首領からの声に佐登は本棚を整理する手を止めて、そちらへ振り返った。此処数ヶ月、特段大きな事件もなく、鴎外いわく小さな小競り合いで済んでいるので、首領の仕事も概ね緩やかと言えるだろう。その折に、鴎外から声をかけられた。休日の予定を思い返して、部屋の掃除くらいだったな、と思ったところで、佐登は鴎外へ振り返った。すると、鴎外が机から、通常のものよりもずっと幅が広めの封筒を取り出して、佐登に見せた。佐登が近づいてきたところで、その手のひらに乗せる。
「見てご覧?」
「はい……?」
言われるがままに佐登は封筒を開けてみる。なかなか固い紙で出来ているそれを開けてみれば、中から観劇券が二つはいっていた。
「これ……今、芸術劇場で行われている演劇の……!?」
佐登はその観劇券に見覚えがあった。つい先日、新聞にも大々的に記事が上がっていた、芸術劇場で現在行われている外国から来ている劇団の観劇券だ。ただの末席ですら、人気が上がりすぎて、観劇券が取れないような状況になっている特別なもので、しかも――――鴎外が見せた観劇券は、芸術劇場の特別閲覧席。金額だけでも、相当な額だというのに、観劇が趣味の富裕層から絶大な人気があり、さらに一公演一組であることも合わさって、とんでもない壮絶な闘いを繰り広げなければ、観劇券を入手できないというほどの、レアものである。
「特別閲覧席の観劇券ではありませんか! どうして、これが」
「ふふ、暮が見たがっていたのを小耳に挟んでね」
――――その話を、首領にしただろうか。 暮はぼんやりと考えて首を傾げた。そういえば、先日、紅葉にお茶に誘われたときに、観劇券を取ろうとしたが惨敗したのだ、という話はした。たまたまその場には紅葉に付き合わされていた、樋口にも聞かれていただろう。芸術劇場での演劇を見に行きたいとずっと思っていたのだが、叶わなくて残念だという話をしたら、紅葉は「首領に言ってみればよいじゃろう?」といい、樋口もうんうんと頷いていた。
『首領なら、簡単に取れると思いますよ』
という樋口の言葉を思い出した。本当に簡単に取ったのだろうか、すごい気になる。
「でも、二枚……?」
「そう。――――私と、逢引に行こう?」
――――逢引、とは。
逢引とは、交際している男女、もしくは交際をしたいと思っている男女が連れ立って買い物や娯楽施設を回ってともに楽しむことを言う。
「あまりにも頭が追いついてこなくて、逢引とは何かから始めおったな」
紅葉が楽しそうにカラカラ笑っているが、佐登の耳には半分程度も入っていない。逢引とは、逢引とは……とうわ言のように繰り返しながら広辞苑を引いているさまは正直なところ滑稽である。その手には確りと観劇券が握られている。
「善かったなぁ。鴎外殿も中々隅に置けぬ」
「……紅葉さ、ん。逢引って」
「お主が今、自分で申しておったじゃろう。『交際している男女が連れ立って買い物や娯楽施設を回ってともに楽しむことを言う』と」
繰り返してやりながら、紅葉は着物の裾で口元を抑えた。
「交際している、男女」
「交際している男女、じゃろう。善いから、当日何を着ていくかさっさと決めよ。観劇ならば、着物かえ?」
「姐さん、着物よりもワンピースの方が首領の服装と合わせて映えるのでは?」
「おお、中也、善いことを言う。そうじゃな、ほら、佐登、しっかりせぇ」
中原は紅葉に呼び出されたらしい。付き合わせて申し訳ないと思いつつ、ワンピースをもそもそと取り出してくる。実はこれらは首領からの贈り物である。公式な場所でも着れるようなものも多く、確かに観劇にも向いているだろうな、などと考える。
「首領はいつもどおり背広だろうしな。落ち着いていて洒落たワンピースがいいんじゃねえか」
ほら、此れとかどうだ。
