(矢張り、私などが側にいていいはずがなかった)
あの拒絶は嘘ではなかった。熱にうなされ、どんな夢を見たのか、佐登にはわからない。そもそも、佐登が鴎外について知っていることなんて多くないのだ。ポートマフィアの首領で、茶目っ気のある人ではあるけれど、恐ろしい人でもある。エリスのことを心から大切にしていて、ポートマフィアのことも同じくらい大切に思っている。佐登が知っているのはそれくらいなものだ。首領がどれくらい恐ろしい人なのかも知らなければ、ポートマフィアの首領になる前も知らない。森鴎外という人物に関して、佐登は、本当に何も知らないのだ。
(……恋人、役もただのお飾りだ)
部屋に戻ってみれば、積み上がっているのは鴎外からの贈り物だ。ドレスやら、装飾品やら、靴やら、化粧品やら。贈られてくるそれらは、恋人らしさを出すためのものなのかもしれない。だけれど、形ばかりで、中身がなにもない気がした。
わからないのだ、鴎外が何を思っているのか、何を考えているのか。
――――わからないことが、多すぎると不安になる。
雨が降っていた。
佐登はポートマフィア本部の窓にたっぷりと水滴がついていて初めて外で雨が降っていることを知った。ふと、ガラスに触れてみると、外は雨によって気温が下がっていたのだろう、刺すような冷たさだった。反射的に手を離して、目を細めた。
(……首領、みたい)
雨で曇るガラスの向こう側はよく見えなくて、見ようとして手を伸ばしてみればその冷たさに手を離さなくては自分が凍えてしまいそう。
「佐登」
聞こえてきた声に、振り返ってみれば艶やかな着物姿の紅葉が楚々と微笑んで立っていた。
「鴎外殿はどうした?」
「……今日はどうしてもはずせない会合で、私ではなく中原幹部を連れてゆかれました」
佐登が疲れたように笑うのを見て、紅葉は少し意外そうな顔をした。そして、近づいてくると窓を眺めてみる。なんの変哲もない窓ガラスに、外の雨の水滴がついていて、いつもに比べれば外の様子が見辛い。そんな物を眺めていても楽しくはなかろうに、と紅葉は思うと、佐登の手を引いた。
「紅葉さん?」
「少し茶に付き合ってはくれんかのぅ? どうせ、鴎外殿が帰ってくるまで暇じゃろう?」
「……いえ、あの」
まだ、仕事が、といいかけている佐登の意見を聞かず、紅葉がぐいぐいと手を引っ張って歩き出してしまう。力では到底敵わないので、あっという間に連れ出されてしまって、机の上に溜まってしまっている書類たちはどうしよう、後でどうやって首領に言い訳しよう、と佐登は必死に頭を巡らせなければならなくなるのだった。
「鴎外殿に振り回されるのは、大変じゃろう?」
出された梅昆布茶の入った茶碗を眺めながら、紅葉がつぶやいた。出された茶菓子は有名店の季節の最中で、それを持ち上げようとしていた佐登が目を見開いて紅葉を見た。振り回される、という言葉の真意を図りかねているという表情だと汲み取ると、本当に佐登がこの世界には向いていない、わかりやすい人物であることに苦笑してしまった。
「……あの。いえ、私は」
「恋人役は疲れるじゃろう?」
「……え」
完全に動きが止まってしまった。ああ、どうしよう、どうやって言い訳したらいいのだろう。恋人です、と言い切ることのできない自分で、何が言えるのだろう。頭の中がぐるぐると回るような感覚がして、長い、長い沈黙が続いてしまった。紅葉は穏やかに微笑んでいるばかりで、佐登に返答を促すこともせず見守っているだけだ。
「……どうして、」
「まあ、下のものは疑っておらんし、中也あたりも疑っておらんだろうが……広津や、私あたりはごまかせんかものぅ」
「そう、……ですよね」
なんの、取り柄もない小娘なのだ。異能力もろくに扱うことのできない、役に立たない、そんな女だ。銃も持てず、刃物もだめ。誘拐されても、自らで解決する手段を持たない。――――庇護に、甘んじるだけの。
「私はそれで善いと思っておるが」
「……?」
「どういう形であれ、鴎外殿は進んでお主を傍に置きたがっているように見えるしのぅ」
からからと紅葉が笑っている。佐登は理解できない、というような表情を浮かべて、両手で包むように茶碗を持つ。先程の冷たい窓ガラスとは違う、指先にじんわりと伝わってくる熱を感じていると、瞳にうっすら、水の膜が張るのがわかった。泣くのは、すごく悔しい。
「……そんな、こと、ありません」
「うん?」
「先日、手を跳ね除けられてしまいました」
うまく、笑えているだろうか。昔から、表情を作るのが苦手で仕方がなかった。うまく笑えなくて、うまく感情を表情にできなくて。目の奥がすごく熱くて、今にもその熱の塊がこぼれ落ちてしまいそうになるのが怖かった。きゅ、と唇を噛みしめると、紅葉が袖で佐登を隠すように包み込んだ。
「……おこがましい、ことだったんです」
多分、はじめから立っている場所が違った。闇の中に生きるその人は、見えていてもきっと自分では手が伸ばせない存在なのだろう。手を伸ばしてみたところで、きっと拒絶されてしまう。薄々とわかっていることでも、実際にされるとひどく心が痛む。こらえきれなくなった涙が、ぽろぽろと佐登の頬を滑り落ちていく。きっと、あの人の前で泣くことは許されないから。――――きっと、一度でも泣いてしまったら、あの人は私を捨てるだろう。
「私は、あの人にとって、都合の良い人間でなくては」
そうしたら、傍にいさせてもらえるだろう。
役に立たない自分でも、秘書として置いてもらっているのならばその期待に応えなくては。
紅葉は何も言わずに抱きしめて、頭をなでてくれた。それが妙に暖かくて、心地よくて、一度堰を切ってしまった涙は止まりそうにない。
「どのみち、もう、私にはここしか残されていないのだから」
――――悲壮な、その声を紅葉は否定することもできずにただ、寄りかからせるようにして抱きしめた。
「おかえりなさいませ、首領」
――――鴎外は、少しびっくりした表情をしていた。それもそうだろう、明らかに泣いて化粧を直したばかりだ。目をこすってはいないから腫れてはいないと紅葉に言われたが、赤くなっているだろうし、少しだけ声が鼻にかかって上ずっている。
「何かあったの?」
その言葉は自然と転がり落ちてきた。佐登に手を伸ばそうとしたが、佐登はニコリと笑っていいえ、何でも、と答えるばかりだ。
「会合の方は滞りございませんでしたか?」
「え……ああ、うん」
鴎外の答えに、佐登はそうですか、と返し、会合後の仕事の予定を伝えた。いつもと変わらない、声音でいようとしているのが鴎外にもわかる。誰が泣かせたの、とか。どうして泣いたの、とか。聞きたいことが山程あって、今すぐにでも引き留めて、全て聞けばいいのに、行動にはでられなかった。
佐登の全身がそれを拒否していた。
深く立ち入られることを、鴎外に触れられることを、泣いていたことを口に出されることを。佐登のすべてが拒否をしていた。小動物が全身の毛を逆立てて、捕食者を威嚇するような、そんな小さな反抗で。鴎外はだんまりを決め込んだ。
紅茶は如何ですか、と聞いてくる佐登に対して、いつもどおり笑いかけた。
「頼むよ」
たった、その一言に、少しだけ安堵したような表情を浮かべた佐登はさっさと執務室から、給湯室へと消えていってしまった。