Hello,Better half

美しいものは遠くにあるから美しい


 マルス――パラス、そして、サタン――神々との戦いが収束し、三年の歳月が経った。まだまだあらゆる問題が山積みではあるものの、聖域はかつての姿を取り戻し、平和な日々が地上にも、聖域にも戻ってきた。新しい教皇ハービンジャーも粗雑なところこそあれど、弱き者に目が向き、それを慮ることの出来る根っこの部分が受け入れられて、彼は今、教皇兼牡牛座の黄金聖闘士として聖域の復興、聖闘士の教育――その他雑務に追われている。今日もまた同じである。
 ハービンジャーが金牛宮から教皇宮に住まいを移してから数年になるわけだが、未だにこの教皇宮の空気になれず、目の前に積み上がる仕事にもいい加減嫌気が差してくる。――が、任されたことを放り出せない妙な生真面目さがあるのか、サボりながら(適度な休憩を入れながら)目を通して、決済し、決済済みの箱の中へ入れるということを繰り返していた。いい加減、嫌になってきたな、とハービンジャーが考えたところで、部屋がノックされた。数回、控えめなノックと扉の外から感じた小宇宙にハービンジャーはああ、もうそんな時間か、と顔を上げた。――入れよ、と言えば、教皇の執務室と廊下を隔てる重厚なドアが開かれて銀のカートを押した紫色の髪の女――宵の明星、ヘスペロスの白銀聖闘士の紫雲が入ってきた。
 あの、戦いで自らの覚悟を示すために短く切り揃えられた髪は歳月が経ち、また背中を超えるほどの長さになっていた。今日はいつものようなまとめ方はされず、大きな三つ編みにされ、紫雲の肩から垂れ下がっている。服も聖衣や修行着ではなく、落ち着いたロングスカートのワンピースで、カーディガンをその上から羽織っている。紫雲はにこり、とハービンジャーに微笑みかけるとカートを押して机の近くまでやってきた。
「ご苦労様、教皇猊下」
 その呼ばれ方にハービンジャーは眉を吊り上げる。しかし、それも紫雲はお見通しなのか(彼女は失明していてすでに目で何かをみることはないが)くすくす、と笑いながら器用にポットを手にとって、お茶にしましょう、と言った。すると、執務室に置かれている大きな振り子の時計がぼーん、と時刻を知らせる音を鳴らす。この時間は紫雲が必ずこの教皇宮へやってきて、お茶をハービンジャーに淹れる。最初は慣れない仕事をするハービンジャーに少しでも息を抜いてほしい、休憩してほしいという純粋な好意から始まったものだ。お茶だけのときもある。インテグラや女官たちからの差し入れの菓子があるときもある。はたまた、紫雲が作ったのだ、という軽食が乗っていることもあるカートのハービンジャーにはすでに見慣れたものになった。ポットからカップへ注がれるお茶を眺めながら、ハービンジャーはペンを置き場へ戻すと、椅子に深く腰掛けて目元へ手を当てた。
「あー……」
「蒸しタオル、いる?」
 紫雲は困ったように笑いながらハービンジャーにタオルを差し出した。これもきっと事前に準備してくれているのだろう、こういうところで気の利く、目の行き届く女だな、とハービンジャーはそのタオルを受け取って、目に押し当てた。じんわりと伝わってくる暖かなタオルの感触に目の奥から疲れが取れていく気分だ。そんなハービンジャーの前にお茶を差し出すと、紫雲は慣れたように執務机から少し離れたところにある椅子を引っ張り出してきて、ハービンジャーの隣に腰掛けた。
「……いつもとお茶ちげぇのか?」
 匂いが違う、と言えば紫雲は少し嬉しそうに笑って、そうなの、という。でもそこから種類の説明をしないのはハービンジャーがそういったことに興味が無いのを数年の付き合いで察しているからだろう。ハービンジャーとしても長く説明されるよりいい。きっと、飲みやすいわ、とだけいうと紫雲はハービンジャーの前にブラウニーの乗った皿を置いた。少し形が不格好なのは目が見えない紫雲が手探りで作ったからなのだろう。敢えてそんなことを指摘するような、気にするような男でもなかったハービンジャーはブラウニーを一つつかむと口の中に放り込んだ。

