ただ、その聖座に座るもの
聖なる座に置いて私は願い奉らん――
ザビーダがその神殿へ足を踏み入れたのは実に百年ぶりのことだった。長い、長い旅だった。とりあえずは相棒――アイゼンの齎す死神の呪いに何度死にかけたことかわからないがひどく充実した、楽しい旅だった、と思う。身なりを整え、神殿の前へやってくると、護法天族たちがザビーダを品定めするように上から下まで眺められて不快そうにザビーダは眉をひそめた。
「通っていいよな?」
そうあからさまに手を振り上げて言えば、彼らはそれ以上は何も言わずザビーダを通した。ったく、というザビーダのボヤキも、その聖座の前に来れば些かどうでも良いものになり、百年ぶりにやってきたその座――は今日も美しく、光を浴びて輝いていた。
「おや――珍しい子が帰ってきたものだ」
聖座に腰掛けて目を閉じていたその人がゆっくりと目を開けた。紅い瞳がゆったりとした瞼の動きとともに現れてくると、白銀の、毛先にゆくに連れて更に輝きを放つその髪がさらり、と揺れた。少しばかり感じる甘い香りは供え物の花だろうか、ザビーダはゆっくりと聖座の前まで歩いていくと、その女神の手を取って――手の甲にキスをした。
「世界は随分と荒れているようだ」
「平和なのは正直、アヴァロンぐらいなもんだろうな」
ザビーダは聖座の前にあぐらをかいて腰掛けると供え物のりんごへ手を伸ばす。アスナはそれを咎めるようなこともせず、ただ柔らかなほほ笑みを浮かべて自分もりんごを手に取った。以前に比べて少し痩せたように見えるりんごだ。この土地にも、世界の影響は確実に来ている。
「これほど実りがあるのも――全ては母さんの加護ってか」
「……この間、他の場所で守護天族をしていた者が訪れてきたけど、人間は天族を忘れてしまった、と嘆いていたよ」
「ここは母さんの加護があるから人間が天族を認識できるからなぁ。信心深い人間がおおいっていうのもあってか、ここだけは祈りがなくなってないぜ」
数多の場所を巡ってきたザビーダだからこそ言えるのだろう。かつての災禍の顕主が導師との争いを起こし、聖主――改め、五大神が目覚め、世界はたしかに平和だったのだが。新たな災禍の顕主の出現に地脈を依代とした、マオテラスの力はたしかに弱まっている、とアスナも感じ取っている。
「坊やも穢れていなくてよかったよ」
「まあ、俺にはジークフリートがあるしな」
「……アイゼンは?」
男の名前を出したところで、ザビーダの手が止まった。その表情は先程までのものとは打って変わってひどくつらそうな、寂しそうな表情に変わっている。何度も、何度も対立し、よき友人となり、共に旅をする仲になったのだ、その友人を慮るザビーダの優しさにアスナは柔らかく瞳を細め、そして、その末路に心を痛めざるを得ない。
「無理だけはしては駄目だよ」
「わかってるよ」
「今回はどれほど滞在するの?」
「しばらくここに留まろうと思ってるけど……ああ、そういや、アイゼンとローティスちゃんがここらへんで会う約束をしてるって、話ししてたなあ」
懐かしい名前を聞いた。
アスナはほう、と目を見開いた。アイゼンの名前は度々耳にしていたが、ローティスはなかなか耳にしない名前だった。かつて時の天族として生きていた彼女だったが、今は人間とともに生きるため、普通の聖隷・天族と何ら変わらない状態になっている。アスナもかつては――本当に昔の話だが、アイゼンとローティスと旅をともにしていた。その旅が終わってからはこの聖座の上からどいたことはあれから八百年の間、一度もなかった。
「……そうか、あの二人も思いが結ばった、とは聞いていたが」
ひどく懐かしげな、暖かい表情を浮かべるアスナにザビーダは少しだけ考え込むような仕草を見せて、そしてひらめいたように立ち上がった。ズカズカと聖座までの間に隔たる階段を登ってくると、アスナの両手を掴んだ。
「行こうぜ!」
「え――?」
