それを
執着と
呼ぶのなら

「なんか、佐登ちゃん変わったね」
 久しぶりに会った友人はそういいながらにこやかに笑っていた。え、と紅茶の入ったカップを持ち上げかけていた佐登は手を止めて友人を眺めやる。彼女とは大学からの付き合いだ。秘書科の専攻授業で席が隣り合ったり、グループが一緒になったりして仲良くなった相手だ。今、一番仲の善い友人は誰か、と聞かれればおそらく佐登はまっさきに彼女のことを思い浮かべるだろう。彼女は秘書科を卒業した後、とある一般の探偵社の事務に入ったと聞いた。はて、どこだったか、と思考を巡らせる佐登とは裏腹に、友人はどことなくニヤニヤとした顔つきで、そっと顔を近づけてくると声を潜めていった。
「恋をしてる、っていう顔だよ」
「こっ、」
 驚いて口の中に入っている紅茶を吹き出しかけた。噎せながらなんとか紅茶を飲み下して、そろそろと彼女を見る。佐登の反応から当たりをつけたらしい、これまた楽しそうに見ているではないか。ハンカチで口元を押さえながらじろりと彼女を見てみる。
「違うの? お付き合いしてる男性ができたとかじゃないの?」
「――――……いや、あの」
「だって、明らかに以前と服装の趣味違うし。飲めなかった紅茶普通に飲んでるし、化粧だって前は全然しなかったのに。装飾品だって、佐登ちゃんの好みっぽいけど、自分で買うような子じゃないでしょ?」
 完全に言い当てられて、佐登はぐっと押し黙った。確かに、大学に通っていた頃はスカァトなんて就職面接のときの背広で来たくらいなもので、大学四年間は一度も私服でスカァトを履いたことはなかった。似合わない、と自分で決めつけていたが「とても良く似合っているよ」と笑ってくれた人がいる。
 紅茶は苦手だったのだ。今となっては毎日のようにお茶会をするので、善い紅茶の味を覚え、紅茶が飲めるようになった。善い紅茶を正しい方法で入れると本当に美味しいということを教えてくれた人がいる。
 化粧は女の顔をつくるものだ。昔は薄化粧ぐらいだったし、今もそんなに厚い化粧をしているわけではないが、せめてあの人の隣に立つのならば、恥のない自分でいたいと願うようになり、化粧にも気を使うようになった。似合うんじゃないか、と言って渡された口紅はある意味お守りのようなもので、大事な仕事があるときや勇気がほしい時にそっと塗ることがある。
 装飾品は――――最もあの人から贈られるものだ。今日の服の袖口には、クリスタルのカフスがついている。あの人の元で働くことになった時に祝として貰ったもの。何よりも大切で、今までに貰ったどんなものよりも心に残っているもの。
 佐登が少し照れたように髪をいじる。友人は敢えて言わなかったが、以前なら髪もそっけないまとめ方しかしていなかった。今はどうだろう。華やか、とまでは行かずとも綺麗にまとめ、ハーフアップ気味にまとめた髪には美しい椿の髪飾りがついているではないか。きっと、あれならば背広につけても華やかだろうし、着物を着ている時に髪をまとめて着けても可愛らしいだろう。
「愛されてるねぇ」
「……愛、されてる」
 佐登は少し、目を見開いた。――――そうか、世間的にはそう見えるのか。服も、装飾品も全て鴎外からの贈り物だ。それは間違いない、彼から貰ったものに相違ない。だが、彼女の言うような愛があるかと言われると佐登は首を傾げざるを得ない。
 鴎外にとって必要なのは佐登自身ではなく、佐登が持つ異能力だ。
 未来を予測する事のできる佐登の異能力。少しずつ力が安定してきて、一寸のことであるならば以前のように発作を起こすこともなくなってきた。今、考えてみれば幼い頃から頻出する体調不良は異能力が作動したことによって起こっていたのではないだろうか。――――鴎外の元へ行って、異能力について理解を深めれば深めるほど、力が安定すればするほど、佐登の体調は安定していったから。
 佐登は確かに大事にはされているだろう。囲われ、守られ、その身に僅かな傷を負うばかりで済んでいるのだから。貴重な異能力者として。――――恋人役は、異能力を隠すための体のいい隠れ蓑だ。恋人を守ることに何ら不自然はない。佐登は秘書でもあり、多くの情報を握っていることもあって、ポートマフィアでは受け入れられている。愛、はない。

