幼い頃からアスナは夢を見ることが多かった。夢、と言うにはあまりにも現実的なのに、非現実な白い世界が始まりだった。アスナはぽつりと佇んでいる。視線の先には同じような年頃の男の子が一人いる。お互いに目をぱちくりとさせて少年とアスナは見つめ合っていた。この世界にはたった二人だけ。アスナは恐る恐る男の子に声をかけてみることにした。
それが十数年前の話。
今は、アスナは十六歳。この不可思議な夢との付き合いも十年を超えてくると当たり前のもののように思える。ふと、目を開けると――たくさんの本棚があり、床は木目調のシックな色合い、テーブルやソファーが備えられているまるで図書館のような景色が広がった。こつり、とアスナのヒールが音を立てるとテーブルについて本を読んでいた青年と言うには未だ、少し若い男が振り返った。気軽に片手を上げた彼にアスナは柔らかく微笑むと、目の前のテーブルについた。
「今日は何を読んでいるの、ディック」
アスナがテーブルにつくと本が出てきた。ディックと呼ばれた赤毛の少年は笑うと、読んでいた本を持ち上げて表紙をアスナに見せる。ついこの間、アスナが読破して面白かったとディックに伝えた本だった。どうやら、彼の次の読書のお眼鏡にかなったらしい。
あれだけ真っ白だった空間は、いつの間にか本で埋め尽くされるようになり、本を読むのに適した環境へと変わっていった。奇妙な夢だと思う。ここに現れる本は、お互いが読んで記憶している本だけ。だから、今、これだけ溜まっている本はお互いが読んできた本の形跡だ。
何かを話すときもある。こうして、黙って本を読み続けていることもある。ディック――これは彼の偽名だ――との付き合いももう十年。彼の名前が変わるのはこれで、四十八回目。他愛のない雑談をする時は、お互いの素性みたいなものはできるだけ避けた。アスナは自分が黒の教団のエクソシストで、人間ではないことを伏せた。おそらく、ディックも自分の素性をすべて明かしてくれたわけではない。
夢の中だけの相手。
だけれど、この時間がとても大切になるくらいには長い時間を共に過ごしてきた。アスナは本を読みながら、目の前に感じる現実なのか、それとも非現実なのかわからないその男の気配を感じて微笑んだ。もしも、彼が現実にいるとするならば会ってみたいとすら思う――のは、もしかして、恋をしているのかもしれない。ふと、思い浮かんだ考えにアスナは首を横に振った。
(恋、とは少しだけ違う気がする)
多分、この感情は自分の半身を思う気持ちに似ている。愛、というには少し未熟で。恋、と言うには成熟してしまっている不完全な感情を持て余して、アスナは本のページを持て余した。
「なあ」
ディックに話しかけられてアスナはどきりとして、顔を上げる。さとられないようにと、必死に表情を取り繕ってラビへ視線を向けた。
「また、名前が変ったんさ」
「違う場所に移ったのか。今度はどこへ?」
「知ってかな、黒の教団っていうところ」
目を見開いてディックを見る。そして、ゆっくりと美しいほほ笑みを浮かべる。何たる偶然か、いや父に言わせれば偶然など存在しない。あるのは、必然だけ。ならば、ディックが今、この時、彼の地にいるのは一つの道だったのだろう。ぱたん、と本を閉じるとアスナは立ち上がった。
夢から覚めるときは、部屋のドアを開けるのだ。
「アスナ?」
「名前は聞かないでおく。――すぐに会える」
穏やかに微笑んだアスナは部屋のドアを開ける。景色は一度全てなくなり、ゆったりと現実へ戻ってくる。本だらけの世界はいつの間にか、薄暗い景色へ変わり、アスナの耳が水の音を捉えた。
舟の櫂がぎぃこと少しだけ嫌なきしみを立てるのを耳に捉えながら、翠は薄暗闇の空間へ視界を向けた。船頭はおらず、櫂が勝手に動いていくのをじぃと眺めていたのだがいつの間にか興味が失せてしまった。自分の隣には優雅に腰掛けて煙管を吹かす姉のアスナがいて、おそらくは彼女がなにか特別な力を働かせているのは明白だったからだ。
翠の姉は人ではない。紛れもなく人間の血を引いている翠の異母姉であるが、それでも姉は人ではない。翠は暗闇から姉へ視線を移す。舟の先端につけられているランプから刺す橙色を帯びた灯りを肌に受けて、アスナはわずかに微笑んでみせた。
「忙しないやつだ」
