思考を途絶させる何かが自分の前に突きつけられたことに気付いて鴎外は目を開けた。――――黒い手がそこにある。今にも自分を掴み、くびり殺そうとする漆黒の手である。闇に至るその手は鴎外の直前数ミリで止められており、その更に奥へ視線を向けてみれば、くすくすと笑う女がいた。燃えるような赤い髪がひらりと揺れる。
「やぁ、鴎外君、忙しそうだねぇ」
このポートマフィアに於いて、森鴎外をその呼び方で呼ぶのはたった一人しかいない。闇の手が鴎外の前からどけられると、視界が広がり、彼女がよく見える。敢えて彼女を呼ぶとするならば、アスナという。敢えて、というのは彼女には名前があるものの、それは固有名詞ではない。――――現象に名付けられるものだ。赤い髪、黄金の瞳のその女は楽しげに笑った。
「君に構っている時間はないのだけれど」
「おお、これはこれは。怖い顔だ、宝物を取られた子供は、いつの時代も癇癪起こしていけないね」
「――――何がいいたいのかね」
鴎外の表情に殺気がこもる。アスナはけらけらと笑いながら、くるりと踵を返す。
「鴎外君、大切なものはちゃぁんとしまっておかないと誰かに壊されてしまうよ?」
にこりと笑った。
その笑顔は鴎外ですら怖気が走るほど美しく、精緻な芸術品のたぐいのようなものだったが鴎外にとってはただただひたすらに気色の悪い笑顔だ。アスナという人物はまさしく美しく、言葉では形容しようのないほどに愛に満ち溢れた人物であるが、鴎外とは徹底して反りが合わない。首領である鴎外の後見人である相談役のアスナは口元をにんまりと歪めている。それすら美しいのだから、矢張りこの女は芸術品かなにかで、人間ではないのだろうと思う。
「……言われなくてもわかっているよ」
「おや、そうだったか。それは失礼。では、本題に入ろうか」
何をしに来たんだ、この女は。鴎外はそういいたくなる気持ちをぐと、こらえてアスナを見た。アスナはいつもこんな感じの人間だ。人の話は基本的に聞いていないし、聞かない。人の都合は考えない。自由に自在に、己の思ったままに生きるのだ。
「――――鴎外くんの宝物、その隠し場所さ」
うっそりと笑ったその女が初めて、女神のごとく思えたのは内緒だ。
苦痛。苦痛だった。男に抑えつけられ、殴られ、なぶられることは何度か経験した。だが、今日のこれは初めての経験だった。服を剥かれ、抑えつけられ、ただただ、性欲のはけ口として利用される。体が震える。
痛い、怖い、痛い、怖い、痛い、怖い、ただ感情がごちゃまぜになり、嗚咽とうめきが混じり合い、佐登は嬌声を上げることはできず、快楽を得ることもできない。ただ、苦しい拷問のような時間だった。
佐登は純朴な願望があった。初めては思いが通じ合った人と、幸せな時間を過ごしたいという希望があった。それくらい女の子なら当たり前のように抱く願望だ。何ら、おかしいことはない。愛する人に、愛されて女として初めてを捧げたい、当然の願いだ。いまは、多分、鴎外がその対象だったのかもしれない。彼にとって、自分はそういう存在にはなりえないと知りながら、そんな夢を見ていた。――――あっさりと、打ち砕かれるが。
怖い。誰か、助けて。初めてそんなことを考えた。
解放されたとき、ただただ安堵した。男たちがいなくなった部屋で一人、ぽつんと粗末な寝台にねせられたまま。服は引き裂かれ、下着も意味をなしていない。涙が、伝って、枕を濡らした。シャワーに入りたい、と考えることもできないまま、佐登は体を転がしたままで、ふと気がついた。
(……カフス、)
袖口を飾っていた、それがない。さぁ、と顔が青ざめた。きしむ体を必死で起き上がらせ、袖口のカフスを探した。手首は男たちに抑えつけられたせいで赤くなっていたが、今はそれどころではない。カフスがない。あれは鴎外から始めてもらったものだ。秘書になった証拠のようなものだ。
どこに行ってしまったのだろう。佐登は必死に周囲を見回して、そして、かつん、とそれが目の前に転がってきた。そして、男の革靴が、ぐしゃりと、それを潰した。――――破片は、草臥れたタイルの床に散らばった。ゆるゆると視線を上げてみれば、佐登を連れて来た男がそこにいた。にこりと、笑っている。
「楽しかったかい? 全く強情だ、なにも話さないとは」
「…………カフス、」