ぐい、とアスナを無理やり立ち上がらせて、あっという間に抱え上げると、ザビーダは聖座の間から飛び出した。すると、アスナに仕える護法天族たちが驚きの顔を浮かべ、ザビーダが通り過ぎた後で事態を把握する。
「ざ、ザビーダ! 今度のことはイタズラではすまんぞ!!」
「もういたずらするような年でもねえよ! 用事が済んだら、母さんは連れて戻るから安心しろってー!」
「こら、ザビーダ!戻れ!! セメア様に不敬であるぞ!」
「へーへー」
アスナはぽかん、と開いた口が塞がらず、ザビーダを見上げていた。ザビーダは楽しそうに笑いながら神殿を駆け抜けて行くと、目の前に広がる階段など目にも来れず、たん、と石畳を蹴って飛びたった。強い風が通り抜けて、ザビーダを遠くへと運ぶ。そこまでくれば、護法天族たちの追手などあってないようなもので。ザビーダが着地したのはアヴァロンのど真ん中。人間と天族が共存するこの街であっても、こんな自体は珍しいことで、突然降り立ったザビーダと抱えられているアスナに全員が視線を向ける。
「せ、セメア様……?」
「ザビーダも帰ってたのか!」
「あー、悪いな、俺と母さんちょっと出かけてくるから! なるべく遅くならないうちに帰るからよ!よろしくな!」
そういってザビーダはまた走り出した。
「す、すまん! 人にあったら、すぐに戻る!」
抱えられたまま、アスナは手を上げて住民たちに、そして自らの護法天族たちへ呼びかけた。その声は届いただろうか、アスナは落ちないようにザビーダの首に腕を回して、すぐに遠くなっていくアヴァロンを眺めた。
(ああ、久しぶりだ)
(こんな遠くからアヴァロンを眺めたのは)
ずっとあの中の聖座の上で座っているだけ。ただ、人々の祈りを聞き、天族と人間が少しでも共存できる世界を作ろうとして――つきん、とアスナの心が傷んだ。
(共存できる世界……? 違う、私は、ただ、自分にとって都合の良い箱庭を作っているだけだ)
目を閉じた。
アヴァロンの住民たちはいいものたちばかりだ。毎日神殿を訪れては掃除やお供えをしてくれるものもいる。毎日毎日祈りに来てくれるものがいる。願いを述べるものもいる。祭りともなれば夜まで賑やかでアスナも聞いていて心地が良い。
だが。
人間と天族が共存できる加護は世界のために使うべきなのではないか。私がしていることはただの自己満足なのではないか――考えれば考えるほど、今の世界の状況から自分と都合のいい箱庭を隔絶させているように思えてならなかった。
「母さん? 大丈夫か?」
とある木の上で止まったザビーダがアスナの顔を覗き込んだ。
「突然外に出て、調子悪いか?」
気遣いの声とともに、その手が優しくアスナをなでた。かつて自分の手を握った小さな手はいつの間にか自分よりも大きな手になっていて、アスナは目を細める。大丈夫だよ、と笑いかけるがザビーダは少しばかり面白くなさそうな顔をして、ふい、と視線をそらした。
「とりあえず、アイゼンたちは――っと、あっちだな」
一度目を瞑ったところでザビーダはに、と笑った。そして、再び枝を蹴って高く高く飛び上がった。彼の周りを風が取り巻くと、その体は宙に浮かんでより遠くへと飛んでゆく。飛び立ったときに強く風が舞い上がってアスナは目を細めた。しかし、荒れ狂う嵐のような恐ろしいものではなくて、自由で、心地の良い風はアスナの全身を包んで、気分を飛び立たせてくれる。
(やはり、ザビーダは自由が似合う)
* * *
そこは林の中の泉だった。アイゼンとローティスが会うのも実に久しぶりのことであったが、ザビーダに促され、百年の間に数度顔を合わせていたためか、久しぶりという感傷はあまりなかった。もともと二人はそう頻回に顔を合わせるわけでもなくこれくらいの間は常に開いているから気にしていないのも大きな理由だろう。しかし、二人きりの逢瀬はひどく心地よく満たされる感覚がある。旅で出会ったことをアイゼンをローティスに寄り添いながらぽつり、ぽつりと話していく。ローティスはそれに耳を傾けながら、時折相槌を打ってはアイゼンを見つめていた。
