愛してほしかった
カノンが海底から海上に出てくるとすでにその女神は立っていた。静かにただ、登ってくる太陽を眺めていた深緋の瞳はただ、多くの煌めきを持っていた。それは、一つの雫となってその白い頬を流れていく。
「――アスナ」
呼びかけるとその細い肩が震え、慌てて彼女は手で目をこすると、待ってたわカノン、といつものように柔らかな笑顔を浮かべて、カノンへ手を伸ばしてくる。その手は透けていて、触れられないのだ。カノンもアスナに向かって触れようと手を差し伸べても、その手が交わることはなく、ただ、エオスの手が通り抜けていく。
それを一瞬目を見開いて、悲しげに歪めたエオスの瞳からは先程と同じように涙が流れた。
「……あ、ごめんなさい。大丈夫、いつものことなのにね」
「……アスナ、」
泣きながら笑うエオスに何もできない。
抱きしめることも、涙を拭いてやることも、ただ手を握っていることすら。目の前に立っているだけ。存在しているはずなのに、認識しているはずなのに、彼女はここには居ない。わかっている。わかっているんだ。――焦ってもそれは変えられない。この計画さえ果たせば、ポセイドンをうまく利用できれば、と考えているカノンの眉間のシワに触れないはずの指が添えられた。
「怖い顔、してるわ」
「……そんなことはない」
「ううん、とぉっても怖い顔だった。わるーい、カノンが出てきたみたいよ」
くすくす、と笑いながらエオスは少しだけふわふわと浮きながらくるりと舞う。その花嫁のような美しいドレスを纏っているから、ほんの少しの動きは美しい舞を見ているように錯覚する。エオスは楽しそうに舞いながら、カノンに笑いかけた。
「前にも言っただろう、俺には悪しか無い、と」
「ふふー、悪しかない人には私は見えないのよ」
だから、貴方はいい人ね、カノン、と笑うエオスにカノンは困ったように視線をそらした。そんなことを言うのは後にも先にもエオスだけなのだ。エオスだけが、カノンをいつでも見ようとしていたし、カノンだけが、エオスをいつもその存在を認識していた。
「ねぇ、カノン」
「うん?」
「もしもね、貴方が私に会いに来たらしたいことがあるの」
エオスはそういうとピタリと止まった。
「貴方を抱きしめてあげたいわ、カノン」
優しい穏やかな笑みがカノンに向けられる。心から、本当にそう思っているのだろう、エオスの笑顔はいつでも美しい。伸びてきた腕は触れられない。だが、エオスの体がそっとカノンを包み込む。暖かな小宇宙に包まれる度に思う、彼女は確かに女神なのだと思い知る。
「俺もだ、エオス」
カノンはそっと目を閉じる。抱きしめていた暖かな小宇宙が消える、朝が来たのだ。
きっと、彼女は泣くのだろう。一人になって、朝が来て、夜が来るまでの間に。一人ぼっちを嘆いて、寂しい、寂しいと。
(……愛してる)
その言葉は今日も届かないままだ。