図書館窓際のテーブルにて
――憐れだな、と思ったことすらある。
その人はどれだけ頑張って、どれだけ背伸びして、どれだけ願っても、思っても牛島さんの視界の一部にすら入っていないのだろうな、と思う。
図書室で、その人をよく見かける。本を読むのが趣味だ、といつだったか言っていたのを意外だな、と思っていたのだが、そういえばよくよく図書室で姿を見かける。勉強しに来ているわけではなさそうで(聞いてみれば、一度授業で聞いたことは改めて勉強することは、よほどでない限りないらしい)いつも、決まった窓際の、明るい日差しが入ってくる席で本を読んでいる。いつもあれほどうるさく牛島さんに付きまとってるくせに、この時ばかりは静かで、真剣に本の世界に耽っている。――姿勢、綺麗だな。と思った。俺も、いつも通りにその人の前の席を陣取って、教科書とノートを広げた。
ちらり、と視線がこちらに一瞬向いたのがわかった。でも、目は合わせないようにする。何事もない、ただの、昼休みの光景。くす、とその人の口元が動いたのが、少しだけ持ち上げた視界の端に移った。それでも、その人は何も言わずに本を読み進めていく。ぱらり、と白くて細い指がページをめくる度につい、指へ視線が向く。あの指が、あの手が牛島さんに匹敵するくらいのスパイクを繰り出すのか、と思うと少し、ぞっとした。少し、考えに耽っている間に、指が自分に近づいているのが見えた。慌てて仰け反るが、べちん、とデコピンされてしまった。いたっ、とついつい上がってしまった声は、静まり返っていた図書室になんだか妙に大きく聞こえてしまって、視線が集まった。
すみません、と頭を下げて、何事もなかったかのようにノートに向き直ろうとしたが、目の前のその人がくつくつと、肩を震わせて、まるで悪戯を成功させた子供のように楽しそうな笑顔を向けているのだから、俺は少し熱くなった頬をごまかすように、その人を漸く視界に入れて、にらみつけた。
先輩、というと真っ白な髪を揺らして、紅い瞳を愉快そうに細めて、その美しい顔にしては歪な笑顔を向けている先輩――火炎陣アスナさんがそこにいた。
「ごめん、ごめんて」
笑いをこらえながら、少し女の人にしてはハスキーな声で笑う。先ほどまで左手で持っていた本はテーブルに綺麗に置かれていて、口元を片手で覆いながら、口の端が吊り上がっているのを隠して、謝ってきた。
――謝罪に見えません、というとそう?とけらけらと笑いながら、再び本を持ち上げて、文字の羅列を追い始めていた。ジンジンと、額が痛むのはきっとこの人の指の力が異常だからだ。結構勢い良かったな、と思いつつも額を摩って、ノートに再び集中しようとして、自分の額を小突いた指がノートの罫線をなぞった。
「ここ、間違ってる」
「え」
「公式はあってるけど、途中の計算違うよ。見直しした?」
しようと思ったところで、貴方にデコピンされました、といえば、紅い瞳がじと、こちらを見つめていた。
「うそ」
核心ついたその人の声に、ドキリとした。紅い目から、目が逸らせなくなって、そのまま黙ってしまった。無言を肯定だと、受け取ったのだろうか、アスナさんはほら、シャーペン持って、と俺を促す。促されるままに、シャーペンを持ってノートに再び数字の羅列を作り上げれば、この人の言う通り、途中の計算が間違っていた。だから、解答集と合わなかったのか、と漸く合点がいった。しかし、この人、いつの間にノートを見ていたのだろう、とちらりとアスナを窺った。じぃ、と紅い、丸い瞳をこちらに向けられていて、一気に緊張が走った。
「ほら、俺の事見てるじゃない」
それで、集中してました、なんて言うなよ。と楽しそうに笑った、その人は本にしおりを差し込んだ。どうやら、その本は自前の本だったらしい。学校の本についているバーコードが一切見当たらなかった。(白鳥沢ではすでに、図書は図書カードではなく、生徒のIDカードと本のバーコードを使ってパソコン管理されているのだ)
「白鳥沢の図書室の本は、全部読んじゃったから」
まるで、心を読まれたかのような言葉に、一瞬ドキリとして、顔を上げた。あ、いや、そういうわけじゃ、と何ともわからない言い訳を述べる俺に、アスナさんは不快な顔一つせずに、本を持ち上げて見せた。確かに学校図書には珍しい政治経済の本だった。
