――彼女の名前はアスナ・マリアンという。
年齢は十六。胸元には金でできた十字架を下げていた。熱狂的なクリスチャンというわけでもなく、父親が神父を名乗っているためつけているだけのことだ。まあ、その父親も神様を熱心に信仰しているかと言われれば全くそんなこともなく、よく神父になれたなこの男、というくらい俗世にまみれた男だった。酒に煙草に女――挙げ句は借金と娘であるアスナですら父親への愛情や愛着を一瞬にして失いそうになる数々の問題行動に頭を抱えていたのだが、アスナは今、父親から離れて行動している。六年前から共に巡礼と言えば聞こえがよいが確かに別の目的を持っていた父親の旅に同行していたが、妹分であり、眼の前で眠っている黒髪の少女、火炎陣翠を連れてエクソシストの総本山、黒の教団を目指して旅をしている途中である。
エクソシスト――悪魔祓い――であるアスナと翠は同じくエクソシストである父、クロス・マリアンから悪魔を倒す術を学び、悪魔を祓うための道具、対アクマ武器の使用にあたって訓練を受けていた。そして、そんな二人にエクソシストの総本山である黒の教団を目指せ、と言いつけられたのはつい一ヶ月前のことだった。
いつものように突然父に呼びつけられたアスナと翠は弟弟子になって間もない白髪の少年、アレン・ウォーカーに残っていた雑務を押し付けて、間借りしていた教会の父親の部屋を訪ねた。そこには壮年の神父が一人と、漆黒に黄金が散りばめられた妙に派手な装束を纏った赤い髪の男――クロスが悠然とワイングラスに紅いワインを注いで椅子に腰掛けていた。壮年の神父はアスナたちに気付くと、柔らかな笑みを浮かべてそれでは、と退室していった。アスナはそれを礼で見送り、父親へと向き直った。クロスはアスナの視線に取り合うこともなく、ワイングラスをくるくると回してワインの香りがふわりと立ち上ってくるのに少しばかりうっとりとした表情を浮かべて、ぐい、と一口煽った。
「娘たちよ――お前たちが俺の元で修行を初めてもう何年になる」
ついに酒で耄碌でもしたか、とアスナは口につきそうになったが敢えて堪える。隣に立っていた翠が大好きな父の言葉に喜色満面で手を上げて答える。
「五年になりました!」
「そうか。もう、そんなになったか。アスナ、お前はどうだ」
「――教団を出て六年になりました。その間、修行らしい修行をつけていただいた記憶はありませんが」
皮肉を込めて言う。六年共に旅をしていて、クロスがアスナに渡してきたのは借金やら女の処理、挙げ句は妹の翠やアレンの面倒が殆どであった。エクソシストとして修行をつけてもらった記憶はアスナには残念ながら欠片も残っていない。嫌味に気付かないのか、それともどうでもいいと考えているのかクロスはアスナの後半のセリフは殆ど無視をして話を続けた。
「アスナならわかっていると思うが、翠、お前が正式にエクソシストを名乗るためには"黒の教団"に行き、挨拶をしてこなければならん」
さて、ここから雲行きが怪しくなってきた、とアスナは思った。
「しかし、俺はあそこが好かん」
「……おやすみなさい、お父様」
アスナは間髪入れずに床に倒れ伏した。完全な寝たフリではあるがアスナの演技は完璧だった。まるで本物の寝息であるかのような息遣いが聞こえてきて、隣に立っていたはずの妹である翠は何事かと目を見開いて、突然倒れて眠りについてしまった(ように見える)姉の安否を心配して駆け寄った。ああ、なんて察しの悪い、いや、普段が良すぎてこんな時に気付けないなんて、とアスナは妹の行く末を案じて涙が流れそうになる。アスナの名演技に気付いているクロスは周りにはまったく聞こえないように舌打ちをして椅子から腰を上げた。
「翠よ、アスナがいれば黒の教団には問題なく行ける。後はアスナを頼れ、一緒に行かせてやろう」
