第01話 ヘスペロス

 ヘスペロス――
 ギリシア神話におけるティターン神族の系列にその名前を連ねる「宵の明星」の神である。親は星の神「アストライオス」と暁の女神にして星々の母と称される「エオス」の二人。彼は夜を告げる星、夕方に宵が来ることを告げる最も輝く星を司る神として存在している。ティターン神族その一柱として、その役割を果たし、夜を告げ、多くの者達に休息を伝えるものであった。その役割は時と共に人々の記憶から忘れ去られたとしても、ヘスペロスは見守っている。人にとっては夜も必要であることを。華々しい美しい暁を見るためには、真っ暗な夜が必要であることを。


* * *



 宵の明星ヘスペロスの聖衣はその少女にとっては特別なものであった。
 憧れていた師匠が身にまとっていた、特別な聖衣。それはどの聖闘士たちとも違う。「エオス」という女神に認められたものである証。特別な小宇宙を持つものだけに許される特権のようなものを少女は感じ取っていたのだ。白銀に輝くその聖衣こそ、史上であると少女は思った。そして、師匠もまた白銀を身に纏いながらもその実力は黄金聖闘士にすら劣らない、それどころか対等に接することのできる師匠の強さが、本当に少女にとってはひどく憧れであり、目標であり、光そのものだった。
 少女の名は紫雲。
 それまでは名もなく、ただの路傍の石と遜色ない生活をしてきたが、とあるとき、白銀の鎧をまとう美しい彼女に拾われて、この聖域にやってきた。聖域は紫雲にとって師匠――蒼月があの路傍の石であった紫雲に名を与えてくれた人であり、母であり、女神そのものだった。あなたは選ばれたのだ、という一つ間違えれば、新興宗教のような言葉にも紫雲は当初こそ、疑いを抱いたが、すぐにその考えは払拭される。
 ――神はこの世にいたのだ。

 黄金の椅子。
 黄金の装飾。
 美しい赤い髪は毛先に行くに連れてまるで星空のように暗く、輝きを帯びている。
 両目の明星のような深緋の瞳がじっくりと紫雲を見下ろしている、それだけで緊張が走った。
 紫雲は呆然と目の前の女神を見つめた。それは夜明け前の出来事。蒼月に連れて来られた日の夜のことである。彼女は静かに紫雲を見下ろしていたかと思えば、そっと椅子から立ち上がった。かつ、と音を立てるヒールには美しい装飾が施されて、幼い紫雲のもとへゆっくりと膝を折って、彼女は紅く彩られた美しい指先で、紫雲の顎を掬い上げた。
「待っていました、私のヘスペロスの一人よ。――我が、子供の魂を引き継ぐものよ」
 これが神ならば納得が行くような気がした。路傍の石ころにですら、優しく微笑みかけるのが本当の女神ならば納得がいく、ような、行かないような。結局にしろ、紫雲にとって神様とは最も遠い存在であったはずなのに、今、この瞬間だけ、神が自分に触れているその事実がひどく恐ろしいことだと気づいた。