そんな二人の間を強い風が通り抜けて、そして――
「よっ、アイゼン、ローティス!」
ザビーダと、ザビーダに抱えられたアスナが現れた。
「……すまない、せっかく二人きりだったのにな」
アスナが申し訳な下げに目を伏せた。ザビーダがアスナを地面に下ろすと、アスナは衣服を直して二人へ頭を下げた。
「久しぶりですね、二人共」
「……八百年ぶりか」
「元気そうね、アスナ」
二人に柔らかく微笑みかけて、ザビーダの腹に肘鉄を一つ食らわせて沈ませておく。――一応は恋人の逢瀬だったのだ。邪魔をしたことに対して文句がないとは言わないし、アイゼンの目がひどく冷たいので、それはあっちのせいだ、と視線で訴えかけておく。
「アスナはずっと"聖座"にいたの?」
「それが私の勤めだからね。ローティスは相変わらず人と寄り添って暮らしてるのね」
「そうするために私は聖隷になったから」
ローティスとアスナは泉に足をつけながら話をする。ザビーダとアイゼンは林の中へ入っていった。おそらくは獲物でも借りに行ったのだろう、時折爆発音や天饗術の反応が見えるから、おおかた競争でもしてるんだろう。きっと、大きな獲物が連れてこられるに違いない。
「アイゼンとは仲良くしてるのね」
「……まあ」
「その間は何だったの?」
「そういうアスナはザビーダとは?」
そう聞かれてアスナはぽかん、と口を開けた。どうしてザビーダが出てきたのだろう、と言わんばかりの表情をしていて、ローティスはじっと凝視してしまった。ぱちぱち、と瞬きをした後に、ぶは、と笑いだして、草むらの中に倒れ込んでばちゃ、と水をはねさせた。
「ふふふ、あはは」
「面白いこといった?」
「なるほど、ローティスには私が坊やに懸想してる、とそういうわけか!」
足をばたつかせるとこの世界にしては珍しい清らかな水が跳ねて、ローティスに少しだけかかった。
「まさか――私は誰のことも愛さないよ。私は世界を愛するんだから」
その瞳は遠くを見ていた。
しかし、ただただ、寂しそうで、虚空を見ていて。ローティスはその瞳を見たことがある。あれはまだ旅をしていた頃。ザビーダの恋人だったテオドラというドラゴンを前にしたときのアスナも同じような目をしていたからだ。
「そう」
でも、きっとそれを指摘するのは自分の役割ではないとローティスは思って、八百年前、アスナが小さな体をしていたときと同じようにその手を握った。あの頃とは違う少しだけ大きな手は戦いを知らない、白い細い指だった。
「母さん!ローティス!見てくれよ!」
それからしばらく寝転がったままでいるとザビーダの声が聞こえてきた。連れてきたのは少し大きく、丸々としたウリボアだ。
「おやおや、坊や、泥だらけじゃないか」
「あー……途中でアイゼンとバトったからな」
「なんでそうなったの」
ローティすが呆れたところで、茂みからアイゼンも飛び出してきた。はやり彼の体もボロボロで明らかに戦ったのだとわかる。ただのウリボア相手にダメージを受けるような子達でないのはアスナもローティスもよくわかっている。顔を見合わせて、とりあえずはウリボアを捌こう、という話になった。
「ほう……そうやって捌くのか」
「あれ? 母さんって捌くのやったことなかったか?」
「基本的にご飯はお供えものだからな!」
「いいとこ暮らししてるな、お前」
「まあ、アスナは一応祀られてる天族だしね」
ザビーダがウリボアを捌いているのを眺めながらほうほう、とアスナは興味深そうに見ている。もともとは好奇心旺盛な、もっと外に出て回るような人だった、という話しはザビーダも昔から神殿でアスナに仕えている天族から聞いたことがある。おてんばで、一つの場所にとどまっているのが嫌いだった――と。しかし、彼女は八百年もの間耳座に座り続けている。
「ほら、母さん、教えてやるからやってみるか?」
「いいのか!」
「多少失敗しても、どうせ食うのは俺達だしな」
