花息吹く、春の


 桜の花が舞い散る遠月茶寮料理學園――高等部の入学式にて、彼女は台の上に上がって自分と同じ代に入ってきた同級生たちを見てふと不敵に笑みをこぼした。中等部に上がるまでに料理、その他関連に関して基礎を叩き込まれ、高等部に上がれば玉の選抜が始まる。そして、卒業までにこの中のほんの一握り――全体の一割にも満たない生徒だけが生き残る。真の料理人だけが卒業式に立つことが許される。
 そういう世界にアスナはたった。薙切仙左衛門の末娘――食の魔王の血族として中学に至るまでの食の教育は済んでいる。この中の誰にも負けるつもりはないという自負がそこに確かにあったのだ。新入生代表として――千人の前に立つにふさわしい風格を備えて、アスナは代表の挨拶を述べる。



 ――この学園において、自分以上の人間など、ありはしない。



 それは自信であって驕りではないはずだった。

「お、おい、まじかよ……」
「アスナ様が負けた?」
「え、う、うそ……」

「しょ、勝者、堂島銀!!」

 ――負けた。目の前に立っているこの男に。
「それじゃあ、薙切君。君が保有している第六研究棟をもらうぞ」
「…………私が、負けた……?」
 アスナは呆然と立ち尽くした。最善を尽くした料理だった。自分の技術を尽くした料理は審査員からも絶賛されていたはずだったのに。勝者は目の前に立つこの男だった。――堂島銀。極星寮と呼ばれる寮で暮らしているこんな男に負けたのだ。彼は余裕ある表情を浮かべて、立ち尽くすアスナに手を出した。
「いい勝負だった。――さすがは薙切の一族だな」
 屈辱的だった。それは自分が負けたことをまざまざと見せつけられているようで、その手を握り返すことは敗北を認め、薙切の名前を貶める結果になる。ふと、上を見上げて見れば、観覧席には父――仙左衛門の姿が見えた。
(この、私が……――っ!)



* * *




(そういえば、あれから銀には一度も勝てなかったんだっけ……)
 一年生の秋の選抜でも、挙句その後、十傑になってからも、その後も。卒業試験に至る全てで堂島銀という存在には勝てなかった。全力を尽くしても、技術を上げても、新たな知識を手に入れても――常にその先をゆかれ、凌駕され、完膚なきまでに叩きのめされた。
 アルバムに映る無様な過去の自分にアスナは目を細めた。遠月を卒業して、ありとあらゆる厨房が用意されたが――全て蹴った。薙切の名前を背負って立つには自分が未熟だと気付かされたのだ。堂島銀を追う過程で、それに気付いたのだ。父には最後まで気にする必要はないと言われたが、それでも――
(こういう小さな店で、客の顔を見ながら仕事するのも悪くない)
 昔から好きだったお菓子作りを生業にして、生きている。カフェを経営をして、地域の人達に親しまれながら仕事するのが今は楽しいと思える。パティシエとして賞を取るにも至ったが、それをひけらかすつもりもない。――結局料理人として、最後まで勝てなかった相手がいる自分が、あの厨房へ戻ることは許されないと、アスナはアルバムを閉じた。

