「いや、鴎外殿は善い秘書を見つけられましたな」
「ええ。彼女は本当に素晴らしい女性ですよ――"公私"共に、私の傍にあってくれている」
秘書として、参加していても鴎外はそれとなく佐登の存在が特別であると言い広めている。こういう地道なことが重要なのだということなので、敢えて佐登は口を挟まないが、隠しているという設定上仕方なしに鴎外の背広の裾を引っ張るのだ。少し咎めるような視線で、鴎外を見上げ咳払いを一つ。――おっと、と言わんばかりの表情を浮かべた鴎外が失礼しました、と相手に対して何時もの食えない笑みを浮かべたところで、佐登は服の裾を離す。
「……あれは言い過ぎなのでは?」
「ちょっと露骨だったかな?」
鴎外が悪戯っ子のように笑うので、佐登は小さくため息をつく。飲み物を運ぶ銀のトレイを持ったボーイに向かって鴎外が手を挙げると、彼は即座に気づいて二人の元へ飲み物を運んでくる。こういう場で出されるのは酒であり、鴎外は佐登が酒に弱くないことを知っていた。どのくらい飲めるのか、という話を以前に交わしたからである。佐登は鴎外の分も含めて、比較的酒精の強くないシャンパンを手にとった。緩やかな黄金色の中をいくつかの気泡が立ち上っていく様はライトを浴びて綺羅びやかでいい。佐登からそれを受け取って鴎外はしばし眺めた後、口へ運んだ。
「随分と見られているね、暮」
わざとらしく耳元で、鴎外がそういった。実はこの恋人関係が事実無根です、などは感じさせない自然で流れるような動きだった。秘した恋人関係に有る上司と部下は度々、こういった人の目に付きづらいパーティーの壁際で、愛を確認し合うことが多い。鴎外も其れに倣ったのだろう。佐登がわかりやすく、耳まで赤くするので誰も疑わないと言った印象だ。
「……見られているのは、首領では?」佐登は苦し紛れにそういった。
パーティーの都度、会場に入る度に一斉に沢山の視線を浴びるのは鴎外の方だ。ポートマフィアの首領、纏う濃密な夜の気配と香りはとても退廃的で、然して昼の人間には魅力的に見えるのだろう。纏う漆黒の服が此れまた鴎外を引き立てると佐登は考えている。佐登が今日、鴎外に渡されたドレスはボルドーカラーのシックなものだ。黒い透けの有るストールをまとってはいるが背中が大きく開いており、鴎外の雰囲気と合わさって艷やかな印象を与えていた。
「否、君だよ」
鴎外が面白そうに、唇を歪める。「後ろを見てご覧」甘く囁かれる声に、心臓が跳ね上がるのを感じながら佐登はゆっくりと振り返った。確かに一つ、自分をかすめる視線があることに気付いた。嫉妬、怒りとも違う、なんとも気持ち悪い視線だった。とっさに鴎外にすがりつくと、鴎外が腰を抱いて佐登を引き寄せた。
「それでいいよ、正解だ」
鴎外の唇が、佐登の首筋を掠めた。肩が震えた後、気持ち悪い視線は感じなくなった。殺気など、よくわからないがなんとも気持ち悪い視線だった。佐登は視線から外れたことにホッとしながら、鴎外の背広から手を離す。鴎外も手を離して、パーティー会場を伺う。先程の男の気配はすでに紛れてしまい、視線も此方には向いていないようだ。
「立原君、暫く警戒だけは怠らないでくれ給え」
警備にあたっている黒蜥蜴へ指示を出すと、佐登の視線とかち合った。どこか、不安げだ。優しく頭を撫でる。
「大丈夫だよ、大したことじゃない」
佐登は脅威にならなければ、未来予測ができない。そもそも、鴎外は未来予測を必要以外は禁じているため佐登が意図的に未来予測をすることはないし、させる者もいない。だが、佐登は少しずつ、未来予測をものにしてきている。
「却説、今日はそろそろ退散しようか。話したい相手とは話せたしね」
人物リストならば佐登の頭に入っている。承知しました、と佐登が頭を下げる。電話一つで、迎えがすぐに来れる手はずになっている。鴎外は連絡を終えた佐登を確認して主催者に退出をする旨を告げると、さっさとパーティーの人の波を抜けて、車寄せまで出てくる。
黒蜥蜴の迎えを受けて、専用の運転手が運転する車の中に佐登と乗り込む。キャラデックリムジンの中の座席は対面となっており、佐登は鴎外の前に腰掛けた。此処でエリスがいるならば、エリスは鴎外の隣(彼女自身は嫌々そうであるが)佐登はエリスの対面に腰掛けることが多い。二人きりなのに、対面ではない理由がないので、佐登は対面に座る。
「おや」鴎外がどこかきょとんとした表情で言う。「隣、空いているよ?」
「……真逆。畏れ多い」
佐登は静かに返すと、バッグの中から端末を取り出して操作する。パーティーのスケジュールが滞り無く終わったことを確認して、次の仕事の予定を確認するのだ。とはいっても、今日は此れで御仕舞い。帰って休むだけである。佐登はこのまま本部で泊まる予定であったし、鴎外も予定では本部で休むことになっている。
「この侭、本部で宜しいですか?」
「勿論。嗚呼、否、佐登くんが良ければ、軽く食事でもどうだろう」
「……私で宜しいのですか?」
「私の"恋人"は君なのだけれど」
車の中、聞いているとすれば運転手のみだが、鴎外は白々しく強調した。佐登はかしこまりました、と言うとどこに致しますか、と告げた。
「うーん、この時間なら前に行った会員制のレストランが開いてるんじゃないかなぁ。彼処、美味しかったし」
「そうですね。軽めの食事なら、そちらがいいと思います」