中原が手にとったのはボルドーの深い色味で、装飾も華美ではない丈の長いワンピースだった。これらは首領からの贈り物だと聞いていたが、エリス嬢に贈るものとは違ってやけに落ち着いた色味や、襞や綾織の少ない大人の意匠のものが多い。適度な露出も、らしいといえばらしいのだろう。
(まあ、首領も流石に二十を超えた大人の女に贈るもんは別、ってわけか)
紅葉がワンピースを受け取って佐登の体に押し当てる。髪飾りや首飾り、耳飾りに靴。全て箱にしっかりとしまわれたままであり、中也は其れ等を一瞥した。――――まるで、人形みてぇだな、と考えたが、振り払う。エリスに対する扱いを見て分かる通り、鴎外は相手に自分好みに着飾ってほしいという思いがあるようだ。
「で、でもへ、んじゃないですか」
「首領が贈ってきたのじゃろう? 一度くらいは着てやらねば拗ねるぞ?」
紅葉の言葉にワンピースをそっとなぞって佐登は表情を暗めた。沢山積み上がっている箱を眺める。沢山、贈り物をされたがどうにも慣れないものだ。これ以上は、と何度も言い募っているのだが、受け取ってくれるだけでいいんだよ、と言われ、なし崩し的に受け取ってしまう。一応、傷がつかないように、傷まないようにと注意はしているのだが。パーティーや、会食などでできるだけ着るようにはしているのだが、どうしても追いつかない。
佐登はそっと、ため息を付いて着ていく予定のワンピースを眺めた。
逢引に行くくらいで、ドキドキしてどうするというのだろう。佐登は予定の確認を済ませて、書類を束ね終えるとそっとため息を付いた。休日が近づく都度にソワソワとしてしまって、面白がって鴎外は笑うし、紅葉や中原には微笑ましく見守られる始末。この間は広津にすら「少し、落ち着き給え」と言われてしまい、仕事中に落ち込んでしまいそうになった。
――――私、そんなにわかりやすいですかね。
樋口が佐登の顔をじと、見ている。書類の提出を求めて、佐登が本部で待機しているという芥川を訪ねてきたのだが、不在だったので樋口に言伝を頼んで、ふと思って口についてしまったのだ。樋口はしばし悩んだ様子で、いうべきか否かと悩んだのだろう。佐登も黙って返答を待っていたので、漸くと言った体で話し出す。
「恐らくは最近の佐登秘書官の様子を見れば、誰もが気づくかと……」
「ああ、やっぱりぃ……」
恥ずかしい。恥ずかしすぎて穴があったら今すぐにでも入りたい。飛び込みたい。佐登は書類を抱えたままその場にしゃがみこんでしまう。首領に面白がられているのはわかっていたし、妙に最近微笑ましげな視線が多いなぁとは思っていた。思ってはいたし、自分で聞いたことだというのに思ったよりもダメージが大きくて立ち直れそうになかった。
「広津さんが首領もそこそこ楽しげだとおっしゃっていましたよ」
慰めるよう樋口にも慌ててしゃがみこんで、佐登の背中をなでてくれる。慰めの言葉も佐登はその楽しげなのはおそらく、私を面白がっているだけですと、更に落ち込みかけている。然し、こんなところでいつまでも落ち込んでいるわけには行かないのだ。今日の仕事を、今日中に片付けないと、明日逢引の前に仕事をしにこなければならないのだから。
なんとか、フラフラと立ち上がったところで「クレー!!」と愛らしい声が聞こえてきて、振り返ると、エリスが勢いそのままに佐登に抱きついてきた。立ち上がりかけたところでのことだったため、倒れ込みそうになってしまった。樋口が後ろ側にいなければ、そのまま倒れていたかもしれない。
「え、エリス嬢、危ないですよ」
「ちょっと、クレ、聞いて頂戴! リンタロウったら、私を明日、連れて行かないっていうのよ!!」
私も行きたいのに! とエリスは佐登から体を離すと、ぷんぷんと怒りながら、腰に手を当てていた。
「明日……ああ、観劇ですか? てっきり、エリス嬢もご一緒かと思っていましたが」
「リンタロウがね『明日は、暮との逢引だからね。エリスちゃんはお部屋で待っててね』って」
「…………二人きり」