漸く、出た声。佐登の瞳にゆるゆると涙がせり上がってきた。これまで、泣きもしなければ、ただうめきを上げるばかりだったその女の藍色の瞳に、大粒の涙が浮かんで、こぼれ落ちた。男へは見向きもせず、佐登はカフスだった破片へ手を伸ばした。
――――壊れてしまった。
――――壊してしまった。
鴎外から、貰ったものだった。すごく、大切にしていた。通信機や盗聴器のついた、自分を監視するための道具だと知っていたが、それでも特別なものだった。ぽろぽろと、こぼれた涙。しかし、カフスに手が届くことはなく、無理やり寝台に戻され、組み敷かれた。
「いや、いや……っ」
抵抗すれば殴られる。痛い。然し、どのみち抵抗しなくても痛いのだ。ただ、ただ、痛くて苦しいだけ。気持ちよくなんてなれないし、気持ち悪い。ただただ、苦しい。舌を噛み切ろうとすれば、無理やり手を入れられる。死なれては困る、と男は笑った。
「アンタの価値はまだまだあるからな。薬漬けにして、森鴎外の情報を吐かせないとな?」
ただ。
鴎外に会いたかった。
ふと、次に目を開けたとき、暗闇だった。明かりが落とされているからだろうか、それとも、と考える。遠くから、銃声と、悲鳴が聞こえてくる。逃げ惑う人の足音も。――――怖くなった。怖くなってしまった。この姿を自分は鴎外に晒せるだろうか。こんな姿を、見られては、と考えてしまう。
「――――暮?」
扉の、向こう側から声がした。その瞬間に安堵と、期待と、不安と、恐怖と、焦燥と、あらゆる感情がぐじゃぐじゃと混じり合い、佐登は震えた。瞬きする都度、涙がこぼれ落ちていく。
「首領、あ、わ、私、」
声がかすれる。涙でかすれる声を必死に震わせた。扉の向こう側に届いたのだろう、鴎外が安堵して吐息を吐き出した。「今、扉を開けてあげるから」鴎外は努めて、優しく言う。何時ものように、何時も以上に。今はすぐにでも佐登の無事を確認したかった。
アスナに言われた場所へ部下を率いてやってきた。元々何度も小競り合いを繰り返してきた相手だ。裏で薬の密売をしているような連中を鴎外はのさばらせておくつもりはなかったし、アスナもよく判っている。宝物、の真意がどうであれ、アスナは鴎外を正しくこの場所に導いてみせた。今は、鴎外の代わりに部下たちを率いている。
「いや、」
扉の向こう側、佐登のなく声が聞こえた。すすり泣き、否、やめて、と繰り返している。
「お願いします、お願いします。一人にしてください。もう少しだけ、……もう少しだけ、時間をください」
――――扉を開けないで。
嗚咽が聞こえる。佐登が泣いていると、判っている。――――開けてはいけないと、自分の中が言っていた。今、この扉を開けることは彼女を傷つけることだと、気付いていた。それでも、今、佐登が泣いていることに耐えきれなかった。ぎしり、と軋む取っ手を握りしめたまま、鴎外は扉の向こうで泣いているであろう、佐登を描いた。
(嗚呼、厭だ)
ごめん、といいながら無理やり扉を壊すようにして開けた。
暗がりの中でも、はっきりと見えた。――――明らかな、陵辱の痕。自分の体を抱いて、佐登は泣いている。
「お願い、来ないで、来ないで……っ」
これまで、鴎外を一度も拒否しなかった佐登が泣きながら鴎外を拒絶した。
ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返しつぶやきながら、泣いている彼女を前にして、焼けるような怒りを感じた。彼女を追い詰めた人間に対する怒りだと、自覚するよりも早く、鴎外は佐登に外套をかぶせた。返り血だらけの外套だが、この服装よりもずっとましだ。外套で包んでやると、その上から佐登を抱きしめた。強く、強く抱きしめる。頬を擦り当てれば、佐登の瞳から溢れた涙が鴎外の頬を濡らした。
「わ、たし……私、っ」
「帰ろう、帰ろう、暮。もう、もう、大丈夫だから」
鴎外の腕から抜けようと、佐登が自分と鴎外の間に手を入れる。弱々しい力で鴎外を押しのけようとする。駄目だ、頼むから、今だけは押しのけようとしないでくれ、拒絶しないでくれ、と鴎外は願った。泣いている佐登をそっと横抱きにする。外套で隠した彼女が泣き続けているのに気付いて、その顔を肩口に埋めさせた。
「だから、言っただろう? 宝物は、ちゃんとしまっておかなくちゃ」