 こうした平和な時間が続くことは悪くない。
 ハービンジャーはちょうど半年ほど前に紫雲は自分のものだ、と聖闘士たちの前で宣言してからは紫雲の住まいも本来彼女が守護する黎明宮から教皇宮へと移させた。彼女の兄弟子にしてポスポロスの白銀聖闘士のライガは思ったよりもそのことに抵抗することなく、ただただ、紫雲を泣かせたらレーヴァテインで教皇宮ごとお前を切り裂く、と不穏な言葉を残して紫雲とその荷物をハービンジャーへと渡した。
 故にこの教皇宮に務める女官たちの紫雲の認識は白銀聖闘士――と言うよりは、"教皇ハービンジャーの妻"に近いものがすでにあった。その認識もハービンジャーとしては間違いだと思っていないが、紫雲は奥方や様付けで呼ばれることに抵抗感があるのか、いつも曖昧に笑っては、困った表情を浮かべているのをハービンジャーは知っている。照れているのか、はたまた今の関係が紫雲と自分の間で認識のズレがあるのか。前者であってほしいが、おそらくは後者だ。お茶を飲む紫雲はきょとんした表情を浮かべてハービンジャーへ顔を向けた。
「どうしたの?――おいしくなかった?」
 不安に表情を歪めた紫雲に違う、と言ってもう一つブラウニーをつまみ上げた。
「うめぇよ、大丈夫」



* * *




「うむ」
 貴鬼がハービンジャーから話を受けたのはその日の夜だった。今日は黎明宮でお勤めがあるから、と教皇宮への帰りが深夜になることを告げて去っていった紫雲とちょうど入れ替わるようにして貴鬼がお目付け役の役割のためにやってきたのだった。たくさん傷ついた聖衣の修復も一旦落ち着きを取り戻した彼は、ジャミールと聖域、そしてパライストラを行き来して聖衣の修復をしながら、教皇となったハービンジャーの手伝いや指導係としてこの教皇の間で仕事をしていることも多い。ふと、視線を落とした机の上に置かれたお茶やブラウニー、軽食の数々は紫雲が一人で仕事に取り組むハービンジャーを慮って用意したのだろう、と思えばその不格好な形も些かいじらしいものに変わる、と貴鬼は穏やかに目を細めた。
「確かに紫雲は君に対して一線引いているところはあるかもしれないな」
「だよなぁ」
 紫雲の幼馴染として忌憚なき意見を求められた貴鬼はまだ若い教皇に求められるように答えた。心を許していることも事実だが、それでもやはり何か、越えてはならない一線を紫雲は用意しているように思えるのは事実だ。その一線が一体何のために作られたものなのか、紫雲が意識しないうちにできてしまっているものなのかさすがの貴鬼でも判別がつかないが、ハービンジャーはそれを感じ取って、真剣に考えている。半年ほど前に、紫雲は自分のものだ宣言した時は一体どうなることやら、と二人の行く末を心配したこともあったが――それも杞憂であったか、と良い意味で期待を裏切られて安堵した。
 ハービンジャーは紫雲を理解しようとしている。歩み寄ろうとしている。愛など知らない、平和など見たこと無いと宣った青年は知らない、という愛をしっかりと持っているじゃないか、と貴鬼は微笑ましげにハービンジャーを見て嘆息した。
「何も悩む必要はないのでは?」
 貴鬼が穏やかにそう言うとハービンジャーは顔を上げた。多分、紫雲の答えはテーブルに並ぶハービンジャーのための料理だ。
「君は君のまま紫雲に接していれば、きっと答えは出るはずだ」
 ハービンジャーがそこに気づくか、それはわからないが。貴鬼はまだまだ前途に不安の有りそうな二人に心配こそあれど、見守るつもりだった。貴鬼の答えにハービンジャーは些か不満そうな表情を浮かべたが、たしかにそれ以上の答えがないのもわかっているのか大人しくペンを手に取った。


