せめて、貴方にはある場所で


 アストリッド・ハインリヒ・フォン・レルヒェンフェルトは王宮内に与えられた自身の執務室で静かに書類へ目を通していた。国の方針を国王とともに決め、法律の観点からそれが可能なのか、法律の改正が必要なのか、それとも――と多くのことを考え、国のため、国王の方針に逆らっては居ないか、それが本当に国のためになるのか考えていく重要な役割だ。
 アストリッドはこの仕事に誇りを持っている。この国では初めての女性宰相となった彼女は議会からも多くの批判を受けている自分を承知しているが、国のため、この身を奉仕させてもらえることは嬉しい限りだ。確認した書類を束ねて数度机で叩いて束ねると、決済済みの箱の中へ入れる。長年愛用し、くたびれてきた万年筆もそろそろ替え時だろうか、と思いながらもついつい使ってしまう。
 今度の休みには街に降りて買い物に行くのがいいだろう――と考えていると、ドアがノックされた。こんこんこん、と三度きっちりとノックされ、中にはいってきたのはこの王宮の侍従長である。彼はアストリッドの仕事の手が休まっていると判断したのだろう、来客が、との旨を伝えた。
「誰かな」
「――その」
 言い濁した。珍しいこともあるものだ。とても、言いづらい来客など居ただろうか、と思ってこの宰相のもとに訪れるとしたら嫌がらせにでもきた貴族だろうな、とアストリッドは目星をつけると立ち上がって通してくれ、と侍従長へ伝えた。すると、彼は完璧な礼節を取ってどうぞ、と侍従長の後ろに居たその男を招いた。
「な……っ」
 その男を見た瞬間にアストリッドは動きを止めた。侍従長は男を招き入れ、丁寧に一礼した後執務室からさっさと出ていった。ぱちぱち、とアストリッドが目を瞬かせて、その男を眺めていた。静かに男は煙管を手に取ると、吸ってもいいか、と問いかけてきた。
「ど、どうぞ――アインス王子」
 この国の第一王子――アインス・フォン・グランツライヒ本人である。
 先日まで外交に出かけていたであろう彼が、なぜ、王宮の宰相の執務室を訪れたか、などこの際は考えないことにしようとアストリッドは手ずから茶を淹れてアインスの前に差し出した。アインスは相変わらず煙管を吹かせながら、アストリッドの挙動一つ一つを見守っている。
「アインス王子――」
「アインス」
 二人きりの部屋の中でアインスの低く鋭い声がアストリッドを刺した。
 それは立場をわきまえない言葉に聞こえるが、従兄弟として、幼馴染として共に育ってきたことを考えればその言葉も頷ける。アストリッドは下手な抵抗は特にせず、改めてアインス、とその名前を口にした。
「どうしてここに?」
「お前に、土産を」
 そう言ってアインスは懐から小さな箱を取り出した。美しい大理石のテーブルの上に置かれた小さな長方形の箱をアストリッドはしげしげと眺めて、そしてアインスの視線に促されるままに手に取った。美しいリボンが施されたそれを紐解き、箱を開けると――美しい髪飾りが入っていた。キラキラと紅い宝石がいくつも輝いていてアストリッドは目を見開いた。
「……あ」
「外交中に、そういった細工を売りにしている国があってな。――似合いそうだったから買ってきた」
「でも、私は、今、ハインリヒ、として生きてるから」
 アストリッドは女性だ。紛れもなく、女性だ。だが、ただの女性が議会に入るなどほぼ不可能に近い。アストリッドという名前も半ば捨て去っており、よほど古くからの知り合いでもない限りアストリッドとは呼ばない。ハインリヒ――男性名の方でアストリッドを呼ぶのがほとんどだ。すなわち、扱いは男。故に、男として扱われるように男らしく振る舞わねばならないのだ。アストリッドとて、このような美しい髪飾りには憧れもある。昔からこういうきれいな細工を眺めているのは好きだったし、母がきれいに着飾ってくれたことを思い出すとつけてみたくもある。だが、それでは駄目なのだ。
 守るべきもののために今の立場についている自分には無用の長物だ。
「……俺はハインリヒに渡したわけではない」
 アインスはそう言うと、その手で髪飾りを手にとってアストリッドの前に立った。無造作にポニーテールに縛るだけの太い髪紐を外すと、アストリッドの細くしなやかな髪がすとん、と下へ落ちる。それをもう一度手ですくい上げると、髪を結い始める。
「アストリッドへ持ってきたのだ。――俺の前だけでいい、つけろ」
 かちり、と髪留めがつけられたのがわかる。いつもは感じない重さをひしひしと感じて、アストリッドは目を細めた。ここには鏡をおいてないから確認もできないし、自分で髪を結い直せるはずがないではないか。
「こ、これから議会が」
「つけたまま行けばいい」
 アインスはふと笑うとアストリッドの髪にキスを落とした。そして、用件は済んだとばかりに手を降って部屋から出ていく。アインス、と声を上げて呼び止めるが彼は満足そうに笑って、ローゼンベルグ伯爵の出迎えを受けて部屋から居なくなった。
 ああ、どうしようか。
(……髪を下ろしたままは、行きたくないし)
 メイドを呼べばいいのだろうけど、きっと今の顔は見られたものではないのだろう。頬がたまらなく熱くて、耳まで熱を持っているような気分だ。



「宰相閣下だわ――あら?」

 威風堂々とあるくアストリッドの姿は別段王宮の中では珍しいことではないが、その髪に輝く髪飾りに皆が目を留めた。それは、弟王子たちの新しい王室教師――ハイネも同じだ。
「おや、ハインリヒ宰相閣下。珍しいものをつけていらっしゃいますね」
「あ、ああ――物好きな人が居てな」
 少し困ったように笑いながらアストリッドは髪飾りに触れた。
「とても良くお似合いですよ。贈られた方は、ハインリヒ宰相閣下をよくおわかりなのですね」
 ハイネは無表情ながらも穏やかな声でそう伝える。アストリッドはその言葉に破顔して、ありがとう、というとこれから議会だから、とハイネと別れた。その足取りは少しばかり軽く、今日は、議会でどんな言葉を浴びても平気な気分かもな、などと錯覚するくらいには気分がよかった。

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