 恋はしている。――――それは佐登が、鴎外にだ。だが、愛はない。鴎外は佐登を見ていないからだ。

「……好きだよ、すごく好き」
 佐登がそういうと、友人はたっぷりと目を見開いた。彼女は少なからずそういう気持ちを吐露するようなタイプではなかったからだ。昔から、すごく我慢しいだったと彼女の両親が友人に話していたことを思い出す。ひどくやせ我慢し、耐えきれなくなって漸くポロポロこぼしだしてしまうような人。嗚呼、そうか、佐登はすでに気持ちが限界を迎えているのかもしれない。彼女が言い出さないだけで、本当は言い出せないなにか、別の関係があるのだろう。ただの、恋しい愛しいと言い合えるような恋人じゃなくて。
「ごめん、なんでもない」
「いいよ。話したいこと、なんでも話しなよ。何時も、私が聞いてもらってるばっかりだったもん」
「ううん、なんでもないんだ。本当に――――」
 佐登はちらりと、カフスを見た。ただのカフリンクスではないそれは鴎外から贈られたものだ。とても大切で、とても愛しいものだが、これは首輪だ。目に見えない首輪。佐登に何かあれば居場所を伝え、その話した内容は筒抜けになる。だから、うかつな発言は今の佐登にはできない。それに、と周囲を見回してみれば、何人か見覚えのある護衛が目に入った。
 ただの休日、ただの友人と遊びに行くだけとは言え、厳重である。鴎外は笑顔で満喫しておいで、とは言ったが護衛はいないとは言わなかった。彼らは佐登への監視もある。表の世界とのつながりを保つことは裏の人間にとって善いことばかりとは限らない。佐登に警告を促しているのはまた、事実だった。
(私は、あとどれくらい彼女に会うことが出来るだろう)
 もう、一年半程度、あの場所にいる。自分は黒に染まりきれない侭、あの組織の深いところに根を張ってしまっている。二度と、戻れないくらいには。多分、無理やり引き抜こうとすれば、枯れてしまうのだろうとすら思える。
 笑顔を浮かべている。佐登という人物は限りなく笑顔が下手くそな人間だった。間違いなく、紛れもなく、彼女が笑顔で写っている写真は少ない。笑いなよ、と何度言ったか。でも、今、佐登は友人の前で笑顔を浮かべている。何の違和感もない、鉄壁の壁のような笑顔。
(どこで、身につけてきちゃったんだろう)
 そんな笑顔がなくてはやっていけない職場なのか。それとも、その恋人と思わしき誰かへ向けたものなのか。友人は測りかねて、そっと押し黙る。彼女が何も言わないなら、それは詮索すべきことではないからだ。
「あ、ごめん、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「はーい。いってらっしゃい」
 佐登が立ち上がる。すると、少し後方の席で一人の女性が立ち上がった。お手洗いを目指す佐登の後ろ、付かず離れずの距離でついてくる彼女は鴎外が着けている護衛だ。お手洗い前で誰もいないことを確認し、目配せした。お手洗い内に誰もいないことを彼女は確認した。
「秘書官、警備状況です」
「すみません。お手数をおかけしています」
 お手洗いに来たからと言って別にそういう意味ではない。携帯の振動を確認したからここに来たのだ。護衛から渡されたデータを確認しながら、佐登はふぅとため息を付いた。友人もいる、できれば何事も起きないままで、と静かに願いながら端末を返し、首領に報告するようにと伝えた。
「……少し、お手洗いを済ませてきます。少し外していただけますか?」
「はい」
 護衛はトイレの外へ出ていく。トイレの入口近くで携帯でもいじっていれば、共に入った友人を待つ若い女性に見えるだろう。佐登はため息を付きながら、個室のドアを開けたところで、ぐ、と押し黙った。ごり、と心臓辺りに押し当てられたのは硬い、銃口だった。
「はじめまして、佐登暮さん」――――潜めて聞こえた声に佐登は視線をゆっくりと下ろす。ドアの先、個室のトイレに腰掛けていたのは男性だった。先程、護衛が姿を確認した時にいなかったはずだと言うのに。おそらくは、異能。それも、姿を完全に騙すことの出来る性質の。ごくり、と佐登は息を呑んだ。銃口を向けられるのにも、ずいぶんと慣れたものだ。安全装置が外れていなければ、相手に自分を撃つつもりはないとわかる。
「へぇ、意外だ。ビビらないんだね、元々一般人だと聞いていたのに」
「……ポートマフィアの首領秘書は並大抵の精神力では務まりませんから」
 震えそうになる声を必死に抑えつけながら、佐登は冷徹に言い切った。男は緩やかに目を細め、そして口元を持ち上げた。
「要件はわかるよな」
「……首領の情報ですか? 真逆、私がそんなお喋りだと……」
「違うね」男が遮った。
 佐登は目を見開いて男を見下ろす。座っていた男がゆっくりと立ち上がると今度は見上げる形となり、男はそれなりに長身だった。痩躯ではあるが、独特の不気味さを持っていて、それは並々ならぬ威圧感となって佐登に重くのしかかってきた。この感覚はどことなく、理解できる。そうだ、鴎外に似ているのだ。似ているだけで、性質はまるで違うものだろうが。
「俺が今、ほしいのはアンタ自身だ。――――佐登暮」
 男の暗褐色の瞳がぎらりと光る。
「ポートマフィアの首領である森鴎外はアンタを相当可愛がってる。なら、そのアンタに何かあれば、黙っちゃいないよなぁ」
「……あの人は一個人のためには動きません。私をこれまで助け出したのはあくまでも情報漏えいを阻止するためです」
 淡々と受け答えをする。両手を壁につかれ、挟まれると男の顔が近くなった。
「アンタがそう思っていても、森鴎外自身はどう思っているのかわからないじゃないか」
 ――――ついてきな。
 男にそう言われ、佐登はにらみつける。
「さっき、一緒にお茶を飲んでた女。友人か? 人の良さそうな、嗚呼、失礼、優しそうなやつだなぁ」
「……!」
 佐登は目を見開いた。
「アンタが裏社会にどっぷり浸かってるなんて、想像もしてねぇんだろうなぁ。おい、どうする?」
(駄目、駄目――――あの子を巻き込んでは駄目)
 佐登は自分自身の意思で、裏社会の人間として生きていくことを決めた。喩え、黒に染まりきれない未熟な存在だったとしても、だ。だが、彼女は違う。何の関係もない、日向の世界の人だ。そのままであってほしいと、佐登は願っている。自分のせいで、傷つくことがあってはならない。
 ――――なら、行動は一つだけだ。
「……善い子だ」