 それから紫雲はエオスの聖闘士として修行を重ねていくことになる。


* * *



 ちゃり、と胸に飾った薔薇の装飾の聖衣石が音を立てた。――懐かしい夢を見ていたようだった。がたん、と揺れる列車に揺られて、硬い椅子は随分と寝心地が悪い。微かにタバコの気配を感じて顔を上げてみれば、精悍な顔立ちのおそらくはイケメンなどと称される部類の男がタバコを一本口に咥えて窓を開けて、呆然と空を眺めていた。青々とした、雲一つない晴天である。
「よぉ、起きたか」
 男の声はひどく落ち着いた声であった。そして、その声に余計な邪推も心配もないのだと、紫雲は気づくと男の肩に預けていた頭を慌てて持ち上げて、佇まいを直した。ごほん、と一つ咳払いをして仮面の位置を直して、一息をついて改めて男を見た。――といっても、紫雲の視界には男は映らない。いや、男ばかりかすべてのものが今の紫雲には見ることができない。とある事件をきっかけに紫雲は視界を失ったのだ。かれこれ、十数年前の話なのだ、と気づいて紫雲は時間の流れの速さを感じて、ため息を付きたくなる。男はコロコロと表情――といっても、仮面をつけているので、この場合は雰囲気というのが正解だが――が変わる紫雲にくっ、と笑いを喉の奥で噛み殺した。とはいっても、堪えきれているわけではなく、ただ、肩が震えている。どことなくその気配を感じ取った紫雲が再度、先程よりも強めに咳払いをすると、悪い悪い、と男は右手をひらひらとさせて紫雲に謝った。
 男はライガ。紫雲の兄弟子に当たる男である。しかしながら、この男はヘスペロスの聖衣に選ばれた人間ではない。ポスポロス――ヘスペロスと兄弟であった明けの明星を司る神ーーの聖衣に選ばれたエオスの聖闘士。人によってはエオスの守護者、二つの明星(イナリス)と呼ぶ。ライガもまた、蒼月の弟子としてエオスの守護者たる聖闘士はなんたるかを学んだ一人だ。今は紫雲とライガは二人でアメリカ大陸を横断している真っ最中であった。幼き頃から共に修行し、学び、兄妹のように過ごしてきた二人が旅をしているのにはもっぱら理由があるが、今となってはほぼ逃亡生活に近いものがある。
「なんで列車でなんて」
 紫雲が恨み言のようにつぶやいた。誇りある聖闘士である自分がこういった行動に出なければならない現在の状況への恨み言なのか、それとも別の何かなのか。ライガにはその理由も事情も十二分に余りあるほど理解しているが、この方法を提案したのはあいにくとライガだ。ライガはすでに三十代に差し掛かるれっきとした大人であり、少し間違えるとおじさんなどと呼ばれる年代に突入したが、聖域育ちであるという理由からか少しばかり世間から外れた、まだまだ世界のことに興味の尽きない子供のようなところを見せる。今日もまた、にかりと、その年齢にはふさわしくないような笑みを浮かべて紫雲に向かっていった。
「楽しいだろ?」
「――また、貴方は」
 おっと、藪蛇だったか。とライガは両手を上げて降参を示した。こうなったら、紫雲の説教はとても長く続くだろう、こういうところばかり師匠――蒼月に似てきてしまった紫雲にライガは苦笑するしかないが、彼女に缶コーヒーを手渡して、また外へ意識を向けた。
「……もう少し休んでおけよ、毎日毎日、気が休まらないだろ」
 紫雲はふと、すでにぬるくなってしまった缶コーヒーの缶を握りしめて、影を落としたように顔を俯かせた。
 二人がほぼ逃亡生活に近い、ゆく宛のない旅を続けているのには理由がある。それは――エオスの失踪に始まり、現代の女神アテナ、それを守る黄道十二宮に連なる聖闘士たちが大量に行方不明となり、特にその中核とも言えた射手座――サジタリウスの星矢がいなくなったことが大きいといえる。今の聖域は、かつての聖域とその趣を大きく変えてしまった。
 十二年前のマルス戦役。
 エオスが行方不明になっていたため、紫雲もライガもその戦役にはアテナ側として参じたが、巨大な隕石の落下によって聖衣は大きくその形を変え、その戦いも中断されてしまう形となった。その後から徐々にすべてが変わっていった。アテナは消えたわけではないのがわかる。ただ、どこかでその姿を隠しているだけなのだろう。だが、星矢は小宇宙そのものが感じ取れない。それを知ってから、ライガと紫雲は聖域から隠れるようにして飛び出した。そして、それが正解であったことを風のうわさで耳にするのだ。
 ――マルスが聖域の乗っ取りに成功しつつある。
 その情報を紫雲がかつての幼馴染――貴鬼から耳にしたのはいつだったか。聖衣の修復のためにジャミールを訪れた際、彼は小さな弟子――羅喜という名の少女――を抱えて神妙につぶやく。その瞳はマルスから遠くへと逃げ出すことに成功したライガと紫雲を案じていたし、情報も聖域の情報に疎くならないようにと提示されたものだと紫雲は気づいた。私たちはエオスの守護者だから、とその立場を明らかにすれば、貴鬼は少し呆れたようにため息を付いたかと思えば、紫雲の片手をとり、その指先にキスを落とした。気をつけろ、と口にされた言葉に紫雲は頷くことしかできなかった。
 アテナ――城戸沙織の失踪はマルス側に大きく傾きを与えるきっかけとなり、新たなアテナを立てさせることとなった。今の聖域――聖闘士の養成機関パライストラにはアテナ城戸沙織の顔を知らないものも少なくないのだ、と聞いたとき、紫雲は自らの育てる弟子の身を案じた。ちょうど十二年前に拾った赤子の彼女たちはパライストラで十二歳の誕生日をそろそろ迎えるはずだった。マルス側の息のかかったものがすでにパライストラの中にもいるのが妥当だろう、と紫雲とライガは考えているのだが、逆にそこにいる間だけは安全であってほしい、という希望的観測も十分に入っていて――特に紫雲は弟子である緋雨の身を案じて眠れない日々が続いている。