アスナに捌くためのナイフを持たせて、ザビーダはアスナの背後に回った。後ろからアスナの手を握ると導くように動かした。アイゼンとローティスはそれを眺めながら優しく微笑んでいる。
アスナの天饗術で火をおこすと、捌いたウリボアを火にかける。焼ける肉の匂いと、油が弾ける音が聞こえてくる。ザビーダが果物を見つけてくるとローティスとアスナへ手渡した。しかし、たしかに土地は痩せているのだろう、果物の艶もいいとはいえなかった。
「アスナ、お前に聞きたい事がある」
焼けたウリボアの肉をアスナに手渡しながらアイゼンが改まった表情を浮かべながら言った。
「災禍の顕主――お前はそれを知ってるな」
びく、とアスナは肩を震わせた。肉をかじろうとしていて開いた口はゆっくりと閉じていき、そして、アイゼンから視線がそれていく。それを是と捉えたアイゼンはじと、アスナの言葉を待った。
「……私は、私と対はもともと地脈と接続ができるから」
「見たんだな?災禍の顕主――その正体を」
「……ええ」
アスナはひどく答えづらそうな顔で答える。その結末を知っているからだろうか。
「答えろ」
「……」
アスナは無言で首を横に振った。
「俺はもともとアヴァロンに赴こうと思っていた。だから、都合がいい」
「……ローティスは知り得ることを助けてくれる天族だ。ローティスから聞くという手段もあっただろうに」
「そうだな。だが、俺達からすれば神にも等しい――セメアの意思が必要だ」
アスナはゆっくりと目を瞑った。
* * *
それは強い穢れだった。器のない天族がここに居たら汚れですぐにドラゴンにもなってしまいそうだ。アスナはただ、見つめることしかできない。戦いに出ずる者、戦うもの――アスナは世界を愛するがゆえに世界と戦うことを自ら禁じた。自分の前に立とうとするザビーダをそうそうにアイゼンたちの支援に向かわせたが――やはり、その時はやってきた。
強い穢れは、聖隷――天族をドラゴンへと落とす。
その穢れは決して今だけのものではない。長らく人間とともにあった彼女の穢れの許容範囲はあっさりと超えてしまった。ドラゴンへ成り果てようとした彼女が望んだことはたったひとつだった。
「――殺して?」
その一言はアイゼンに向かって放たれた。ザビーダは一瞬、目を見開いて止まった。それはかつて、自分が恋人を喪った日に似ていた。
アイゼンは何も言わなかった。
それは彼の中の――きっと彼女も同じだった――矜持があったから。
「……許せとは言わねぇぞ」
「……うん」
アイゼンの拳が彼女を貫いた。
(これが彼女の覚悟だった――ということ)
アスナはゆっくりと目を閉じた。ドラゴン化する前にその生命がギリギリまですり減らされたからなのだろうローティスはローティスのままだった。アスナはゆっくりとアイゼンに抱かれるローティスの元へ近づいた。
「……」
そっとローティスの手がアイゼンの頬を撫でる。その瞳は愛おしいものへ向けられた慈愛の瞳だ。そして、感謝の意思。アスナはきゅ、と唇を噛み締めた。何度も、何度も見てきた光景だ。
「――ありがとう」
ローティスがそう口にするとアイゼンは目を見開いて、そして泣きそうな顔を歪めてふと、努めて笑いかけた。
「お前ってやつは……」
アイゼンは強く抱きしめた。その腕の中でローティスは柔らかく微笑み、そしてアスナへ視線を向けた。ただ静かに瞳から涙をこぼすアスナはローティスをじっと見つめた。そして涙を拭うこともなく、ただ、優しく微笑んだ。
せめて、最後まで自分の意志で舵を取り続けた天族への餞として。
それに満足したのかローティスはゆっくりと目を瞑って、そして、アイゼンへ視線を戻した。もう時間がないと、わかっているのだろう。アイゼンもローティスも決して互いから目をそらすことはなかった。ただ、残されたその一瞬でも瞳に刻んで置こうと決めたのだろう。アスナは背を向けた。そして、口元を手で抑えると肩を震わせた。アスナの前に立ったザビーダがアスナの体をそっと引き寄せて抱きしめた。
「――――」