 佐登がお手洗いから出てきた。それを確認した護衛は何事もなかったことを確認する。
「すみません、首領からの緊急通信でした。――――申し訳ありませんが、警備予定を変更します。Gプランに変更して貰って宜しいですか」
 端末の徽章を見せると、護衛ははい、と頷く。首領の緊急通信、徽章。佐登の中に、ちきりと罪悪感が芽生える。ごめんなさい、と心の奥で呟く。護衛はあっという間に警備プランの変更を全員に通達する。それを確認した佐登は自分の席に戻っていくためにお手洗いを後にする。背中を向けたのは、できるだけ見たくなかったからだ。
 ――――ご、と何かを強く打ち付ける音が背後から聞こえてきて、固く目を瞑った。


* * *



バサバサ、と鴎外の手元から書類が落ちた。彼にしては珍しくまるまると目を見開いて驚いている、という顔をしていた。報告へやってきた広津が目をつむったまま、言葉を続ける。
「佐登秘書官が――――消えた、と」
「……暮が、消えた?」
 聞き返すのがやっとだった。昨日の夜、久しぶりに横浜でともに働く友人に会えるのだ、と嬉しそうに話していた佐登の顔を思い出した。できうる限り、本当にできうる限りそういう繋がりを、佐登が佐登のままでいられる場所を残しておくべきだと、鴎外は楽しんでおいで、と送り出した。
「……発信機は」
「今、確認していますが、およそ一時間ほど前からの通信が不明瞭で、位置の特定は難しいと」
 その時点で報告が上がっていれば、などと考えながら、鴎外は固く目を閉じ、組んだ手を額に押し当てた。誘拐か、それとも。
「首領、佐登秘書官にご連絡はされましたか?」
「……?」
 広津の言葉に鴎外は首を傾げた。連絡? ただ友人と外出にいっただけの佐登に私事で連絡をする予定もなかったし、仕事のつかえもなかったので、特段連絡は入れていない。真逆、休日まで声を聴くのは息が詰まるだろうと思ったからの配慮だったが、鴎外の様子を見た広津はそうですか、と一つつぶやいた。
「首領が本日の佐登秘書官のために出した警備プランを首領からの指示の名目で佐登秘書官が書き換えています」
「……何?」
「徽章を見せて、指示書もあったとのことです」
 ――――指示書は最近、鴎外ではなく佐登が用意していた。最終的に鴎外の捺印なり署名なりが必要とは言え、緊急通信と言われれば、そこまで護衛たちは確認しなかったのだろう。徽章は鴎外から佐登へ、その権利を示すものだ。
「……佐登君が自分で脱走したことも考えられるね」
「はい。然し、佐登秘書官はご存知の通り、運動能力には乏しく、護衛たちの目をかいくぐることは不可能でしょう」
「……だから?」
「誘拐の可能性が高いかと。護衛の話ではと或る曲がり角で、佐登秘書官が突然、消えたと」
 ――――異能力、か。
「とりあえずは、佐登君の発信機や、端末の通信を辿るんだ」
 鴎外は冷静に指示を出した。広津が頭を下げて、部屋から退出していくのを見送った。そして、深くため息を付いた。いずれ、起こりうる事件だった。否、すでに何度も何度も、彼女の身に降り掛かったことではないかと思い返す。
「リンタロウ」
 エリスの声がする。彼女はその青玉の瞳をじっと鴎外に向けてそれ以上は言わなかった。鴎外はその瞳を見て、静かに目を閉じる。――――わかっているよ、と小さくつぶやけば、エリスは姿を消した。彼女は異能だ。ここに存在している命ではない。

(私は暮を、――――)

 この胸にくすぶっている、これを人はなんと呼ぶのだろう。




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