「クレだって、いきなり二人きりにされたら困るでしょー! って言ってるのに、聞いてくれないのよ!」
まったく、とエリス嬢はご立腹のご様子だ。佐登はそんなエリスをなだめながら、手をつないだ。鴎外の意図はともかくとして、まあ、ついていけるのだと思っていたエリス嬢は大層不満だろうから、なにかおやつでも用意しましょう、という。エリスはぱぁ、と表情を明るめて、佐登の手を握る力を少し強めた。
「早く、上に戻りましょ。一緒にお茶会よ!」
「はい、畏まりました。それでも、樋口さん、すみませんが、芥川さんに伝言お願いします」
「は、はい」
樋口に軽く一礼を済ませて、佐登はエリスの手を引いて、最上階へ向かうための昇降機に乗り込んだ。
「ねぇ、クレ」
「はい?」
「リンタロウのこと、好きなの?」
「へぁ!?」
手元にあった書類を落とすかと思った。落としたとしても、封筒でしっかりと紐でくくられており、封がされているので落としても書類が散らばるということはないのだが。佐登はみるみると、顔を赤くして、エリスを見下ろした。その顔を見て、エリスはふふ、とどんどん笑顔を濃くしていく。その表情の雰囲気がどことなく鴎外の気配を感じるのは、矢張りエリスが鴎外の異能だからなのだろう。
佐登は何も答えられなかったが、エリスは笑うばかりで何も言わなかった。その最中、ずっとエリスは佐登の手をつなぎ続けていた。
「ごめん、ちょっと先に行っていてくれるかな」
鴎外からその電子書状が入っていて、佐登はヒールを履く手を止めた。迎えに来てくれるという話だったのだが、佐登は電子書状を確認して、時計を確認した。少し早いくらいだとは思っていたので、直接会場の方でお待ちしていますと返事をして、佐登は家から出た。
湾岸沿いの自宅付近を抜けて、劇場がある場所へ向かう乗合自動車へ乗り込む。心臓が煩い。心臓が煩い。まだ、会ってすらいないのだから、ドキドキするのはやめなさい、と座席に腰掛けて、窓を眺めながら考える。窓にわずかに映った自分を見ながら、髪の毛を撫でて直してみる。そわそわと落ち着かず、ふわふわとしたような気持ちになる。
(……逢引、かぁ)
エリスは本日は来ないということだった。異能力だというのに、離れていても平気なのだろうかそれとも、姿を現さないだけで実はずっとそばにいるのだろうかと思考を辿らせてみる。乗合自動車の放送で降りる停留所を示すので、慌てて停車釦を押して、佐登は荷物を持ち直した。
劇場前はすでに観劇に訪れていた人たちでそれなりに混み合っていた。売店などの賑わいの声が聞こえてきて、佐登は見えやすい出入り口近くの柱に軽く寄りかかりながら、携帯を取り出した。着いたことを連絡すると、すぐに返信が来た。もうすぐで着くから、とのことだったので、出入り口の柱にいることを伝えた。
ワンピースの裾に汚れはなく、乱れてもいない、髪の毛も問題なく、化粧も落ちていなさそうだ。佐登は一通り自身の身なりを確認して、一息を着いた。これまでになく、ソワソワとしていると車が一台着いて、そこから鴎外が降りてきた。
「すまなかったね、広津さん」
「いえ。こちらこそ、お休みのところ申し訳ありませんでした」
広津が助手席から降りてきて、鴎外に礼をしていた。その様子から見るに、どうやら本部で何かあったようだ。
「……大丈夫ですか?」
挨拶もそこそこに鴎外を見上げて不安そうにしている佐登に鴎外は笑ってみせた。
「大したことじゃないよ。心配をかけてしまったね」
「佐登秘書官、解決しておりますので存分に楽しまれてください」
広津にも背中を押されて、佐登は軽く後ろ髪を引かれる思いがして、困ったように笑ってみせた。もし、無理なら、と口に仕掛けて鴎外がその唇に指を当てた。
「今日は私から誘ったのだから、心配しないの。さあ、行こうか」
