「お早う御座います、首領。本日の予定を確認させていただいてもよろしいですか?」
執務室ではすでに佐登が待機していて、鴎外はいつものようににこりと笑ってみせた。鴎外の前に紅茶がすと、差し出されて執務用の椅子に腰掛けて有難うと微笑めば、彼女がすでにこの秘書の仕事について一年余が立っていて、大分慣れてきたのだろうとわかる穏やかなほほえみを見せてくれた。佐登の声が今日の予定を順を追って、説明しようとして、話すのを止めた。
「……佐登くん?」
どうしたのかと、顔を上げてみると佐登が少しばかり怪訝そうな顔をして、こちらを見つめていた。どうしたのかわからず、鴎外はきょとん、と佐登を見ていると、佐登が意を決したかのように失礼します、と言ったかと思ったら首元に両手がぬ、と迫ってきて、鴎外自身が身構えてしまったし、護衛たちも懐から銃を抜こうとしていて鴎外はとっさに手を伸ばして、止めた。佐登の手は鴎外の首筋に触れるだけ。少し、ひやりとしているように感じた。
「…………暮? これは、」
「首領、体、だるくはありませんか?」
「え?」
どきりとした。
佐登がじっとこちらを見てきて、鴎外は反射的に正直に、頷いてしまった。しまった、と思ったが佐登の表情が曇った。
「……いや、えっと」
「ちょっと、熱っぽいです。表情も宜しくありませんし……エリス嬢もいつもより、ぐったりされているじゃないですか」
佐登の足元をしっかりと掴んでいるのはエリスだった。いつもに比べれば元気のなさそうなエリスに、鴎外は苦笑した。
「今日は幸いにして書類仕事のみですし、突然の応対がない限りはお休みになられてはいかがですか?」
後ろの護衛たちが漸く拳銃から手を離したのは、佐登が手を鴎外から離してからだった。
「いや、問題ないよ。多少倦怠感があるくらいで……」
「だめです」
佐登はきっぱりと鴎外の意見を切り捨てると、執務室に着いている通信機の電源を入れた。直通で連絡が入るのは幹部級であるので、佐登はためらいがなかった。鴎外が止める間もなく中原に連絡をとっている佐登を見て、鴎外は呆然とした。
「私は、以前、首領に言いました。お仕えしている方の体調管理も秘書である私の仕事です、と」
テキパキと覚書をまとめて、佐登は書類の束を鴎外の前からどける。そして、手を引っ張って、鴎外を立ち上がらせる。
「具合が悪い時はお休みください。もちろん、首領でなくてはできない仕事もありますが、顧問役もおりますし、五大幹部もいます、全てが信用できないかと思いますが、使えるものはお使いください。――――一人で、全てをやろうとしないでください」
最上階にある鴎外の私室へつく。佐登は鴎外をベッドに座らせると、クローゼットから寝間着を取り出して鴎外へと手渡した。
「……あなたが、完全に倒れてしまうほうが皆さん困ると思いますから」
心配そうな顔で、寝間着を手渡されると流石に鴎外もそれ以上は反論ができず、黙ってそれを受け取った。
「首領が風邪とはな」
中原が書類をめくりながら、佐登に向かってそういった。苦笑しつつも、ええ、と答えた佐登は先程まで、捺印やせめて署名だけでもと食い下がった鴎外を無理やり寝台に押し込んできたばかりだ。一応、医者には見せたところ、初期の風邪で、ここから熱が上がってくるかもしれないとのことで、矢張り安静がいいでしょう、と言われていた。鴎外自身も医者なのだと、中原から佐登は今、聞いたばかりだ。
「偉そうなことを言ってしまいました」
「まあ、手前ぇくらいしかそんなこと言えねぇだろ。こっちも出来る限りのことはする」
「有難う御座います」
