その日私は自分を好きになった
暗い暗いお屋敷の中で、いつも独りぼっちだった。たまにやってくる人達は、何か俺に頼みごとのある人たちばかりだった。
――この計算を解いてみてほしい。
――この科学実験を成功させたい。
お父様が招き入れた大人たちの要望に沿うように、ただ難しい問題を解くように、楽しさもあったけれど、人の目が気になって仕方なかった。大きな本棚に囲まれて、窓もないその部屋には太陽の光が差し込んでくることもない。この世界にたった独りぼっちで取り残されて、俺は寂しかったのかもしれない。
ひょんなことから、俺は外に出る機会があった。似たような家柄の子供たちと遊ぶ機会を母が設けてくれたのだ。でも、初めて会う人たちは自分と似たような背丈をしていたけれど、皆自分とは違った。誰も俺と同じ白い髪の人などいなかったし、赤い瞳の人などいなかった。それに、皆子供らしかった――と当時の俺は彼らと同じ3、4歳の子供であったのだから、その表現は決して妥当ではないのだろうが、俺の頭がすでに老成し、子供らしくなかったこともまた事実だった――から、なんとなく疎外感を感じていた。そして、子供とは時に無垢な悪意を、簡単に口にしてしまうものだ。
「その髪、気持ち悪い」
元々、俺は自分が好きじゃなかった。兄二人から嫌われるように遠ざけられていたのは気づいていたし、自分よりも二つ下の妹も滅多にここには来ない(当時の俺は、彼女がここへ来ないようにと、叔父たちに言われていたことを全く知らなかった)だから、家族にとって自分が必要な存在だとはどうしても思えなかったのだ。そして、他者と自分が違うことも、自分は知らなかった。それが、どうしようもなく寂しくて、辛くてたまらなくて、俺はもう世界と関わることを絶った。怖かったのだ。否定されることが。
閉じこもるようにあの暗い部屋にこもった。外の明るい陽射しなど、自分には合わないと思ってしまった。毎日毎日、言われたままに本を読んで、訓練を積んで、勉強をして、武術を学んで、恐らくそれが父の望みなのだ、と思いこむ様にしたら少しだけ楽になった。ただ、家のために学ぶこと、誰よりも優れた存在になること、そうしていれば多分、いつか、誰か、必要としてくれる人が、自分を否定しない人が現れてくれるはずだから、となぜか滲んだ視界と、ぽつりと本の上に落ちた雫は熱くて、寂しくて、悲しかった。
その日は、多分とてもよい天気だったのだと思う。俺と妹の翠は東京の本邸から移動することが決まった。あの、暗い部屋とお別れすることになっても何の感動も、感傷もわいてこなかったし、両親と離れ離れになることを泣き喚く妹とも違って、俺はただ淡々とそれを一つの事実として受け入れた。――興味がなかった、のかもしれない。泣かないで、と口では妹を慰めながらも、どことなく妹が羨ましくてならない。離れたくない、となくほど両親と一緒にいた記憶は俺にはなかったし、ちょっと名残惜しさがあるとすらなら、あの暗い部屋にあった本の半分も持っていけないことだろうか。といっても中身は既に一文一語一文字に至るまで記憶しているから、困りはしないのだが。
母はしばらくの間だけ東北の家にいてくれるらしい。随分と東京から離れた場所に送られるのだな、と思ったけれど、それもこれも、多分俺たちが火炎陣家に必要ないからなんだろうな、と俺は思っていた。叔父や叔母は既に俺をその当時、脅威に思っていたはずだから。さようなら、と口にしたときの彼女たちは少しほっとしたような、そんな顔をしていたから。
「こんどのおうちはどんなところなの?」
「ふふ、本邸ほど大きくないけど、二人で生活するには十分だと思うわ。お隣にはアスナと同い年の子もいるのよ」
へぇー!とたのしみだね、ねーね!と笑いかけてくる妹に、そうだね、と少しだけ笑いかけて、俺は短く切りそろえている白い髪を撫でた。――また言われるのかな。と思いながら。でもいいや、どうせ、外には出ない。学校だって、行かなくたっていいと思っている。すでに、火炎陣家の教育は俺に、高校卒業レベルまで叩き込んでいたし、外国語もすでに五か国語を習得させていた。すでに数学・化学(科学)については学者レベルまでその見識が及んでいた俺にとっては学校など退屈にしかならないと思った。
後2年後には小学生ね、お友達がいっぱいできるといいわね。と笑う母には申し訳なかったが、学校なんて行きたくなかった。人の目にさらされるのは嫌だった。子猫の群れの中にライオンの子供を放ったところで、周囲との摩擦を生むだけ。
「うん」
でも、母の期待は裏切れななくて、俺は小さく頷いた。
ついた家は二人暮らしのためには明らかに大きくて、父や母が気を向いたら使う別邸としての役割を持っていることも大よそ察しがついた。荷物は既に使用人たちの手によって搬入されているようで、俺は自分の部屋となるであろう本棚だらけの部屋を目指そうとして、母の声によって足を止めた。
「ああ、牛島さん。今日、こちらに越してきたのです。よろしくお願いいたします」