 ライガが紫雲の体調を案じたのはそういうこともあってだ。
 視界がなくなり、彼女は周りのことに敏感になった。小宇宙を常に使い、辺りを探ることは簡単ではないし、精神も肉体も摩耗させ、いつか彼女に限界を迎えさせる結果になることはライガには容易に想像ができることだった。
「……そうさせてもらいます」
 以前に比べてマルスの追手も増えた。今は緋雨もエトも無事であることはわかっているが、これからもそうとは限らない。もしも、自分たちとの関係がマルス側の人間に悟られたら――心配事は尽きなくて、紫雲は考えを振り払おうと、首を横に振った。あまりにも疲れた声を出すようになった紫雲にライガは苦笑した。心配症の妹弟子のことだ、また余計なことをたくさん背負い込もうとしてるのかもしれない。自分たちの弟子のことは大丈夫、と胸を張って言えるが、それでも怖いものは怖い、その気持はよく分かる。
(蒼月先生もそうだったのかね)
 そんな事を考えながら、コーヒーを飲むことなくまたうとうとと夢現に入ろうとする紫雲を見守った。自分たちが列車などとの公共機関を使って旅をしているなど、マルス側は考えていないだろう。自分たちだってこんな事情がなければ、使おうと思わなかったし、聖闘士の実力があれば、正直、飛行機なども必要としないところがある。いや、疲れるからしたくないというライガの本音はさておいて、のことだが。タバコが短くなってきたのを携帯灰皿に押し付けて、ライガは青々とした空を見上げる。清々しい天気にそぐわない、ひどく疲弊した気分でため息を付いた。


* * *



 とある駅で降りて、紫雲はようやく揺れから解放されて気分が晴れやかだった。ロングスカートが荒野の風に吹かれて少しだけ持ち上がる。旅をするためにと持ち歩いているバッグは身軽に最低限の着替えしか入っておらず、ライガも紫雲の少し前を歩きながら肩に担ぐようにバッグを持っている。二人しか降りなかった駅は当然のごとく無人で、二人は適当に切符を置くと、誰もいない駅から外へ出る。アメリカという土地は大都市になればごちゃごちゃしていて紫雲とライガには居心地の悪い世界だが、これくらい荒野が広がっていて人間の気配の感じない場所は嫌いではない。むしろ、好ましいと思いながらライガはタバコに火をつけた。
「もう、貴鬼は先についているのかしら」
「さぁ」
 とことこ、とライガの少し後ろをついてくる紫雲が少しだけ口調を明るめていった。ライガはちらりと横目に紫雲を伺えばどことなく楽しそうな雰囲気を感じる。そういう旅ではないと十分に知っているはずだが、それでも、紫雲にとっては彼――貴鬼に会うことはささやかな楽しみなのだろう。同い年の修行をともにしてきた仲間のような同族意識があるのだろうか。幼いころはやんちゃだったあの貴鬼も今となっては立派に弟子を迎える師匠なのだから、と考えて、ライガは懐かしさとともに一抹の寂しさを感じる。――年かね、と自嘲していると、一台の車が見えた。
「よぉ、乗るかい?」
 見覚えのあるテンガロンハットの男。ライガは男をちらりと見やって、ふと笑った。
「助かるね。目の見えない女と二人旅で困ってたところだ」
「そりゃよかった。さ、乗りな」
 気前のいい男の車に乗り込む。ライガは紫雲を導いて車のシートに座らせてやると、手を少し握って合図した。二人がしっかりと座ったのをバックミラーで確認した男はゆっくりとアクセルを踏んでアメリカの荒野へと走り出した。