 羅喜が無邪気に紫雲の手を取って花畑を走る。穏やかな昼下がりの話である。今日は休憩に外でお茶でもどうだろう、と誘った紫雲について教皇宮から一歩踏み出したハービンジャーは走っていく二人の少し後をついていく。風に吹かれて舞い上がる花びらの中を穏やかに笑う紫雲がいる。胸の奥が暖かくなるような感覚に、ふと目を細めた。早くー、と呼ぶおませな牡羊座の弟子におう、と返してゆったりとした足取りでついていけば、シートが引かれており、すでにバスケットの準備が整っている。どか、と座ったハービンジャーと羅喜にお茶を差し出した後、紫雲はぼんやりと空を見上げていた。考え事をしているような、何も考えていないような――そんな横顔を見つめていると、そんな二人をじぃと羅喜が見つめていた。
「ハービンジャーは、紫雲のこと大好きなのだ!」
「あ?」
 威嚇するつもりなどハービンジャーには微塵もなかったがついそんな声が出てしまったことを許してほしかったが、紫雲は許してくれず、思いっきり手の甲をつままれて走った激痛にハービンジャーは紫雲を睨んだ。ここ数年は仮面をつけても居ない表情にはまざまざと怒りが滲んでいる。
「だってずぅっと見てる」
「あ〜〜……」
「そんなに見てもつまらんだろう? 傷のある女の顔なんて」
 紫雲は困ったように笑いながら羅喜にお菓子を差し出した。それで完全に話題が切り替わった羅喜はおやつに喜んで嬉しそうにそれを頬張っている。そんな羅喜を微笑ましげに見つめている紫雲の顔には大きな火傷がある。右目はえぐれたのか、それとも火傷で眼球が意味をなさなくなって取り出したのかハービンジャーは知らないがくぼみ傷口が塞がってはいても悍ましい傷痕となっている。かつての戦いでついたものだ、と苦笑した彼女の頭を引き寄せてその右目に優しく口付けた。
「……ハービンジャー」
「つまんなくねぇから、見てんだよ」
 薄く頬を染めた紫雲はもう、と言いながら顔をそらした。照れているのだろう。耳も首も、真っ白なその肌を赤く染めている。あまりからかうものじゃない、と言いながらもまんざらじゃない声をしているのでハービンジャーは笑った。もう一度、いつも紫雲が眠りにつくハービンジャーにするように額にキスを落とすと、羅喜はにぱっと笑った。やっぱり二人は仲が良くて素敵だ――と。



* * *




「それで、式の日取りは決まったのか?」
 紫雲が久しぶりに人馬宮に訪れると紫雲を昔からよく知るお兄さんの星矢が嬉々とした顔で聞いてきて、紫雲はつい、え? と声を上げてしまった。そんな話どこから出てきたのだろう。天秤宮から出てきていたのだろう紫龍も星矢同様の表情をしていて、結婚……? と首を傾げている紫雲に二人は徐々に表情を曇らせていった。
「は、ハービンジャーと結婚するんじゃなかったのか?」