鴎外から腕を差し出され、佐登は目を見開いた。えっと、と少し、悩んだがそっとその腕に自分の腕を回した。交際している男女らしい行動なのだろうな、と思いながら周りに少し視線を向けてみる。それなりに交際している男女や夫婦はいたので、佐登は少しだけ頬を赤くしていた。それを鴎外は眺めて、穏やかに笑ってみせた。佐登を連れて、会場に入り、会場前の手続きを済ませる。
(……まったく、急な話だった)
朝、念のために本部へ顔を出してみれば、密輸関連のことで不手際がいくつか重なったらしく、中原や広津が駆け回っていた。それらの話に全て指示を出していたら迎えに行くという時間に遅れてしまい、結局会場で落ち合うことになったが……。
手続きを終えて、待たせていた佐登のもとに戻る。佐登は――――鴎外の贈った服や、靴、装飾品で身を固めていた。
(私らしくもないな)
それが嬉しい、と感じているなんて。佐登とともに特別閲覧席の座席につく。
鴎外からすれば、ありきたりなラブロマンス。外つ国の劇で、身分違いの男女の恋を描く悲恋だ。
欲しいものがあるのならば、どんな手を尽くしてでも手に入れる。鴎外のそういった気質からだろう、劇中の男女の恋愛はひどくもどかしいもののように感じて、少しばかり退屈だった。演者の演技はとても良いものだと思う。完全に話の問題だろう、などと客観的に眺めて、ふと、視線を隣に向けた。
――――くすん、ぐす、と泣いている佐登の声が聞こえてきた。
「……暮、使うかい?」
背広の衣嚢からハンカチを取り出して渡した。すでに、彼女の手に握られていたハンカチは涙で濡れていて使い物になりそうになかったからだ。潜めた声だったが、佐登は気付いて、顔を上げた。青色の瞳から、こぼれ落ちている涙は劇場の暗がりでよくは見えなかったが、一瞬だけ、どきりと身を竦ませてしまった。
「あり……が、とう、ございます」
ハンカチを受け取ろうとした佐登の手を通り越して、鴎外の手で、ハンカチを目元と頬に押し当てた。
「あ、すみま、せん」
「……悲恋は苦手?」
「お、お話としてはすごく、好きといいますか、読むんですが……お芝居も良くて……」
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく、佐登に鴎外は苦笑してみせた。
「本当に申し訳ありませんでした」
芝居が終わって、化粧直しも込で化粧室へと行っていた佐登は戻ってくると、鴎外に深々と頭を下げた。まだ、目が僅かに腫れていたが化粧も直し、涙も落ち着いているので先程よりもずっと落ち着いて見える。目が赤く充血しているのはご愛嬌だろう。
「否、君がそれほど感動したのならよかったよ。悲恋とはいえど、あの終演はとてもよかったからね」
「……はい、素晴らしかったです」
今も、思い出し泣きしそうなのか、佐登はそっと目を閉じた。鴎外はそれをみて、苦笑しつつも頬に手を伸ばした。
「大丈夫かい?」
「ご心配をおかけしてます……」
「このあと、食事でもと思ったんだけど、少し落ち着いてからのほうがいいかな。ああ、そうだ、近くに公園もあるから、少し散策でもしようか」
次は悲恋じゃないものにしようね、という鴎外に佐登は苦笑しつつも頷いた。
海沿いの風が吹き込んでくると、少し寒々としている気がして佐登は身を震わせた。
「少し冷えるね。これ、着て」
鴎外の着ていた背広の上着を肩からかけられて、佐登は顔を赤くして、少し俯いた。まだ、鴎外が着ていた暖かさが残っているのがすごく嬉しい。こうしていると、本当にただの恋人同士のように思えるが、と悲恋を見たことによって、ひどくぼやけていた思考が冷たい風に吹かれたことで冷静になってきて、静かに息を吐いた。
「……ありがとう、ございます。首領」
すると、少し先を歩いていた鴎外が少しだけ振り返って笑っていた。
――――この時間よ、永遠たれ。
なんて、願うのはずるいことなのでしょうか。
佐登は、少しだけ痛む心臓を抑えて、泣きそうな顔をした。