 しばし、車の中は無言だったが、やっと口を開いたのは紫雲だった。
「お久しぶりですね、邪武」
 ――邪武と呼ばれた男はテンガロンハットをぐい、と持ち上げて、そうだな、といった。二人をミラーで見やって、にっと笑う。
「紫雲も元気そうだ。ますます美人になったな」
「……仮面で顔は見れないと思いますが」
 紫雲が困ったように首を傾げる。ライガがはは、と笑いながらシートへゆったりと腰掛けた。
「わざわざ呼び出されたんだ、ちゃんといい話、聞けるんだろうな」
「お前たちにとっちゃ、いい話じゃねえな」
 邪武はそういいながら車のアクセルを踏む。再びスピードが上がり、早くつきたいのだろうという気持ちがうかがえる。ライガはとっさに紫雲の体を支えるようにして腕を回し、受け止めた。
「誰にとっちゃいい話なんだよ」
 返し言葉のようにいって、邪武を見つめる。
「そりゃ、マルス側、だな」
 邪武も肩をすくめて答えた。

 広大な牧場全てが今は邪武の仕事場だ。馬や牛などたくさんの家畜がいるのを紫雲は少しだけ表情を弾ませて眺めている。聖域のはずれの村でも牧畜はやっていたが、紫雲もライガも修行ばかりでそういったことに関わる機会は少なかった。旅をして、いろいろなものに触れるきっかけにはなったが、それでも逃亡生活や、エオスの手がかりを探す旅でそこまでの余裕はない。馬や牛が生き生きと生活しているのが紫雲にはたまらなく羨ましく見えた。すると後ろからたったっ、と小気味の良い足音が聞こえてきて、それが徐々に近づいてきている。
「紫雲ーーーっ!」
 会いたかったのだー、と突撃してきたのは明るい少女の声。振り返れば飛び込んでくる赤毛の少女に紫雲は破顔した。可愛らしい幼馴染貴鬼の弟子である羅喜だ。彼女は今日も高く結んだ髪をたっぷりと揺らせて、紫雲の胸に飛び込み、紫雲はその勢いのまま草地に倒れ込んでしまった。
「まあ、羅喜、大きくなったのね」
「えへへ。紫雲、元気そうなのだ! そういえば、聞いて、私、貴鬼様に習ってね――」
「羅喜。紫雲は目が見えないから、急に抱きついてはならないといっただろう」
 後ろから現れて、元気の良すぎる弟子をたしなめた貴鬼に紫雲は顔を向けた。そっと差し出された手の気配を感じてその手を取って、立ち上がらせてもらうと貴鬼は紫雲の服についた草を払った。
「すまない、紫雲。羅喜にはもう一度よく言い聞かせておく」
「大丈夫だから、あまり羅喜を叱らないであげて。私も嬉しかったのだから」
 もう自分の胸に飛び込んできてくれるような年齢でもないのだ、弟子は。だから、羅喜のように天真爛漫で、自分に甘えてくれるのはとてもうれしいし、師匠が厳しくしているのだから、自分くらいは甘くしてもいいだろう、といたずらっぽく笑えば、貴鬼が呆れたようにまったく君は、と呟いた。しかし、それ以上は何もいってこないところを見ると、貴鬼も紫雲の言葉に納得はしてくれたのだろう。
「紫雲、邪武の家の前は階段がある。――私で良ければ手を引くが」
 少し控えめに、貴鬼はエスコートの申し出をしてくれた。小宇宙を探ればそれすら見える様になることを知っているからだろう。だが、紫雲に断る理由はない。正直小宇宙で全てを探るのは大変なのだから。お願いします、といえば、貴鬼は少し安心したように笑って静かに紫雲の手を握ってあるき出した。羅喜はそんな師匠と紫雲の姿にニコニコと笑っていると、後ろから片手で抱き上げられライガの肩に乗せられる。
「わぁっ! 高いのだー!」
「高いだろー? 今日だけな」
 ライガはそう言いながら、羅喜を肩車したまま家の中へ入っていく。