緊張しているのか、と図星を指されてしまい翠はつい萎縮してしまった。これから向かう黒の教団という場所に些か期待があった。翠には家族はもう父のクロスと異母姉のアスナしかいない。彼らに出会う以前はもっと暗い場所にいて――その頃のことはあまり思い出したくない。今の自分とは明白に異なる自分を受け入れつつも、どこか拒絶する自分がいて……心境は複雑だ。無理に思い出す必要はないさ、とアスナが笑うので、翠もそれでいいかとどことなく思っている。
アスナの口から灰色の煙が吐き出された。息に合わせて形を持っていたものが明らかにその質量を超えてあたりへと広がっていく。舟を覆い隠すように靄が広がり、翠は慌てて周囲を見回したが、アスナはケラケラと笑うだけだ。これもアスナの力なのかと翠が自覚するより早く舟が僅かな波に煽られて揺れた。
「……どうやら、行き交う舟があったみたいなのでな」
姿を隠したことをなんてことのないようにいうアスナはわずかに鋭い視線を宙へ向けた。靄がゆったりとした速度で抜けた頃にはまたあたりには静寂な暗闇が広がっていた。
外から黒の教団を見た時に、そのあまりの異様さに息を呑んだ。悪の総本山かなにかかと思っていれば、アスナがケラケラと笑いながらどっちが正義かはお前が決めればいいと口にした。この世界の正義と悪など所詮カードの裏表。立場が変われば正義は悪になり、悪は正義になる。人の歴史なんてそんなものだった。だからこそ、戦争は繰り返され、悲劇が生まれ、AKUMAという悪性兵器が生まれたのだ。
「さて、そろそろつくな」
櫂の動きがゆっくりとなる。次第に舟の速度がぐっと低くなり、緩やかに停止した。ぎぎ、と少しばかり古めかしい音を立てていた舟から音が聞こえなくなってくるとアスナは髪の毛を払いながら立ち上がった。地につくほど長い髪は三つ編みにされてもなお足元まで来る。行くぞ、と口に出さず合図を出した姉に倣って翠も慌てて立ち上がると途方も無いくらい長い階段が目に入り少しげんなりしたように肩を落として歩き出した。
黒の教団は――エクソシストの総本山である。
百年前に現れた千年伯爵との戦争を行うエクソシストたちをとりとめ、ヴァチカンの教皇の名のもとに聖戦に勝利するために組織された、最初は本当に小さな組織だったという。そもそも、エクソシストはとても希少なもので、イノセンスという神の物質に適合できる人間は数に限りがある。それらをサポートするために自然と黒の教団は大きくなっていくしかなかったのだろう。全体の割合を見ても、エクソシストは一割にも満たないのである。その一割をサポートするための組織が黒の教団である。
翠は今日、正式にエクソシストとして認められるために黒の教団へと足を運んだ。長いこの階段もそのための洗礼だと思えば安いものなのかもしれない。翠は長い階段を踏みしめるように登る合間にちらりと姉を伺い見た。燃えるような赤い髪の合間から青い瞳が覗く。何を考えているのか翠にはいまいちよくわからない瞳をしているアスナはぼんやりと先を見つめている。
アスナはもともと、黒の教団のエクソシストだった。
黒の教団と何かあったのか、六年もの間黒の教団から姿を消し、ただひっそりと生きてきた。その間も父親であり黒の教団のエクソシストであったクロスは黒の教団と関わりを持ち続けてきたというのに。
翠はアスナの過去を知らない。
アスナがあまり多くを語りたがらないからだが、それは父親に言えることで、似ていないと本人は断固して否定するだろうがそっくりなのだ。この父娘は。そんなことを本人たちに言えば、睨まれるどころではすまないだろうがと苦笑しながら翠は再び階段を踏みしめた。
(まさか、戻ってくるなんてな)
アスナは翠の視線を感じていたが、敢えて取り合わずぼんやりとそんな事を考えていた。いずれは戻ってくることになるとは思っていたが、考えていたよりずっと早かった。もう二、三年は帰らないかと思っていた。きっと、翠がエクソシストになるためにここを訪れなければアスナも帰ってくる気なんてなかったし、今すぐにでもここから姿をくらませたい気分だ。そういう意味で言えば、父が羨ましくて仕方ない。
(……仕方がないか。これもまた必然ってやつなのだろう)
父親が度々に口にすることだ。この世界に偶然は一つも存在せず、起こった出来事にはすべて意味がある必然だったのだと。人との出会いも、別れも、全てが意味のあること。何らかの形でその人間に成長や成果をもたらすことになるのだと、珍しく神父の肩書にふさわしい能書きをアスナに向かって言う。