 不安げに声を上げたのは紫龍だ。それに賛同するように大きく何度も何度も頷く星矢の姿を紫雲は見えているわけではないが小宇宙の動きから感じ取ってしばしたっぱりと沈黙をして釘をかしげた。結婚? ハービンジャーと自分が? ――まさか、あり得ない、と紫雲がはっきりと言い切ると二人は顔を見合わせて、何度も何度も目を瞬かせた。
「半年ほど前にハービンジャーが皆の前で言っただろう」
「紫雲は俺のものだ――って。アレはハービンジャーなりのプロポーズだったんだろう?」
「……二人が何を期待しているのか、なんとなく察しはつきますが」
 紫雲は苦笑した。確かにあれから周りの自分への認識が変わったことは十分にわかっているし、原因も皆が自分をどう思っているかも紫雲はわかっている。――わかっているが。
「二人が一番わかっているでしょう。――私は、ハービンジャーの妻になんて、なれませんよ」
 悲しげに笑った紫雲の顔に二人は目を見開いた。かつて無邪気に――それこそ少し前の頃の羅喜のように聖域を貴鬼と駆けて遊んではその師匠である先代の牡羊座のムウや、ヘスペロスの蒼月に怒られていたような天真爛漫の少女はいつの間にかこんなにも大人な表情をするようになった。貴鬼にも言えることだが、紫雲は大人になったという言葉で片付けてはならないような成長の仕方をさせてしまった。三年前のパラスの戦いでも、自分の師匠を自分で倒さなければならないという状況にどれだけ心を痛めたのだろう。
 そういえば、その時、紫雲の傍に甲斐甲斐しくいたのは他でもない、ハービンジャーだったな、と星矢は思い出した。そうだ、気づけばあの頃だ。紫雲がハービンジャーの隣にいるようになり、ハービンジャーが紫雲の隣りにいるようになったのは。それまでは貴鬼が自然に紫雲の隣にいたが、少しずつ、貴鬼からハービンジャーへ変わり、今となっては隣に居なければどうした? と聞きたくなるほどだ。二人も常に一緒だなんて思ってないし、それができないことなどわかっているのだが。
「紫雲」
 星矢は穏やかに微笑んだ。そうだ、大丈夫だろう、と思うのだ。粗雑で、粗暴で口は悪いし、態度も悪かった男だ。牡牛座の黄金聖衣が選んだとは言え、もともとはマルスの聖闘士だったその男は――やり方は違えど、他の聖闘士と何ら変わらない。地上の愛と平和のために――弱き者のために怒りをもって戦える男だったのだ。紫雲だってきっとわかっているのだ。
「式の日取りが決まったら教えてくれ」
「――星矢さん、あの」
 聞いていましたか、という言葉は星矢の眩しいくらいの笑顔に弾かれた。
「ハービンジャーなら大丈夫だ。――ちゃんと話し合うんだぞ」
 バレている、と紫雲は星矢から視線をそらした。星矢の手が優しく紫雲の肩を叩く。あの頃と同じ大きな手、でも思ったよりも大きく感じなかったのはきっと自分があの頃と違って大きくなったからなのだろうなぁ、と紫雲は懐かしくもあり、兄に諭された子供のように小さく頷いた。

