光は通常の夜兎に比べてずっと弱いし、それで病気のように体調を崩すことだってある。日傘を手放せず、日傘を閉じるときはフードをかぶっていた方がいい、というほどの白さ。そして、細い。
 この身体からあのバカ力なぞ、誰が想像するものか――と思って、視線をそらしたのは紅千が体を起こしたからだ。お嬢様育ちをしてきたはずだが、丁寧に阿伏兎の服を折りたたんでベッドの上へあげると、折り目正しく足を閉じた。
 ふふ、と少し楽しげに笑って立ち上がるとまだ、上半身に何も着ていない阿伏兎の背中に腕を回した。
「……姫さんはさー、少し貞操観念というものを持ちなさいよ」
 阿伏兎は右手を高く上げて、自分からは触りませんという姿勢を作り出す。それが面白くなかったのか、紅千はより一層阿伏兎へ体を密着させるように近づいた。
「ひめさーん」
「いーや。っていうか、阿伏兎は枯れてるの?大丈夫?」
「そういう事、どこで覚えて来るんだろうなぁ、あんたは」
 紅千に幻想を抱くわけではないが、そういうことからは遠ざけてきたつもりだったのに、と阿伏兎は眉を下げた。一年間の行方不明の間か、とも思ってみたが、考えてみれば彼女は夜王鳳仙の娘だ。――鳳仙と言えば、吉原。女が商品として売られている世界。父親に興味がないとは言っても、自然と耳に入ってくることだったはず。
「――あの人ですら、枯れてなかったのにねぇ」
 そう言いながら虚空を見つめる。――ああ、この目は苦手だ。赤い丸い瞳がどこか空寒い所を見つめていて、阿伏兎はどうしたものか、と視線をさまよわせた。しばし、沈黙が続いたところで、背中に回っていた腕が首へと上がってきて急に力づくで引き寄せられたかと思えば、がぶり、と噛み付かれた。
「!?」
「あはは、いたい?」
「いや……あんたも全力じゃなかったから、痛くはねーけど……」
 いえば甘噛みだ。大して強くもないから、夜兎特有の白い肌には噛み痕すら残っていない。そう、なんだ、と少しつまらなさそうに、退屈そうに、残念そうに呟いて紅千はそのまま力をかけて阿伏兎を引っ張り込み、そのままベッドへと倒れた。
「ちょ!!こら!!」
「えへへー、阿伏兎に押し倒されちゃったぁ」
「違うだろ、スットコドッコイ! あんたが自分でオッサンを巻き込んで倒れただけだろォ!?」
 オッサン巻き込まないの! と全力で引きはがされて阿伏兎は離れていく。残念だなあ、と思いつつもそれほど抵抗はしない。
「ったく……ほら、とっとと部屋帰んなさい」
 もう子供は寝る時間だ、と頭を撫でられる。――そうかぁ、子供かぁ。と思いながら、紅千はぼんやりと立ち上がる阿伏兎の背中を見つめる。噛み付いたはずの白い肌にはやっぱり何もなくて、少しだけ寂しい。

「次はもっと強く噛み付くべきかなぁ」
「何、恐ろしいこと言ってんだ、あんたは……」



title by 恋をしている3題
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