中原がいくつかの書類を持っていく。それらは顧問役に持っていって処理してもらうように調整することになっている書類で、中原がついでに持っていくとのことだったので、佐登は素直に頼むことにした。鴎外のことも見ていないと、すぐに寝台から抜け出しそうだと佐登は思っている。まあ、流石に子供ではないだろうが流石に心配だ。今はあまり高くない熱も後々、高くなっては困るだろう。
「紅葉の姐さんもあとから来るってよ。……首領のこと、頼むぞ」
「……はい!」
なんだか、信頼されているようで嬉しかった。
佐登は書類の対処について概ね、処理が終わったところで寝室に戻ってみると鴎外は起き上がっていた。寝台にいることはいるが、腰を掛けていて佐登が入ってきた瞬間に、あ、と言ったので、これからなにかするつもりだったのだろう。佐登は眉間にシワを寄せて、むぅ、と怒りを露わにした。
「首領、」
いつもに比べればどすの利いた声だった、という自覚はあった。鴎外が珍しく、肩を震わせたのが見えた。
「……子供じゃないのですから、ちゃんと休んでいてくださいね」
「はぁー…い」
鴎外がもそもそと寝台の中に戻っていく。まったく、と佐登は苦笑しながら、ゆっくりと寝台に近づく。そこにはガラス製の茶器一式があり、中には琥珀色の液体が入っている。よい生姜の香りがする。
「生姜はちみつ湯です。温まりますよ」
「……ありがとう」
熱いのでお気をつけください、と佐登に言われながら、鴎外はカップを受け取った。中から香る生姜の香りに目を細めてゆっくりとすする。じんわりとあたたまるような甘さがなんとも心地よかった。
「先程より、少し熱が上がってる気がしますね。飲んだら、少しお休みくださいね」
「……暮ってこういうときにはっきり言うよね」
「遠慮していては言うことを聞いていただけませんからね」
佐登はにっこりと笑った。
生姜はちみつ湯を飲み終わった鴎外は佐登にカップを渡す。
「……ねぇ、暮」
「はい」
カップを片付けながら、佐登は振り返った。佐登の服を掴んで、鴎外が少し困ったような笑みを浮かべている。
「寝付くまでで善いのだけれど」
鴎外がそこで一度、言葉を切ったところで佐登が穏やかに微笑んでいた。
「……一緒にいてもらってもいいかい?」
「もちろんです、森さん」
優しい手だと思った。
何も戦いも殺しも痛みも知らない柔らかな手だと思った。額に、ふ、と触れていた手が離れていく。どことなく、寂しくて、まだまだ触れていてほしいと思った。鴎外がうっすらと、目を開けると、窓ガラスからオレンジ色の光が差し込んできているのを察した。ゆったりと体を起こしてみようとすると、椅子に腰掛けて、本をめくっていた佐登が顔を上げた。
「首領、お加減はいかがですか?」
穏やかな声が聞こえてきた。
「……うん、大分良くなってきたよ」
寝台の中へ逆戻りし、鴎外は穏やかな微笑みを浮かべた。朝の倦怠感や、寝ている間に感じた息苦しさなどはすっかりとなくなっている気分だが、あくまでも休息によって少し体力が戻ったから元気良くなった気になっているだけだ。まだ、喉の奥に違和感は感じるし、頭痛のクラクラする感覚はある。佐登が本を置いて、立ち上がろうとするのを止めるように手を掴んだ。
「どこに行くの」
「先ほど、首領が寝ている間にお粥を作ったのですが、少し食べませんか?」
「……ああ、そういえば、少しお腹すいたかな」
鴎外は急にお腹が空いてきた気分になった。朝はほとんど食べる気が起きなくて、佐登が用意してくれた食事を断ったのだ。体調が悪いなら仕方ないですね、と苦笑してそれらは下げてくれたのだという。鴎外は取り敢えず、薬を飲むためにりんご程度の果物はなんとか押し込んで薬を飲み干し、眠りについたのだ。流石に夕方ごろになれば空腹感もあるというものだった。
「ではお待ち下さい」
「……うん」