「え、え、あの父さん? それは――」
翠が絶句した。
その手に持たれているものは金槌である。うまく叩けば人を絶命に至らしめることも可能であろうれっきとした鈍器である。逆光でクロスの表情はよく見えないがここは姉のように気絶だろうが寝るだろうがそういう演技をするべきだったのだ、と翠が考えたところですでに遅まきであるのだ。次の行動よりも遥かに早くクロスの腕が振り下ろされるとおよそ人体から発せられるべきではない金槌と前頭部の衝突音が寝たふりを続けているアスナの耳に届いて顔を顰めた。わずかに漂ってくる血の香りにその威力の高さが伺える。
(……まさか、本当に自分の娘を鈍器で殴るとは)
別の意味で感心する、とアスナは父親の傍若無人っぷりにはうすら寒さも感じる。すると音を聞きつけたのだろうアレンの声が遠くから聞こえてきて、もう一度恐ろしい音が鳴り響き、人が床に倒れた音がした。ああ、二人目の被害者が出たのだとアスナが理解したところでクロスの足音がアスナの元に近づいてきて結われていない赤い髪を一房持ち上げられた。
「……何があっても生きろよ」
男の声はあまりにも感情を伏せようとしている声音であった。溢れんばかりの何かを抑え込むために必死になり声が低くなっていて、そんな調子にアスナはクロスが――父が泣いているのではないかと思ってわずかに目を開けてしまった。あいにくとやはり逆光だったがゆえにクロスの顔はよく見えなかった。しかし、力なく微笑んでいたクロスはアスナの頭を優しく撫でて立ち上がった。
「お前には好きなところへ歩いて行ける足も、遠くへ飛ぶ翼も、世界を包む腕もあるのだ。――好きなように生きろ、立ち止まるな」
――ふと、そこで自分が眠っていたことにアスナは気付いて目を開けた。窓枠に肘をおいて手に顎を乗せた体勢で寝ていたらしい。強い機関車の揺れで手から顎が外れると一気に体勢が崩れて意識が覚醒した。ふむ、と辺りをみやってみれば、そろそろ見覚えのある景色が近づいている様子である。ここまで来ると自分が何の夢を見ていたかなどすっかりと忘れており、アスナは変な体勢で寝ていたせいで固まってしまった体をほぐすために腕を天井に向かって伸ばした。そして大きく息をつく。
「……もう六年ぶりなのか」
感慨深げに、しかし懐かしさはあまり感じられない口調である。いつの間にか目を開けていたらしい翠が蒼い瞳でアスナを見ている。
「昔、そこに居たんでしょう?」
「母が死んだ三歳から黒の教団だった」
「ああ、じゃあ、もう姉さんからしたら故郷のようなもの?」
「……ふむ、そうだな。"人間"としての故郷なら黒の教団で間違っていないだろうな」
アスナは思案深げに顎を撫でた。ふと目を細めたその左目には大きな傷が入っている。あまり傷のことを語ろうとはしないが昔、黒の教団に属していた頃に傷つけられたものらしい。失明などしていないというのが奇跡なくらいに大きく入った傷は顔の左半分をすでに両断している。美しい者はたとえ傷があっても美しいのだと、翠は思わざるを得ないほど、傷がアスナという存在を際立たせていた。
翠も世間的に見れば十分美少女と言えるほどだ。艷やかな黒髪に白い肌、青く丸々とした瞳に細くしなやかな体付き。恐らくは街を歩けば何人もが頬を赤らめて振り返るほどには美少女であろうが――アスナは少しばかり別格の美しさであった。翠が呆然と自分を眺めているのがわかったアスナは苦笑を浮かべてその頭を撫でた。
「まあ、長い列車旅ももう少しで終わりだ。駅についたら少し遅いだろうが朝食にしよう。今日は何を食べようか」
柔らかく微笑んだアスナに翠が朝ごはんを失念していたと言わんばかりに目を見開いて、本日の朝食について思案を始めた。イギリスへ来たのだから、スコーンやサンドウィッチと紅茶で優雅な朝食というのも素敵なのではないだろうかなどと思案している妹を眺めてアスナはゆるゆると気持ちを緩め、そして――左目に手を当てた。