 いつか。
 話をしなければならないとは思っていた。黎明宮から教皇宮へ居を移す時もライガに言われた言葉だ。ちゃんと話をするんだぞ、と送り出した兄のような、父のような、友のような男が一番何も言ってこないのはそれ以上なにも言うことがないからなのだ。話し合え、そういうことなのだ。
 紫雲は教皇宮のハービンジャーの寝室の、彼の巨躯がすっぽりと入る大きなベッドの元にゆっくりと歩み寄りながらはぁとため息を付いた。平穏で、たまらなく平和だ。平和など見たことのないというハービンジャーにとっては、戦いを好む彼にとっては少しばかり退屈な日々かも知れないが、紫雲にとっては心休まる、穏やかな時間だった。羅喜や、青銅聖闘士、聖闘士候補生たちとゆったりと話す時間があり、日がな空を眺めたり、料理をしたり――愛する人の隣に立っていられる、そんな平穏を紫雲はたっぷりと享受している。きっとこれ以上の幸福など存在しないのだろう、と思う。
 だが、それと同時に幸福になればなるほど、紫雲はたまらなく切なくなるのだ。
(……ハービンジャーの隣は本当に自分でよかったのだろうか)
 自分に自信がないつもりはない。だが、きっと教皇になった彼にはもっとふさわしい相手がいる。ヘスペロスの聖衣を継いだ自分には守らなくてはならないものがある。信奉する女神はエオス。アテナではない。今代のエオスの意向もあって、聖域とは協力関係にあるし、こうして紫雲がハービンジャーのもとにいられるのは偏にエオスとアテナの関係が良好だからだ。だが、そんな複雑な橘自分ではなくて、もっと単純な立場でハービンジャーを支えてあげられるそんなこの方がふさわしいのではないか、と思うのだ。そして、なにより、自分には幸せを享受する視覚など無いではないか。
(蒼月先生)
 チョーカーとしてつけているヘスペロスの聖衣石を紫雲はそっとなでた。愛おしげに、ひどく愛おしげに。彼女をライガと一緒に殺してすでに三年の月日が経ってるのだと思うと、あっという間で、でもまだこれから先もあるのだと気づく。――その、先。
(これから何十年、私は生きるのだろう)
 ジャミールの民は長命である。ヘスペロスとポスポロスの短命の宿命があったとしても、きっと、普通の人間くらいは生きられるのだろう。ライガも、きっと、弟子の二人も紫雲より早く死ぬだろう。それがこの聖衣を着るものの宿命なのだ。明星の如く、短い時間だけ輝くことの出来る人生。何の因果か長命であるはずのジャミールの民の一人が選ばれてしまうなんて皮肉にも程がある。ぼすん、と程よい硬さのベッドに紫雲は全身で倒れ込んだ。スプリングで跳ね返って体が一度僅かに浮いたような感触がする。
(――その時、私の隣に誰がいるんだろう)
 ライガも。
 緋雨も。
 エトも居なくなって。
 ――隣にいてくれる人は、きっと。
「ハービンジャー……」
「……呼んだか?」
「え?」
 紫雲は慌てて起き上がった。まだ帰ってこないと思っていたのに、この部屋の本来の主の声が聞こえて驚いたのだ。小宇宙を探れば、やはりそこにハービンジャーがいるのがわかった。寝間着の裾を整えて、紫雲は少し頬を赤くして、お、おかえりなさい、と僅かながらに声を上ずらせて言った。おう、とハービンジャーは答える。わずかに感じる石鹸の香りから、すでに入浴は済ませてきたのだろう。投げつけられたタオルにまだ髪の毛が濡れているのだと察した。
「――座って?」
 拭いてあげるから。とタオルを広げて微笑めば、おう、と少し気恥ずかしそうに頬をかいたハービンジャーが紫雲の隣に腰掛けた。タオルを頭にかけて優しく、優しくその藤色のクセのある髪を撫ぜた。心地よさそうに目を細めたハービンジャーの顔は紫雲には見えない。女官達が美丈夫だ、と紫雲に語って聞かせたのも記憶に新しいが……うん、たしかに、紫雲も一度でいい、その顔を見てみたいと思ったことはある。
「紫雲」
「ん?」
 ハービンジャーがじと、自分を見つめてくる。視線だけはわかる。どうしたの?と問えば、ハービンジャーに顎を持ち上げられてキスをされた。最初は唇同士が優しく触れ合うだけのキス。段々と唇を食んだり、舌でなぞられたりするようになると紫雲は未だなれないのかおずおずと唇を開いて、ハービンジャーを受け入れた。二人きりの部屋で、重ねる唇は甘く感じて、とても心地良い。ぎゅう、とハービンジャーの服を掴むと、しっかりとハービンジャーの腕の中で支えられる。離れた唇、舌から銀糸が二人を繋いでいたがぷつりと、切れる。
「紫雲、紫雲」
 ――まるで甘える先を探す子供のよう。
 紫雲はハービンジャーが自分を探しているような気がして、はい、ここにいるよ、と小さく返事をした。そして、その頭を優しく抱きしめて撫でる。まだ湿気っているクセのある髪を優しく、優しく指で梳いてやると、ハービンジャーが居場所を見つけたように紫雲に甘えて擦り寄った。
「……俺はやっぱり、愛ってのはわからねぇ」
 独白にも似た言葉だった。
 うん、と紫雲は相槌を打ちながら、ハービンジャーを抱きしめ続ける。
「ただ、一つだけわかるのは。――紫雲に、隣に居てほしい」
 うん。紫雲は頷いた。
「いいか?」
「私の意思なんて、一度も聞いたことなかったくせに」
 くすくすと紫雲は笑った。妙に弱気な姿を見せるハービンジャーが意外でならなかった。大丈夫だよ、ここにいるよ、言葉にしなかったその思いはハービンジャーの頭をなで続ける手に乗せて。ゆっくり、ゆっくりと。
「大好きよ、ハービンジャー」
 貴方の優しさが。
 貴方の強さが。
 貴方のその、全てが。
(赦されるのなら、このまま)