するりと、離れていく指を鴎外は眺めた。戦いを知らない手。暖かくて、やさしい手。そうか、夢の中で、鴎外の手を掴んでいたのは佐登の手だったのかと気付いた。気づくと、何だかとてもあたたかい気持ちになれた。
(ああ、この気持ちは)
――――正体を知っている。
鴎外は、ぐと、それを飲み込むように胸を抑えた。苦しいわけではない、だが、これは必要のないものだと自分から切り捨ててきたものだ。今更、それを持ち合わせてどうするのだ。自問自答を繰り返し、その気持ちを奥底へ追いやろうとしたところで、「首領?」と少し不安げな声で自分を呼ぶ佐登の声が聞こえて、目を開けた。
「どこか、苦しいですか?」
「いいや……大丈夫。うん、いい匂いだね」
「……無理はなさらないでくださいね」
佐登の持っているお盆の上には一人用の土鍋があった。佐登に渡されて、開けてみるとほかほかと暖かな湯気を出している卵粥が中に入っていた。レンゲを渡され、味を変えるのにどうぞ、と薬味を数品渡され、鴎外は穏やかに微笑んだ。いつものように、暖かな食事を出されて、鴎外は口にするだけで安心した気分になる。寝室にはふたりだけで、他に誰もいないこともあってか、鴎外が食事を摂る音だけが聞こえてくる。小さく、よかった、と呟く声が聞こえてきて、視線を向けてみれば、佐登が少し眉を下げて、笑っていた。
「熱も結構高かったので、心配していたんですが、食欲が戻ってきたのなら大丈夫そうです。――――私は詳しくありませんが、首領は元お医者様なのでしょう? 無理なさらないでくださいね」
誰よりも貴方の身が大事なのですから、と佐登は言いながら、淹れたお茶をサイドテーブルへあげて苦笑する。倒れたことで仕事に沢山影響が出たのを、一人で処理して、幹部たちと連絡を取り合い、部下たちへ今後の指示を出してもらい、と大忙しだっただろう。合間を見ては鴎外の元を訪れて、寝ているか確認し、と一日ものすごくバタバタしてしまったが、鴎外も何とか体調を戻してきたようだし、と少しだけ安心する。
「中原幹部と紅葉さんが、二、三日は休まれた方がいいとおっしゃってくださっていましたよ」
「そんなに休めないよ。確か、明後日は」
「ええ、代議士の方と会食のご予定が。それまではお休みになられてはどうです? ――――休み明けの書類仕事は大変でしょうが」
いたずらっぽく笑う佐登に、鴎外は苦笑した。
「困ったなぁ。……暮、手伝ってくれるかい?」
「首領がお望みとあらば」
自然と鴎外も笑みがこぼれた。
いつの間にか食べ終わっていた土鍋を佐登へ戻すと、全部食べきってくれたことが嬉しかったのかにこにこと笑っておそまつさまでしたと告げた。すぐに横になってはなりませんよ、と佐登が寝台で起き上がっている鴎外の背中に沢山クッションを入れて起き上がれるようにしてくれたので、そのままの体勢で鴎外は一息ついた。
「何か、私が寝ている間に困ったことはあったかい?」
「いいえ。大抵のことは、五大幹部たちが動かしてくれました。武闘派であった動きは後日芥川さんの方から報告書が上がってまいります」
「皆に迷惑をかけてしまったねぇ」
「人間の体ですから、不調もございますよ」
佐登が淹れてくれたお茶に手を伸ばす。
「一番、暮に迷惑をかけてしまったね。大変だっただろう、私がいなくて」
なんてことはない、という顔をしているが佐登は鴎外によってここでの立場が守られている。それがいないとなれば、何か心無い一言や、行動を浴びたのではないかと鴎外は考えたのだが、佐登は首を横に振った。
「中原幹部が『よくやってくれてる』と褒めてくださいました。……ほとんど、中原幹部が動いてくださったのに」
ああ、と鴎外は納得がいった。きっと、仕事用の資料や、書類の順番、それらを付随させてある佐登の仕事の細やかさを褒めてくれたのだろうと鴎外は思った。自分も随分とあれらには助けられている。どの書類にどんな資料が必要なのか、ちゃんと見極めて添付してくれているのだ。