アイゼンは目を見開いた。その口が、紡いだ言葉に目を見開き、そしてぐっと唇を噛み締めた。ローティスは消えた。光の粒となって、世界の流れの中へと戻っていく。ローティスの気配が消えたことは――ただの始まりだったんだろう。
「結局聞けずじまいだったな――お前の真名」
天族にとって真名を教え合うのは愛の証明。
それがなくても、二人は確かに結ばれていた。
「アイゼン!! もうやめろ!」
ザビーダの声は届かない。
アイゼンはもうとまらないのだろう。わかっていたからこそ、アスナはアイゼンには伝えたくなかったのかもしれない。アスナは黙って見つめた。
「坊や――どうしてだろう」
アスナは向かっていこうとするザビーダの手を握ってただ、静かに涙を流していた。きっとアイゼンはザビーダが来ることを認めなどしないだろう。今にも泣き出しそうな顔をしているザビーダの顔は昔幼い頃、雷を怖がった頃と似ているような気がした。
「母さん!」
「――あれは、アイゼンの闘いだ」
静かに首を振った。
ただ、涙は止まらない。その結末が目に見えていたから。
「約束、したのだろう。坊や」
その顔は母親として、天族の一人として。
「アイゼンがドラゴンになったその時は――お前が殺してあげなくては」
* * *
アスナは聖座で目を開けた。あれから、幾ばくの時間が過ぎたのだろう。アイゼンはドラゴンとなった――同時に災禍の顕主も殺したが、ドラゴンとなったアイゼンは空高く舞い上がっていく。ザビーダとアスナはそれを見送ることしかできず、ただ、アヴァロンへと帰ってくるのでやっとだった。
ザビーダはしばし荒れているようで神殿の外で先輩の天族たちが抑え込んでいるようだったが、今は神殿は静まり返っている。聖座にも訪れる人間の居ない深夜になっているようだ。アスナは静かに息を吐きだした。穢れは全てなくなったわけではない。むしろ、ドラゴンが増えたことで相対的な穢れの量は増しているようにすら思える。
だが、それ以上に。
(……アイゼンとローティスが)
アスナは漸く実感した。また、一つ、手からこぼれ落ちていった同胞がいたことを。世界を愛すると決めたあの日からアスナはこの聖座に座り続けている。幸せになればいい、と、皆が幸福に愛される日々を過ごせればいいと。天族も人間も別け隔てもなく、ただ――
それでもこの願いは叶わない。
かつて、共に戦った仲間たちが居なくなるのはひどく悲しい。
アスナは静かに顔を覆った。赤い瞳から涙がこぼれ落ちて、アスナは嗚咽も上げずに泣き出した。
「……てぇ…………あの、クソジジイ共」
ザビーダが悪態をついて起き上がった頃、月が高く上がっているのが見えた。他の護法天族の気配は何も感じない。ザビーダはそっと起き上がって、聖座へと向かった。行かなければならない、と思ったからだ。
聖座は静かだった。
とりあえず、アスナしかいない聖座が静かなのはあたり前のことだが、ザビーダはドアを開けようとして手を止めた。僅かに瞳を見開いて、開いている扉から見えたのはアスナが顔を覆って泣いているところだった。
「……っ、アイゼン……ローティス……っ」
ああ、この人も悲しむ。
いや、当然のことだった。
優しい子の人が傷つかないはずがないんだ。
(いつもこうやって一人で泣いてきたのかよ)
たった一人しかいない聖座の上。
「……坊や、か?」
「あ、……ああ」
ザビーダは罰が悪そうな顔で中に入ってくる。いらっしゃい、と手招きするアスナに導かれてザビーダは聖座に近づいて、その近くに腰掛けた。
「――永遠などないよ、坊や」
「!」
「……アイゼンやローティスとて永遠ではない」
ザビーダは悲痛そうな表情を浮かべてアスナを抱きしめた。
(そうだ。永遠なんて存在しねぇ)
アスナの体は細い。
かつてこの体は――いや、この人は消えかけたではないか。
(この人だってもしかしたら――消えちまう)
ザビーダは強く抱きしめた。
ただ、ただ、アスナが消えてしまうかもしれないことが怖かった。