その恋心の話


 第三十一代唐亜玄奘三蔵法師には唯一の内弟子がいる。紅葉というその少女のような外見をしている彼女は務めがあると、慶雲寺から外出していった師匠三蔵と彼が養っている悟空が帰ってきた時、その小脇に抱えられている小さな少女に驚いて目を見開いた。
「兄様、彼女は……」
「拾った」
「またですか!?」
 悟空のときも似たようなことがあった気がする、と紅葉はスタスタと自分の脇を通り抜けていった三蔵を視線で置いながら、声を上げた。兄と呼ぶのも昔の名残だが、自分の意見が彼に通ったことは一度もないため、とりあえず少しだけ弱っている彼女を看ることが先か、と嘆息しながら、近くを通りかかった僧に水や布を頼んだ。




 と。そんなことから数ヶ月。彼女は瞬く間に元気を取り戻し、しかしながら聡明な性格をしているのか、悟空とは異なり非常に大人しく、三蔵や紅葉の動きを見ながら邪魔をしないようにと時折やってきては勉強を教えてくれる八戒のところで文字の読み書きを学んでいた。紅葉は悟空の制御役が一人増えてありがたい気分だ。悟空はやんちゃ盛りの子供だ。それはもう境内のものを壊すわ、三蔵の仕事のジャマをするわで、悟空の存在自体は三蔵を一人ぼっちにしないでいてくれてありがたいのだが、傍付きとしては悩まされる日々だった。犀は人をよく見て、悟空をうまく誘導してくれるので助かっている。
 今も、三蔵に書架へ行き、資料をもってこいと頼まれた紅葉の手伝いを進んでしてくれている。
「ごめんなさい、犀。重たくない?」
「平気だよ」
 にこりと笑った犀に紅葉は釣られたように笑う。まったく人使いの荒い師匠だ、と思う反面頼ってくれていると思えば、ついつい協力してしまいたくなってしまう自分の甘さに少しばかり嫌気もさすが仕方ない。兄と慕う三蔵こそ、紅葉にとっては全てだった。
「難しそうなの、ばっかり」
「そうだねー。古い経文ばっかりだからね。慶雲寺で保管してる古いものを書き起こしておくんだって」
「へぇ……」
 写経とか、修行とかで使うんだよ、と説明しながら経文を抱え直した。天地開元経文と呼ばれる特殊な経文とはまた異なるものだが、これはこれで古くから使われている大事な仏の教えだ。仏の心を知り、仏門に帰依するものとして学びを深める――といえば聞こえはいいのだが、最高僧の玄奘三蔵法師があれでは、何かと思うところがあるが、もうあの人は仕方ない、と紅葉は割り切っている。
「興味があるなら、少しだけ教えましょうか」
「ううん。紅葉忙しそうだし……」
「今日は書き起こしだけなので、そのときに――」
 といいかけた紅葉の言葉が止まったのを疑問に思った犀が足を止めて、紅葉の視線を辿った。その先に居たのは赤い髪、赤い瞳の男だった。犀は紅葉の顔を窺い見る、なんだか、いつもと違う表情をしている。
「よ、紅葉、犀」
「お久しぶりです。三蔵はお部屋ですか?」
 八戒に話しかけられて紅葉ははっ、となったのか、二人へ一礼した。
「兄様なら、お部屋ですよ。お二人は呼び出しですか?」
「んとよー、人使い荒いんだよ、あの三蔵様は……紅葉からもなんとか言ってくれよ」
「……俺から言って聞くのなら、とっくに改善されてるのでは?」
 確かに、と笑った悟浄は紅葉の頭をなでて、その腕から経文をごっそりと持っていった。あ、と驚いたように声を上げた紅葉は自分よりもずっと背の高い悟浄を見上げた。悟浄はにか、と笑うと、これ、三蔵のところだろ、と言って歩き出してしまった。
「礼は、茶でいいぜー」
 それだけいう悟浄の後を追うように八戒も犀から経文を預かると、先に行っていますね、と歩き出した。紅葉がぼんやりと、少しだけ頬を薄く赤くして見つめているのを、犀は不思議そうに眺めていた。