「図書室で読んでるんだから、図書室の本なのかなって思うのは当たり前だしね。家の本も、もう真新しいものはないんだけど……今年の新刊図書に何が入るか、少し楽しみにしてたんだけど、今年のも実はもう家で読んじゃってて……」
新しい本がなくて、退屈なんだよね。
アスナさんは困ったように笑いながら、本をひらひらさせた。どうやら、その本も読み切ったことのあるものらしい。練習時間中に読んでる様子はないし、下校中・登校中もあまり本を持っているような様子はない。だから、彼女は学校ではこの昼休みにだけ、ここで、この決まった席で本を読んでいるらしかった。少なからず、白布が入学して、復習のためにここに来ると、必ずいた。
「……天童先輩は、どうしたんですか?」
「ああ、覚?本読むときに邪魔だから、置いてくるよ。あいつ、うるさいし」
ああ、なるほど、と思ってしまった。日頃から、あーちゃん、あーちゃんと懐いてくる天童を煩わしくは思っていない様子だし、本音を言い合える一種の悪友の様な、まあ、それにしては仲のよすぎて、気持ち悪さすら感じてしまうような二人だが、離れている時間もあるのだなと思った。確か、クラスが同じだったはず、と思いつつも俺はノートを閉じた。これさえ、できればそれでよかった。まだ、昼休みが終わるまで、時間があった。終了ぎりぎりまで、先輩と話しをしていてもよかった。アスナさんもそのつもりなんだろうと思った。だから、席を立たないのだろう、と。
「賢は?本は読まないの?」
「少しなら、読みますよ」
「ふぅん、最近、どんなの読んだ?」
「例えば、これ、とか」
携帯を開いて、本を見せる。これ、面白かったね。といったくれたあたり、やっぱりこの人も読んでいたか、と思った。ついこの間、駅の近くの本屋でポップが立っていて気になって手に取ったものだった。面白くてついつい読み込んだが、周りはあまり読んでなかったようで話はできなかったのだ。そして、俺自身、周りと好き好んでこういった話をするタイプではなかった。多分、この人もそういうタイプだ。というよりも、周りでこういった話をできる人がいないはずだった。天童先輩といい、瀬見さんといい山形さんといい、本をあまり読む人達ではないし、獅音さんとは本の趣味が合わないといっていたし、牛島さんは基本的にバレー以外興味がないだろうし……だから、ここで一人本を読んでいるのだろう。誰にも邪魔をされず。毎日来てるのか、それとも決まったときに来てるのかは、俺にはわからないけれど。
「先輩の、おすすめって、」
「アスナ」
俺の声を割って入ってきたのは、牛島さんだった。彼の声を察知してか、アスナさんの表情は今までのちょっと意地の悪いような顔ではなくて、柔らかな、そんな優しい笑顔だった。なぁに?と聞く声も、柔らかく聞こえたのは、錯覚ではなかったはずだった。
「鷲匠監督が呼んでいた」
「え、本当?じゃあ、今すぐに行くね」
すく、と立ち上がったアスナさんは、やっぱり他の女子より二回りくらい大きくて、牛島さんと並ぶから少し小さく見えるけれど、俺よりも背が高くて。綺麗な立ち姿勢は、図書室中の視線を攫っていった。それでも、視線を気にすることなく、潜めた声で牛島さんと一言二言交わして、歩き出そうとする彼女の背中を眺めていると、あ、と何か気づいたのかアスナさんの大きな手が俺の頭に乗った。
「んじゃ、部活でね、賢」
わしゃわしゃと、頭を撫でられてどう反応したものか、と逡巡するよりも早く、その手が離れていって、少し名残惜しさすら感じる。またね、といって牛島さんの後についていくように少し小走りになったアスナさんを視線で追っていると、牛島さんと目が合った。いつも通りだったのか、それとも、何か機嫌が悪かったのかは俺では判別がつかない。でも、それでも、今、自分とアスナさんが話していたことは快く思われなかった様子だというのだけは、何となく読み取った。
はぁ、とため息をついて、ノートを開いてみた。そして、その端に書かれていた小さな字に気付いた。
「がんばれ」
たった、四文字なのに、何だろう、元気をもらった気がした。