「褒められて嬉しかった?」
「……もっと頑張ろうと思いました。認めていただけるのは嬉しいですから」
少し頬を染めた、佐登を見て微笑ましく思うのと同時に、どろり、と底から這い上がってくる黒い感情を感じ取って、鴎外は手を伸ばして、佐登に触れた。少しだけ熱を持った頬。鴎外の冷たい手に、するりと入り込む熱だ。鴎外に触れられたことに酷く驚く佐登の深い、藍色の瞳に鴎外が写っていた。
「あ、あの、首領? ――――わっ」
そのまま首裏に手を回されて、引き寄せられると、佐登はそのまま寝台へと倒れ込んでしまう。顔を上げてみるといたずらに成功した子供のような笑顔をみせている鴎外がそこにいた。
「もう、首領!」
「ふふ。……もう少し寝たいから、一緒にいてくれるかい?」
「……子供ではないでしょう?」
「子供じゃないから、一緒にいてほしいのだよ」
――――蓋をしなければ。
鴎外はそう思いながら、背広に皺が、と小さく呟く佐登を黙殺するように抱きしめて、寝台に横になる。抱きすくめられれば佐登も諦めたのか、ため息を付きながらも、大人しく腕の中に留まっていた。そして、少しためらいがちに回ってきた腕が、鴎外の背に回され、優しく撫でられる。まるで、子供をあやしているような、そんな動作だった。
「おやすみなさい」
佐登の声に、ゆったりと目を閉じる。
姿を見かけると、目で追うようになった。
声を聴くと、少しだけ楽しい気分になる。
その温もりに触れると安堵する。
緩やかな心音が、少しだけ早くなっているのを聞くのは気分がいい。
誰かが彼女と話していると直ぐに引き離したくなる。仕事だと、自制するのが大変だった。
(違う)
鴎外は否定した。
それらの感情に蓋をすることにした。
(心など、それにかまけたものから戦争に負ける)
倫理観や心にほだされたものほど、負ける。
そんなことは、自分にあってはならないことだ。
(愛や、恋など)
――――私には、必要ない。
「鴎外さん!」
聞こえてきた声に、鴎外ははっとした。眼の前には心配したように自分を見下ろしている佐登がいた。
「……暮?」
「うなされてて、どこか調子悪いのかと……ああ、すごい汗です」
佐登の手が鴎外に触れかけて、鴎外は反射的にその手を払い除けてしまった。ぱちん、と静寂な部屋に響いた乾いた音に、佐登も払い除けた鴎外も驚いてしまった。そして、佐登は酷く悲しそうな顔をした後、払いのけられた手をもう片方の手で強く握って、きゅ、と唇を噛み締めた。うつむかれてその顔はよく見えない。
「……申し訳ありません、今、拭くものを持ってまいります。もう少しだけ、休んでください」
ああ、違う。待ってくれ。――――違わない、これでいい。
寝台から慌てて降りて、走っていってしまう佐登の背中を目で追い、鴎外は言葉が紡げないままだった。伸ばしかけた手は力を失って、寝台のシーツの上に落とされる。
ああ、確かに。
汗が張り付いて、気持ちが悪い。
佐登は鴎外の寝室から飛び出して、警備の人間の視線があるのも忘れてそのままずるすると扉を這うようにしてしゃがみこんでしまった。
(ああ、なんてこと)
判っていたことなのに。
(触れてはいけなかったんだ)
必死で泣きたくなるのをこらえながら、唇を噛みしめる。
そもそも、あの人と自分では生きている世界が違う。鴎外はポートマフィアの首領、この恋人ごっこだって鴎外の中の戦略があるから傍に置いてもらっていただけのことなのだから。烏滸がましかったのだ、与えられるものに、恋人だと錯覚して、一人で舞い上がって、少しでも弱っているところを見せてくれているから、大丈夫だ、なんて。
(おこがましい)
(なんて、醜い気持ち)