「紅葉は、悟浄のこと好きなの?」
「へぁ!?」
 紅葉が持っていた茶碗が落ちた。三蔵の執務室のすぐ近くにこしらえられている簡易の台所に響いた音に執務室から八戒が大丈夫ですか、と慌てた様子で駆け込んできたが、だ、大丈夫です、と紅葉は割れた食器をすぐに片付けなければ、と屈んで、素手のまま割れた食器をつかもうとした。
「っ」
「おい、指切ったのか」
 悟浄もやってきたかと思えば、紅葉に視線を合わせるように屈んで、その手を掴んで持ち上げた。そのまま、ぱくりと口に咥えて傷口の血を舐めとった悟浄と視線が合うと、紅葉は顔を真赤にして、は、離してください、と抵抗する。
「これくらい、舐めときゃ、治んだろ」
「だったら、自分で舐める!!」
「んな、てれんなよ」
「〜〜〜〜っ」
 くく、と笑った悟浄を紅葉は真っ赤な顔で睨みつけるが彼にはまったく意に介されていない。
 犀はそんな様子を眺めながら、確信した。――紅葉は悟浄が好きなのだ、と。



 ざば、と犀の頭の上からお湯をかけられ、髪を洗っていたシャンプーの泡がきれいに落ちた。ぷるぷる、と水気を払うようにすると、紅葉がこらこら、と軽くたしなめて乾いた布で犀の髪の毛をきれいに拭いた。
「ねぇ、紅葉」
「悟浄のことですか?」
「――聞いても大丈夫?」
「……一応は」
 紅葉は犀と入れ替わるようにして椅子に腰掛けると髪の毛を結っていた紐を外した。ぱさり、と落ちた長い髪を犀がすくい上げると、シャンプーを付けて洗っていく。泡立ち、紅葉の淡いオレンジ色が少しずつ見えなくなっていく。すでに犀の方が紅葉より身長が高く、紅葉の方がずっと細身で弱そうだ。
「悟浄のこと、好きなの?」
「……ええ」
 紅葉は目を細める。恋に恋してるだけだ、と兄に警告されたのはいつのことだったか。一時の感情に惑わされて、お前はお前のなるべきものを見失うつもりかと言われた言葉が突き刺さる。
「おかしいですね、私は尼僧だから、俗世を捨ててなければならないのに」
「……でも、紅葉だって女の人だよ」
「ありがとう、犀」
 あと、数カ月もすればきっと自分は儀式に征く。迦楼羅を封じ込めるための儀式をすれば、紅葉は普通の人間では居られなくなるし、これまでと同じようには暮らせなくなるのだろう。犀はどこか不安そうに紅葉を見つめている。それを安心させるように、紅葉はニコリと笑った。
「悟浄はね、ズルいんですよ。かっこよくて、優しくて、ちゃんと人のことを見てて、察してくれるそういう人なのに、悟浄のことはね、踏み込ませてくれないんですよ。一線引いてて、こっちから近寄ろうとすると、逃げられちゃうの」
 好きって気持ちもきっとバレてるんだろうなぁ、と紅葉は言いながら耳をふさいでお湯がかけられるのを待つ。ざば、とオレンジ色の髪がまた姿を現すと、犀に櫛を渡してその髪を整えてもらうことにした。犀は紅葉の髪に手をかけてそっと櫛を入れた。
「だから、この気持はこのままで」
「伝えないの?」
「たぶん、伝えても届かないだろうから」
 きっと、彼は愛を拒んでしまう。
「ふぅん」
 終わったよ、と言われて紅葉は水気を絞ると、髪をまとめなおして、湯船にそっと体をつけた。犀も五十数えてましょう、と犀も湯船につけて紅葉は笑った。
 いーち、にー、さーん、と数を数える紅葉は穏やかな顔をしていた。
「……もしかして、紅葉ってもう振られたの?」
「あれ、わかりやすかった?」
「なんとなく……」
 犀が少し居心地悪そうに目をそらした。紅葉はくす、と笑って優しい子だなぁ、とその頭をなでた。いつも自分が兄たちにされるように。
「振られたっていうか、茶化されてしまった、っていうか」
 ――脈なしだったの。
 紅葉はそう言って少し悲しそうに笑うと、ぶくぶくと沈んでいく。


「あ……どこまで数えたっけ」
「ごめん、忘れちゃった」

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