(いつかはアイツと戦うことになるのだろうな)
悔恨たる過去との対面。黒の教団に戻ればその機会がいつかやってくるだろうし、その時アスナはどう立ち回ればいいのか今でもわからない。かつてと今は違う、と確かにはっきりと言えるのだが、もしも、再会の機会に恵まれ、その男が自分の目の前に現れた時――
(俺はあの男を裁くことができるだろうか)
今日の朝ごはんはスコーンにしようよ、と張り切った声を上げた翠にアスナは優しく微笑んだ。
街はまだ朝であるのにも関わらずずいぶんと賑わいを見せていた。人が行き交い、雑踏や雑談、軒を連ねる店から顔を出して客引きをする者たちの音で溢れている。駅も同じで、駅から出てくる頃にはアスナがうんざりとした表情で近くにあったベンチに腰掛けていた。雑踏が苦手だ、人混みが苦手だ、と常々口にするだけはある、と翠が感心したようにアスナを見て、苦笑した。
「じゃあ、何か飲み物とか買ってくるよ。えーと、コーヒー?」
「紅茶にしてくれ……紅茶屋で言ったら、一杯かポットで売ってくれるはずだ」
適当にお金の入った財布を投げ渡すと翠は行ってくるね、と小走りで雑踏の中へと消えていった。それをぼんやりと見ながらアスナは喧騒から意識を遠ざけるために目を瞑った。あらゆる気配で溢れているその世界にアスナはうんざりとしていた。――そういう面で、アスナはこの世界の破壊者と気が合いそうだとは思う。
人間は、世界は急激な発達を遂げ過ぎた。仮想十九世紀後半、英国倫敦における急速な経済発展における社会情勢の発達は目覚しいものがある。英国は急速な発展を盾にまさしく大英帝国時代を迎えているが――その影では持つもの持たざる者の格差が広がり、その格差は国家間でも明確になっている。その格差が戦争を産み、戦争は犠牲を増やし――そして、アクマを生み出してきた。
(人の歴史は変わらない)
たとえ幾数億年経とうとも、人間という生き物の本質は略奪である。己のコミュニティを守るためなら他者から搾取し、略奪するという狩猟本能が理性を勝る。故に国家間の戦争は絶えず、戦争という言葉を借りない争いは日夜絶えないのはそういうことだ。
――まったくもって醜い。
アスナは雑踏の中を歩く人々へ視線を向けた。こうして平和を享受している裏側で幾人が貧困と飢えに喘ぎ、戦火の最中で己の命を守ろうと藻掻き、大切なもののに死に泣き咽ぶのだろう。アスナは万能ではない。その全てを知る力を持っていても――それは"ヒト"であることを逸脱した力であるがゆえに万能性を棄てて、人間であろうとした。まあ、そんな事、今雑踏にいる人間たちには関係のないことであるしどうでもよいことだろう。アスナは自嘲した。自分にとって世界を愛していても人間に深い興味を抱かないのと同じだ。人間を平等に愛するという事は、全てを等しく扱うということ――それは優しくないことと同義だ。
「……俺は、人類悪と同義だものなぁ」
人間に厄災を呼び起こすもの。
おそらく其れはかつての神話の神たちの如く――いつかこの身は世界を滅ぼし、愛した人間たちを焼くのだろう。
そんな考えに耽っているとパタパタと走ってくる足音が聞こえてきた。間違えることもない――翠の足音であった。アスナは穏やかに微笑み、そして、翠を見つけると片手を上げた。今は、まだ、自分は人間を滅ぼす側ではなく守る側である。翠が美味しそうなの見つけたよーとサンドウィッチの入っている紙袋を掲げ、ポットの紅茶を持って走ってくるのを見ながら静かに考える。
――黒の教団まで、後もう少しの出来事である。
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