 コーヒーとドーナッツのいい香りがする。
 羅喜が紫雲の膝の上でドーナッツを頬張っている。紫雲もまたその彼女に差し出されるようにドーナッツを口に含んで咀嚼した。ライガと邪武と貴鬼はしばしその光景を眺めて微笑ましそうにしていたが、そうしてばかりもいられない、と佇まいを直したのは貴鬼だった。
「今回は警告を」
「……マルス側に動きが?」
「はい。おそらくは……ヘスペロスとポスポロスの聖衣を狙っているかと」
 ライガはそうか、と呟いて灰皿にタバコを押し付けた。最近の襲撃の多さを考えてみれば、おおよその予想はついていたことだったが、まあ、仕方ない、と静かにつぶやいた。もうここまで来てしまったのか、と紫雲は羅喜を抱きしめる手に少しだけ力が入ってしまった。紫雲、とその名前を呼んで自分を見上げてくる羅喜にできるだけ努めて優しく微笑みかけるようにして雰囲気を作り、その頭をなでた。
「どうするんだ?」
「どうするも、こうするも。俺達はこのまま旅を続けるさ。――エオス様のこともある」
 ライガはタバコを咥えて静かに答える。その瞳は揺るがない信念によって動いていた。邪武も貴鬼もその瞳を見てしまってはもう何も言えなかった。紫雲もまたその意見に賛成だ。自分たちは単なる聖闘士ではない。この聖衣は伝統と、エオスの思いそのものだ。彼女を探し出さなくてはならないのだ。
「そのエオスのこと、ライガはどこまで情報を掴んでんだ?」
「今のところは大した情報は入ってないけど……たしかにエオスの気配は感じてる。ちゃんと、生きてるよ」
 ライガはそういってそっと瞳を閉じる。
 きっとあの小宇宙はこれからも変わらないだろう。確かに感じるあの人の呼吸――確かにエオスの存在をライガも、紫雲も感じ取っていた。だからあまり心配はしていないのも実情だった。多分、いつか巡り会えるだろう。あの人のことだ、ひょっこりと現れて、などと楽観的な想像をしていられるような状況でもないのもまた事実なのだが。
「紫雲もそうするのか? せめて君だけでも――」
 安全なところへ、という貴鬼の言葉は紫雲の指に遮られた。そっと押し当てられた人差し指に貴鬼は目を見開いた。仮面の奥で、きっと今、紫雲が微笑んでいるのがわかった。それは彼女の決意そのもので、それを否定することも、彼女だけでも安全な場所にと思った自分を貴鬼は恥じた。彼女もまた、形は違っても聖闘士として戦うものなのだとまざまざと痛感させられる。貴鬼は紫雲に向かってすまなかった、と謝罪を入れた。紫雲は満足げにいいえ、と答えると仮面の奥でニッコリと笑った。届かなくても、きっと雰囲気で伝わっていることだけは事実だと信じて。
「君はエオスの聖闘士だったな」
「そうよ、貴鬼。私は、エオスの聖闘士。貴方がアテナの聖闘士であるように、私には私の守るものがあるの」
 ――戦わなくては。
 紫雲はそういうと、手を強く握りしめた。師であり、尊敬する人である蒼月もそうだったのだ。戦わねばならない日が来た、ただそれだけのことだ。紫雲の握られた手を羅喜が心配そうに見上げてくる。大丈夫よ、と努めて明るく答えるが、きっと貴鬼には伝わってしまっているのだろうと思うと心苦しい。できるなら、戦わずに過ごしたかったが、もうそういうわけには行かないのだ。
「まあ、できるだけ、隠れて行動するさ。今は表立ってマルスに反逆を示したいわけじゃないし」
「――お前」
 邪武がライガをたしなめる。
「俺達はエオス様にとって有益なら、どっちでもいいんだよ。――まあ、個人的には城戸沙織のほうが好みだけどな、あんなおっさんより」
 不謹慎なことを言っているが、それがライガの中でも場の和ませ方なのだと知っている邪武と貴鬼は困ったように笑いながら、邪武は肩をすくめて、貴鬼はため息を付いた。まあ、ライガという人間のそれがいいところであるというのもそれなりに長い付き合いである二人はよく理解しているし、紫雲もライガのそういう軽薄なように見えて実は真剣に考えているところをきちんと理解している。おそらくは大丈夫だろう。
「まあ、どっちにしろ、今日はみんなここで休んでいけよ。――特にライガと紫雲。すげぇ疲れてんだろ、風呂も沸かしてるから、紫雲、先に入ってこいよ」
「……そうさせてもらうわ」
 羅喜を床におろして、紫雲は立ち上がった。すると、羅喜が紫雲の手を握る。
「羅喜が助けてあげるのだ! 貴鬼様がしてるみたいに!」
「お願いします、羅喜」
「任せるのだ!」
 羅喜が嬉しそうに紫雲の手を引いて、お風呂場はこっちなのだ!と案内する。その楽しそうな表情に、紫雲はついついこちらまで楽しくなってくるような気分だ。そんな二人を微笑ましげに見送った邪武とライガとは対照的に心配そうな顔をする貴鬼がいる。まあ、大方弟子が紫雲に迷惑をかけないかどうかが心配なのだろうが、とライガは肩をすくめて、紫煙を吐き出した。


(貴方の計画――ちゃんと進んでますよ、エオス様)

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