 ――カラン、

 表のベルが鳴った。
「いらっしゃいま――」
 声が止まった。目を見開いた。
「どうして……」
「久しぶりだな、薙切」
 堂島銀だった。卒業してから遠月リゾートの総料理長になったと聞いた。歴代最高得点での卒業試験突破は後にも――おそらく先にも彼しかいないだろうと言われるレベルにまで成長した彼は数年前の話しだと言うのに、少しだけ成長した顔立ちになった気がして、アスナは目を見開いて止まった。
 彼とは卒業式以来会ってもいないし、当然のように携帯の番号なんて知らなかった。互いが互いの事で忙しいだろうに――まして遠月リゾートの総料理長なんて暇であるはずがないのに、どうしてここに居るのかが分からなかった。
「学園総帥に聞いてもお前の店の場所を知らないって言うから、探したんだ」
「……お父様に顔向けできるわけないじゃない。私は薙切の面汚しも良い所だわ」
「俺の次の成績で突破したやつの言う事じゃないと思うが」
「――薊にだって負けたのよ、私は」
 結局、遠月十傑も、第四席――卒業試験も二位通過。食の頂点であることを義務付けられた薙切の一族の面汚しも良い所だ。
「ご注文は?」
「ん?ああ、そうだな……季節のケーキセットで。飲み物は、エスプレッソ」
「かしこまりました」
 堂島から注文を取ると伝票に記入して、エスプレッソ用の機械に豆をセットすると皿などの準備を始める。外から来た客の持ち帰りにも見やすいショーウィンドウに並べられたケーキを取りにアスナはそちらへと向かった。
「小さな店だな」
「遠月リゾートの厨房に比べたらそりゃね」
「でも、楽しそうだ」
「――うん」
 今は春。たっぷりとイチゴを使った春のショートケーキを取りだして、綺麗に盛りつける。遠月で習った技術は確かに生きていると思うし、お客さんからも大好評だ。特に小さな子供たちに喜ばれる飾り付けを考えるのがここ最近の楽しみだった。エスプレッソを少し温めたカップへと移して、カウンター席に座る堂島へ差し出した。
「楽しいわ、ここでの生活」
「生き生きしてるように俺には見える」
 堂島がエスプレッソの入ったカップを片手にそうつぶやいた。
「そう、かも。ここでは薙切って名前は気にしなくてもいいんだもの。お父様には申し訳ないけど、やっぱり気が楽なのは事実ね」
 カウンターから見渡せる程度の客席。大きすぎず、小さすぎず。地域の人たちの憩いの場として使って貰えている。コーヒーや紅茶がおいしいから、ケーキや軽食が気に入ったからと毎日のように来てくれている人もいるのだ。客がいないときもある、いない時は自由に読書をして、店を綺麗にして――客がきても、客と話しながら、とか若い店主を気遣ってくれる人もいる。
「……本当は。遠月リゾートに入って貰おうと思ってきたんだ」
「やっぱり。だと思った」
 用件が無くてはこんなところには来ないだろう。それくらいの予想はついていた。
「お父様?」
「いや、俺個人の頼みだ」
「――何で?」
「俺がお前と一緒に居たかったからだ」
 堂島の目がアスナをじっと見つめた。
「は……?」
 何言ってるんだろう、この男は、とアスナは数秒たっぷりと時間が止まったかのように目を瞬かせて堂島を見た。突然何を言い出すかと思えば――一緒に居たかったから?
「もちろん、お前の製菓技術を買って、というところもある。遠月リゾートでは今、製菓部門を厚くしたい本音があるしな」
「……一緒に居たい、という言葉の真意がわからないわ」
「お前が好きだった。いや、好きだ、だから、一緒に居たい」
 淡々と、しかし、口の端を持ち上げて言い切った堂島にアスナは何も言えなかった。彼はケーキを食べ終え、エスプレッソを飲み終えると、会計、と声を掛ける。あわてて伝票とレジを叩くと、堂島に値段を伝える。
「また来る。一度で分かってもらえるわけもないからな」
 ――それは、どちらの用件だろう、とアスナは逡巡した。
 からん、からん、と店のベルが鳴って堂島が出て行ったのだと分かった時点で、アスナは顔を抑えてうずくまる。
 ――ああなんてことだろう。
 顔が熱い。頬が熱い。手が熱い。心臓がうるさい。足が震える。声が出ない。あの男はなんて言った? 自分の事が好きだって? 思い返しただけで、心臓がうるさくて息が苦しい。まるで、病気にもなった気分だ。
「これから、まだお客さん来るのに、なんてこと言ってくれたのよ、あのバカ……っ」
 昔から自分のペースに人を巻き込んで乱してくれる。どうしよう、次来たらなんて言ってやろう。素直に話すのは癪に障る、なんて考えているとからん、と店のベルが鳴った。
「いらっしゃいませー」
 なんとか平常心を保って閉店までいれるだろうか、と思って堂島の座っていた席を見てみれば、名刺と、メアドのかかれたメモ紙が一つ。――何時の間に、と思って手に取って見れば「よければ、連絡をくれ」と一言。


(本当にあの男は……っ!)


 このうるさい心臓の責任は取って貰わなくてはならないようだ。

ALICE+