佐登は頷くと、運転手へ振り返り、本部へ直帰しないことを告げた。運転手はかしこまりました、と一言応えるだけだ。その後は鴎外と仕事の話を交わし、レストランで食事をし、本部へ戻ってきた。最上階は相変わらずこの時間になると静寂で、佐登は鴎外を部屋の前まで見送り、一礼し、その場を辞しようとしたが鴎外の手に止められる。
「――泊まっていく?」
意地の悪い質問だ、と佐登は認識するよりも早く、鴎外を驚きの余り見上げていた。目をあまりに瞬かせているので鴎外がくす、と笑い出す。嗚呼、冗談だったのか、と佐登が考えていると鴎外は佐登の手を離した。
「男は狼だからね、気をつけなさい。――お休み」
「……おやすみなさい、ませ」
釈然としないが、佐登は鴎外へ頭を下げ、鴎外が部屋の中へ消えていくのを眺めた。小さく、本当に小さくため息をつくと、扉を守る二人の護衛に首領の行動予定を告げる。とはいってもこの後は休むだけである。佐登は秘書室の休憩室にいることを告げ、何かあれば連絡してほしいことを言った。其れでは、宜しくお願いします、と一言告げて佐登は自室へと引き上げた。
電気をつけて、周囲の監視カメラの映像が映るようになっているパソコンを一つ確認してから、其れを全て待機状態にするとストールをデスクの上へきれいに畳んで置いた。
(化粧を落として、お風呂に入って、ドレスは洗濯所に出して……)
(嗚呼、明日の首領の行動予定もきちんと整理しておかなくては。明日は紅葉さんが本部での首領との打ち合わせにいらっしゃられるから……)
すごく、眠い。疲れているから余計に眠たいのだろう。ベッドに腰掛けて、自分を叱咤する。せめて、コンタクトは外そうと佐登は枕元においてあるレンズ入れにコンタクトレンズを戻して、眼鏡をかける。ちなみに瓶底眼鏡はエリスにも鴎外にも紅葉にも――挙げ句中原にも却下されたため、眼鏡は新調された。以前のようなスクエア型も余り皆からは好まれなかったので、楕円形のフレームが細身のものを選んだ。コンタクトが着けられない時や夜に執務をする時は此方だ。
(あー……眠い)
明日、六時に起きられれば仕事前にシャワーを浴びられるが。さすがに化粧を落とさないのは拙い。何とかなんとか叱咤して、秘書室に備え付けのシャワールームへなんとか入り込み、お湯を出すコックをひねった。
「あ、そうだった」
自室で本を読んでいた鴎外が顔を上げた。エリスはとっくに休んでいるので、いない。佐登に一つ確認しようとしていたことがあったと思い出したのだ。明日でもいいと言えば、いいが――明日の仕事のことだ。一つ、予定をずらしてもらおうと思っていて、すっかりと忘れていた。今なら、まだ起きているだろうか。たったこれだけの距離しかない場所で携帯を使うのもあれだし、寝る前の佐登も少し気になったので、鴎外は佐登の部屋に出向くことにした。護衛にはその旨を伝える。最上階の移動だけならば、彼らは基本動かない。
佐登の自室は秘書室の奥。通路から入れるのは秘書室までで、秘書室は解錠番号がないと開かない。鴎外はそれを知っているため、秘書室に難なくと踏み入る。綺麗に整頓されているようで、実は彼女自身が余り部屋をいじっていないだけである秘書室をさっさと通り抜けると、佐登の私室の扉のノブへ手をかけた。――そして、顔を顰めた。鍵が、かかっていないのである。
(真逆、不用心すぎるのでは)
今、まさに侵入しようとしている人間が思うことではないがあまりにも危機感がない。まあ、確かに秘書室は簡単に立ち入れない場所であるから、その奥である私室に入れる人間も限られているのは解る。其れにしたって鍵をかけていないのは不用心すぎる。
(……嗚呼、そう言えば普段からか)
無防備である。誰に対しても警戒心が薄い、というわけではないがマフィアの首領である鴎外からすればあれは十分無防備で、鴎外がいなければ襲われてもおかしくないと思う場面がいくつも有る。にこやかに躱してはいるが、佐登に向けられる男たちの目が気に入らない――と、そこまで考えて、ノブを回す手が止まった。
(気に入らない?)
ピタリと止まった手に、鴎外は眉をひそめた。何だ、其れはと考えようとしたところで、部屋の中からばふ、と何かが倒れてベッドに受け止められた音がした。ノブを回して扉を開いてみれば、佐登がベッドに倒れ込むようにして寝ている。力尽きた、そういう印象である。
「……君は、全く」
肩から力が抜けて、鴎外は佐登が眠っているベッドへ近づいた。そして、布団も被らないまま眠っている彼女を正しくベッドの中へ入れて布団をかけ直してやる。すやすやと眠る佐登はやっぱり無防備だ。此の侭鴎外が佐登を殺すことだって出来る状況だと言うのに。鴎外は佐登の首にそっと、指をかけようとして――止めた。
利益がない。――必要性を感じない。
そう言いながら、ベッドへ腰掛けた。確認したいことがあったはずだが、ふむ、寝ている佐登を見ているとそれも明日でいいかと思える。髪へそっと手を通すと、僅かにまだ湿っている気がした。少し、くすぐったそうに表情を歪めた佐登を見て、手を離してみる。
「ん――……」
起きたか、と思うが、むにゃむにゃとした後、佐登はまた先程のように規則正しい寝息を立て始めた。
「……首、領」
それに柔らかく、笑みをこぼすと、鴎外は額にキスをした。
窓もない部屋。僅かな夕焼け色の簡易照明の中で、佐登は静かに眠っていた。