『運命、偶然なんてものに惑わされるな。その道はお前がすべての必然を使って選び取った最良の道だったのだから』
雪の日だった。
凍えるほど冷たくなる日だった。
すべてを失った。
今でもあの日を思い出せば、足元から凍えてしまうような気分になり足を止めてしまう。階段を踏みしめる音が止まると数歩先に進んでいた翠が振り返った。少しばかり蒼白な顔をして足を止めているアスナにどうしたの、と駆け寄ってこようとする翠を片手で止めた。大丈夫、と言う。
アスナの脇を小さな子供が駆け抜けていった気がした。
赤い髪の子供と、白銀の髪の男の子と、金髪の男の子。きゃあきゃあと楽しそうに声を上げて駆け抜けていった子どもたちをアスナは振り返らなかった。振り返る真似をしてはならない。だって、もうあの頃には戻れないのだから。
「行こうか、翠」
きっとこの先にあるものはあらゆる必然を積み重ねたアスナだけの道だ。そして、目の前にいる翠にもまた、彼女が積み重ねてきた必然によってできた道がある。交わるのか、並行をたどるのかはわからないがそれでも今はこうして並んで歩けているのならばそれでいいとアスナは思う。
あの頃とは違う。
あの凍えるような思いはもう訪れない。
ジワリ、じわりと侵食していく左目の痛みにアスナはそっと目をつむった。
――それに、今は少しだけ教団に帰るのが楽しみになっている。
黒の教団の室長、コムイ・リーが急な来訪者の知らせを受けたのは仕事の真っ最中であった。中央庁から突然出迎えの指示が出て、比較的きれいな白い団服に身を包んで髪の毛を整えた。まさかスリッパで中央庁が出迎えの指示を出すような人間を出迎えるわけには行かずに、靴に履き替えて、と準備をしている間にあっさりと時間がやってきてしまった。
どんな人物なのだろう。中央庁からの、監視員かなにかなのだろうか。コムイの不安をさておいて、その人物はやってきた。最初に現れたのは黒い髪の少女である。短く切りそろえられており、活発な印象があり、長い階段を登りきった疲れからなのか、大きくため息を付いた後にコムイへ視線を向けた。
「えっと、は、はじめまして!」
「はじめまして、コムイ・リーです。あの……君が、中央庁の?」
「……ちゅーおーちょー?」
「あれ?」
眼の前の少女が首を傾げたのを見て、コムイも同じ方向に首を傾げてしまった。どういうことだろう。すると、もう一つ靴音が聞こえてきて燃えるような赤い髪が陰の中から現れた。凛とした青と緑色の瞳がコムイを捕らえると柔らかく笑ってみせる。
「中央庁に関係しているのは俺の方だな。……そうか、あなたが今の室長か」
差し出された手は黒い革の手袋で覆われていた。コムイは女性らしく細いその手を握手するために手を伸ばして握った。
「アスナ・マリアンと申します」
「……マリアン?」
「お察しの通り、クロス・マリアンの実子に当たります」
実子?
ということは娘?
「え、あ、あの、クロス元帥の?」
あの傍若無人が服を着て歩いているようなあの男に娘?
コムイは混乱がピークに達して、つい叫びを上げてしまい、その場にいた全員の視線を浴びることになってしまう。アスナはそれを苦笑しながら眺める。娘ながらに彼の傍若無人なふるまいには確かに思うところがあるし、あんな男に娘がいるだなんて誰も思わないだろう。いや――あれだけ女遊びしてれば、一人や二人くらいいそうなものだがそれを引き取るとは想像し難いのだろう。
正直な話し、娘をふたりとも引き取ったのだってイノセンスに適合しているからだとアスナは考えている。人並みの愛情を求めてはいないが、それなりに大切にされていたほうでもあるだろう。まあ、翠は鈍器で殴られたわけなのだが。自分も寝たふりをしていなければ、殴られていた確実に。
「父からの紹介状も持ってきております。妹のエクソシスト登録、そして私の教団への復帰をお認めいただけると嬉しいのですが」
アスナはこのままでは話が進まないと判断したのだろう持っていたバッグの中から手紙を取り出した。赤い蝋封の押されているそれを手渡され、コムイは改めて姿勢を正す。
「もちろんです。おかえりなさい、アスナ中元帥」
「……ただいま」
緩やかにアスナは微笑んで、再びコムイから差し出された手を握った。
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