何が愛かわからない程の強い思い


 教皇ハービンジャーを伴って黎明宮を訪れるのは久しぶりのことだった。紫雲は初夏の終わりの夕暮れの空を眺めながらふと思い出した。いつも、黎明宮へ行くときは一人で。ライガやエト、緋雨が出迎えてくれるというのに、ハービンジャーがいるからだろうか、黎明宮はしん、と静まり返りなんだか、いつもと違う場所のように思えて、紫雲は尻込みした。なんだか、少しばかり拒絶されているような気分になったのだ。そんな紫雲の背中にぽん、と添えられたのはハービンジャーの大きな手だった。彼は何も言わなかったが、紫雲よりも少し先に歩きだして、紫雲はそれに追随する。しばらくすると、紫雲が幼い頃から黎明宮で侍従をしている妙齢の女性が二人を出迎えた。ライガや紫雲は早くに親を亡くしたか、最初から親の顔を知らないかというほどだ。その二人にとっては母同然――蒼月よりも厳しくしつけてくれた彼女には頭が上がらない。紫雲が彼女の存在を感じ取って、びくりと、と肩を震わせた。
「おかえりなさいませ、紫雲様」
「……た、ただいま」
「教皇猊下もようこそいらっしゃいました」
「……おう」
 どことなくハービンジャーも彼女を苦手としているのがわかった。わかるよ、ハービンジャーと心の中で彼に同意しながら、紫雲は先に歩き出した侍従長の後ろをついていくように、くい、とハービンジャーの服の裾を掴んだ。ハービンジャーがバレないように一つため息を付いて歩き出した。
 黎明宮も十二宮とさして変わらないギリシャの建物特有の白亜の神殿だ。オレンジ色の夕日をたっぷりと吸い込んだ白亜の建物は淡いオレンジ色へ変わっている。こつ、こつ、と三人の靴音が響き渡っているだけで、建物の中は異様なほど静かなものだ。紫雲はその静かな空気に違和感を感じつつ、ただただ侍従長の後ろをついていくばかり。
「紫雲様」
「は、はい!?」
 つい声が上ずってしまう。許してほしい。昔から、彼女にこの口調で呼ばれると何か怒られるときだったのだ。三十歳近くなってきてなおも彼女を前にして震えるのは本当に情けない限りだが、責めないでほしいと思った。しかしながら、その感情も彼女にはお見通しだったのか、緩やかに笑いながら緊張を解いてください、と言った。彼女はハービンジャーと紫雲に向き直ると深々とお辞儀をした。
「この度はおめでとうございます」
 二人はぽかん、と口を開けて、そして顔を自然と見合わせた。ハービンジャーは目をぱちぱちと瞬かせて、紫雲も目を開くことこそなかったが、ただ睫毛が僅かに驚きを示して上下した。二人のそんな表情を見て面白そうに破顔した侍従長はさあ、まいりますよと言って、まだ驚いている二人を置いて歩き出してしまった。二人はくす、と笑い出すとほら、とハービンジャーに手を差し出され、紫雲はそっとその手を握った。

 その部屋のドアの前に立った時、ハービンジャーは察した。聖衣を持ってくるのだった、と思ったがもうすでに遅いし、「千日戦争」を覚悟したぐらいの小宇宙が渦巻いているではないか。紫雲は後ろでオロオロとしながら、今日はやめる? とハービンジャーを気遣った言葉が聞かれるがハービンジャーを首を横に振った。これは先延ばしをしてはならない。絶対にダメだ。
「ライガ様、教皇猊下と紫雲様がいらっしゃいました」
「――おう」
 低い声だ。
 それはもう、相当低い。何なんだ、あいつ、とハービンジャーがドアが開いた瞬間に身構えたが、思ったような攻撃はまるっきりなく、ただ、ライガだけが部屋の真ん中のソファに腰掛けていて、タバコを吹かせていた。しかし、微塵も殺気を隠そうとしていないのがわかる。ハービンジャーが紫雲を俺のものだ宣言した時「泣かせたら、レーヴァテイン」発言の時以上の殺気だ。あの、あの、ハービンジャーですら一瞬足が竦みそうになった。
(しっかりしろ、俺)
 この難関は想像していただろう。この次には紫雲の幼馴染と兄貴分・姉貴分を気取る黄金聖闘士・伝説の青銅聖闘士達が待機しているのだ。奴らとも一戦交える覚悟を決めたではないか――むしろ楽しみにしていたではないか、と自分を鼓舞すると、制止する紫雲の腕を振り払うようにしてライガの座るソファの真正面に腰掛けた。
「……ハービンジャー、俺は」
 ライガが言葉を発しながらタバコをそっと灰皿に押し付ける。
「俺は、紫雲が幸せならそれでいい」
 それだけの言葉だった。だからこそ、ハービンジャーは言葉を失った。もっと色々言葉が来ると思っていたのだ。恨み言とか、紫雲の昔のこととか、兄弟子としてどうあって欲しいか、とか――結婚するってそういうことだと、ハービンジャーもなんとなく感じ取っていたのだ。だが、ライガは重々しくもあった、きっとこの言葉の裏にはたくさんの葛藤や、恨み言とか、言いたいことがたくさんあったはずなのに、ただ、静かに飲み込んだ。灰皿に押し付けられたタバコからは僅かに煙が立っている。ライガはそれには目もくれず、ハービンジャーを一点に見つめていた。
「……おう」
 ハービンジャーにはそれしか答えが見つからなかった。紫雲がドアの前でオロオロしていたのを止めて、二人のいるソファのところまで近づいてくる。ライガはそれ以上話がなかったのか、返事が聞けて満足したのか、お茶にしようぜ、と言って明るく笑って見せた。紫雲もそれに漸く一安心した表情を浮かべた。
 

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