母が丁寧に一礼をした視線の先には少し気の強そうな女性が立っていた。とても意志が強そうで素敵だな、と思ったがアスナとしては3月の快晴の日差しを長時間浴びていたくなかったから早く家の中に入りたかった。東北は雪が降るらしい。寒くなるのは嫌だな、と寒がりだった俺はまだまだ3月。暖かくなり始めたとはいえ、東京に比べて空気が冷たく感じられて、コートを握りしめた。
「アスナ、こっちへいらっしゃい」
嫌だった。
母が向かい合っている女性の足元。自分と同じくらいの男の子が、無表情で立っていた。じっと、こちらを見つめている視線が、怖くて、怖くて、母の足にしがみつくより先に、体が動いていた。使用人たちの足元をすり抜けて、家の中に駆け込んだ。――逃げた。ちらりと振り返ったとき、男の子が少し驚いたように目を見開いて、そして、少しだけ悲しそうな顔をしていたのが目に映ったが、それ以上に怖かったのだ。
家の中に駆け込んで、使用人たちが叱るのも聞かずに、アスナはコートを適当に投げ出すと自分の部屋に逃げ込んで、内側から鍵をかけた。ここもたくさんの本をお父様がプレゼントしてくれていた。きっと、彼も、今までの人と同じだから。人に期待してはいけないのだ。
嫌われるくらいなら、気味悪がられるくらいなら、裏切られるくらいなら――5歳の子供が思うにはまだまだ人とのかかわりが不足していると、今にして思うのだが、当時に俺にとってはそれはあまりにも深刻で、まるで暗い暗い海の底に自分が沈められているくらい、苦しいことだったのだ。
「ねーね、あっそびまっしょー」
妹の愛くるしい声に誘われては外に出ざるを得なかった。滑るから、気を付けてね。といいながら、二人でまだ真新しい冬用のブーツを履いて家の外に出た。手袋をつけてね、と母から渡されたミトン型の色違いの手袋を手にはめて、翠のコートを整えてあげると、翠は嬉しそうに笑った。まだまだ外には雪が積もっていて、暖房の効いた家から一歩外に出れば、寒かった。――部屋に入って、暖かいミルクティーを飲みながら暖炉の前で本を読みたい、という思いは口に出さず、雪がまだまだ珍しい妹ははしゃぎながら、家の春や夏になれば美しい花を咲かせるのであろう庭を駆けまわった。
「あ、」
「……あ」
目が合ったのは、あの時の男の子だった。そうか、家は隣だったのか。いや、隣だって言ってた。アスナは思考回路が動くより先に、もう走り出そうとしていた。しかし、それよりも早く男の子がアスナの手を掴んだ。
「……えっと、は、じめまして」
「初めまして、俺は、牛島若利だ」
「……そう、俺は、あ、えっと、私は、火炎陣、アスナ、です」
目が合わせられない。怖い。怖い。真っ白な、地面しか見れなかった。自分のブーツと彼の靴が視界に入るが、それだけだ。怖かった。また、あんな風に、見られたら。翠が後ろからねーね?と突撃してくるのがわかったけれど、反応してあげる余裕はなかった。前の方から若利?と男の人の声が聞こえてくるのがわかった。逃げたい。逃げたい。助けて。
「顔を上げてくれないのか?」
「……」
「残念だな、すごく、綺麗だと思ってたのに」
――綺麗?
きょとん、として顔を上げてしまった。彼と目が合った。あの時の女の人と同じ、意志の強そうな、でも表情に乏しい顔。じっと見つめられて、アスナは顔を逸らしたくなった。彼の後ろには、どことなく彼とは似てない柔和な笑みを浮かべた大人がいた。
「真っ白で、とても綺麗だ」
彼の手が俺の頭を撫でた。短く、切りそろえて、目が見えないように前髪だけ伸ばした髪の毛を。彼の手が俺の前髪をかき分けて、そして、少しだけ視界がクリアになると、うっすらと笑っているように見える彼がいた。
「うさぎみたいだな」
真っ白で、目が紅くて、かわいい。
――多分、その日、私は彼に恋をしたのだと思うけれど。
「……アスナ?どうした?」
夕暮れに染まる放課後の校舎の廊下。白鳥沢学園のバレー部が始まるには少しばかり早い時間。教室から廊下に出て、窓からまだ雪の積もっている廊下を見つめて俺に声をかけたのは彼――若ちゃんだった。
「ううん、まだ雪積もってるなぁって」
「もう少しで溶ける」
「早く暖かくならないかなぁ」
横に立って窓の外を見つめる若ちゃんの横顔を眺めながら、あの日の彼を思い出した。髪が綺麗だと、瞳が綺麗だといってくれたから、アスナは前髪を切って顔を出し、髪を長く長く伸ばしてきた。今はもう、お団子にしても余る髪が出てくるくらいにまでなった。ねえ、長くなったでしょ、と髪の毛を一房持ち上げると、突然話題が変わったことに少し怪訝そうな顔をしながら、ああ。と淡白に、あの頃と変わらないまま答えた。
若ちゃんの言葉には嘘がなくていい。彼は純粋だ、その純粋さは時に人を傷つけてしまう冷酷さも持っているけれど、けれど、それでも、俺は救われてきた。あの日、若ちゃんに出会ってよかった、と心から思えるくらいに。
「さて、部活いきましょうか」
「ああ」
若ちゃんが俺を認めてくれたから、認めてくれるから、信じてくれるから、
初めて、俺は自分を認められるようになったのです。