甘やかで
緩やかな
愛しい毒

 佐登と鴎外の関係性は、此れで二つになった。
 いつも通りの首領と秘書。此れでいる時間が最も長く、元からの関係ということもなくて違和感もない。
 もう一つは――恋人という、仮の関係だ。仮、というのはまだまだ確定されていないから、というよりも今後、この関係が本物になることはない。首領である鴎外の恋人役、余計なものを惹きつけないための防波堤のようなものだ。此れは佐登こそ気づいていないが、鴎外の防波堤に佐登が選ばれたわけではなく、特殊な異能力者である佐登を守るための防波堤が鴎外である。本人の話す必要もないし、此れを誰かに明かす必要がないと鴎外は判断している。
 自分の手元においておくのが、最も彼女を有効活用出来る理論最適解――。
 改めて、佐登が鴎外の恋人であると広める必要はないと、鴎外は佐登に言った。佐登にはいつもどおりにしているように告げた。もちろん、佐登が誰かを騙すことに向いていないからというもの有るが、仮にも裏社会の人間が佐登の嘘に気づけ無いはずもなかったからだ。だから、敢えて鴎外は佐登から何かを広める必要ないと判断した。そして、自分は限りなく、鴎外は佐登を甘やかした。まるで、ゆったりと注がれる甘い毒のように。首領の執務室には必ず、誰かがいる。そして、その誰かの目に入れば十分であった。箝口令など敷いていないわけだから、あっという間にその噂は広がる。
「噂で十分なんだよ、佐登くん」
「は……?」
「噂は想像力を掻き立てるだろう? 皆を騙すのは申し訳ないけど――敵を騙すためでもあるしね」
 鴎外はニコリと笑う。その綺麗でいて冷たい笑顔に佐登は困ったように首を傾げる。確かに噂話は想像を掻き立てるけれど、そんなもので信じる人がいるだろうか。佐登の懸念は、単なる懸念で済んだわけだが。それは一週間も経てば、佐登にも理解できることだった。

「お早う御座います」
 佐登が出社してくるのは、七時半。九時の首領の始業に合わせて準備や打ち合わせもあるので早めに出社してくる。本部ビル入口の警備たちの好奇な目にさらされたのは此れが初めてだった。何故だろう、と佐登は思いながらもいつもどおりに頭を下げて入り口をくぐると専用の昇降機に乗るためにエントランスを突っ切った。
 最上階に来ると、朝か夜かと判別に困るがいつもどおりである。佐登を見つけた警備たちが一斉にいつも以上に礼を払った挨拶をする。
(……?)
 わけがわからない。佐登はとりあえず、礼を返して進んでいく。彼らにとっては佐登は好まない生き物だろうと佐登は思っていたからだ。日頃から敬意を払われることはあまりない。佐登は首を傾げながら、首領の執務室のドアを開ける。当然、まだ首領はやってきておらず、静かなものだ。首領の机の上を再度整理しながら、突然彼らが敬意を払う理由について熟考してみる。異能力については幹部クラスにしか明かされていないし、何か功績を上げたかと言われればそうでもない。佐登は基本首領について内勤しているだけだからだ。銃の扱いが向上したなんてことはないし……汎ゆる可能性を列挙しながら、佐登は珈琲豆を取り出すと、手挽き珈琲粉砕機の中に入れて、その取っ手を回した。
 鴎外は紅茶の方が好みだが、朝に出すのは珈琲の方が喜ばれた。砂糖と牛乳も用意するが、牛乳は少し温めておこう。佐登は片手鍋を用意し、その中へ牛乳を入れると予定を一通り確認するため、目を通す。今日はと或る企業との会合があり、鴎外は外へ出る。佐登もそれに同行の予定であった。
「……なんでだろう」
「何が、かな?」突然、聞こえてきた声に佐登の肩は大きく跳ね上がった。振り替えてみれば、鴎外がエリスを伴って立っていた。いつもとは雰囲気の違う背広の装いに、佐登は目を見開いて、しかしよく似合っているのでみるみる顔を赤くした。
「お、お早う御座います。――予定よりも早いご出勤ですが、何かございましたか?」
「うん? 何もないよ、ほら、早く来たら佐登くんに会えるじゃないか」
 にこやかに笑う鴎外に佐登は声を詰まらせた。ぽこぽこと、音を立て始めた牛乳が煮詰まってしまわないように、慌ててコンロを止めた。
「……あの、首領、」
「いい香りだ。珈琲を淹れてくれるかな?」
「そのつもりですが、あの、」
「"君と"ゆっくり飲みたいんだ。二人分、頼むよ」
 有無言わせず、鴎外はそう言って、佐登の額に口づけを落とした。ぴえ、と何かの呻き声というにはあまりにも力のない声が上がったが、鴎外は気にはせず、待っているよと片手を振って給湯室から出ていく。お湯が沸いたことを告げるヤカンの音で佐登は何とか現実に戻ってきた。

「何かあったのかい?」
「え?」
 鴎外の声にたっぷりミルクと砂糖が入った珈琲から顔を上げてみると、鴎外が少し心配そうな表情をして此方を見ていた。佐登は顔を何とか上げたが、慌てて首を振った。何かあった、なんてことではない。ただ、どことない違和感を感じただけなのだ。
「心配だな、君は余り相談してくれないから」
 あたかも、恋人らしい言葉だ。優しく手を包まれると、本当にこの人と恋人なのではないかと錯覚してしまいそうになる。僅かに視線を感じるのはこの首領の執務室に待機している護衛のものだと佐登でも解る。彼らは何か口に挟んでくることはないし、ふと気がつくと佐登では気配を感じ取れなくなってしまうが――確かにいるのだ。明確に首領が人払いをしていない限りはいるであろう人たちに佐登は僅かに身動ぎした。
「本当に、大丈夫です」
「ならいいけれど。――若し、君に何か言ってくる人がいるのなら、私に言ってくれて構わないよ」
 ――その人の命はあるのですか、という言葉はつぐんだ。其れは後ろにいる人間たちの方がよく分かっていることだろうし、鴎外がこう発言した意図をわからないほど愚鈍な人間たちは此処に配備されない。森鴎外という人間の意図を完全にではないにしろ、彼を不快にしない程度に汲み取れるからこそ、彼らはここで護衛役を務められているのだ。佐登は瞳を伏せて、静かに「はい」と短く返事をした。恋人役、を演じる上でこの過程は必要なものだと言われていたので、敢えて此れ以上の返事はいらないだろうと思った。
「却説、そろそろ始業時間だ。……名残惜しいなぁ」
 鴎外が佐登の手に指を絡めながら、目を細める。佐登は顔を赤らめながら、身を固まらせ、何も言えないままだ。慣れない初々しさを緩やかに見ながら、鴎外は言葉通りに名残惜しげに手を離していく。珈琲カップには互いに何も残っておらず、佐登は其れを片付けるために最初に立ち上がる。ぱたぱたと、耳まで赤くした佐登が給湯室まで駆け込んでいくのを眺めて、鴎外は口元に笑みを浮かべた。
「かわいいねぇ」




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