ホールまで出てくると、日傘を広げたその女が立っていた。黒いスカァトをはためかせ、その足元には無数の死体が転がっている。黒い、闇の手達が歓喜に打ち震えながら、その女の周りでおどろおどろしくうごめいていた。美しい芸術品のような女に、恐ろしい闇の手のアンバランスさがまさしく「火炎陣アスナ」という存在の歪さを現しており、鴎外は思い切り顔を歪めた。
鴎外とその腕に抱かれ泣き続けている佐登の元へやってきたアスナが佐登を見て、優しく微笑んだ。
「嗚呼、何て可哀想に。その心に深い傷を負って」
甘く優しい声で、アスナは佐登の頬へ手を這わせた。頬は痛々しいほど腫れている。鴎外は一秒でもアスナに触れさせていることに耐えきれなくなり、身を引いた。そして、鋭くアスナを睨みつけられる。そんな鴎外を見て、面白いものでも見つけた、と言わんばかりにアスナは優しく微笑むと、鴎外に道を開けた。
「行き給え。後始末は私がしておこう」
「――――皆殺しにし給え」
「おや? 鴎外君はいいのかい?」
君が、一番、怒っているだろう? にこやかにそういうアスナなど、もう振り返らない。アスナは一人、広いホールに残りながら、ポツリと呟く。
「君よ、救い給え。――――我が恥なき人とならんを」
鴎外は、手近な宿泊亭を取らせると、その一室に入り込んだ。部下たちには後処理をアスナに任せたからその指示に従うようにと通達する。一部の女性構成員には佐登の衣服を翌朝届けるようにと伝えた。そして、すべての連絡を済ませると、佐登を湯船へ浸けた。厭だ、とか、やめて、と佐登は抵抗の色を示したが、鴎外はそれを意に介さず、全てを鴎外の手で行った。色濃く陵辱の跡を残し、ひたすら、苦しかったであろう膣の処理を済ませ、体を丁寧に洗ってやる。抵抗するために、必死に爪を立てる佐登を、鴎外は咎める気にはならなかった。いや、いや、と錯乱気味になれば、なだめるように背を撫で、額や頬に何度も口付けを落とす。
全て綺麗に洗い流した後は佐登と共に湯船に浸かった。背から佐登を抱きしめ、未だ泣き続けている佐登をなだめるために尽くした。体は震え、顔を手で覆い尽くし、嗚咽をあげる佐登を前にして、どうしてやるのが一番なのか、わからなくなる。強く抱きしめて、ただ、その涙が止まるまでそばにいるべきなのだとは、判っていた。
ふかふかとしたバスローブに体を包んでやる。その頃には、佐登の涙は少しだけ、引いていた。だが、まだ顔には色濃く恐怖が残っていて、然し、佐登はそれを口に出そうとはしない。厭だ、とは言ったが、痛い、怖い、そういった単語を鴎外は聞いていなかった。歩けるか、と初めて聞いてみたが、佐登は少し、呆然としていて答えない。座ったまま、手を堅く握りしめていて、今にも、手のひらから血が出そうだった。
「暮、」
名前を呼びかけてみて、佐登は肩を震わせるだけだ。鴎外を、見ようともしなかった。それに腹をたてることもせず、鴎外は佐登を再び横抱きにして、脱衣所から寝所へと入る。寝台の上に佐登を横にした。鴎外が、その上に覆いかぶさると、明らかに恐怖の色を瞳に浮かべて、鴎外を見上げた。
そっと、手を持ち上げた。
「……忘れなさい」
――――無理だと、知っていながら。
「今だけは、私のことを考えていて」
懇願に等しい声だった。また、ゆるゆると、佐登の瞳に涙がせりあがってくるのを眺めながら、鴎外はそっと佐登の唇に口付けた。最初は触れるだけを繰り返し、ゆるゆると唇が開いてきたところで、舌を差し入れた。びく、と体が逃げるように反応するので、逃さないようにと、鴎外は佐登の手を握った。指を絡めて握ると、佐登が震えているのがよく分かる。
「暮」
嗚呼、その声で、呼ばないで。
愛されていると、錯覚してしまうから。どうか、お願い、もう、触れないで。勘違いはしたくない。優しく撫でる手に、唇に、瞳に、それが貴方の哀れみなのだと判っていても期待してしまうから。
佐登の口につくのは、嬌声よりも、ごめんなさい、だとか、もう、許してだとか、嗚咽と懇願が多かった。泣きながら、鴎外を見上げたその藍色の瞳が、鴎外の胸を強く締め付けた。
「忘れなさい」
こんな形で貴方と夜をともにしたくなかった。
「暮、そんなもの、忘れなさい」
お願いだから、優しくしないで。いっそ、壊れるくらい、ひどく扱われたほうが良かった――――。
シーツに横たわる佐登を鴎外は静かに眺めていた。涙の跡がくっきりと残っている。そっと、まだ睫毛に残っていた涙を指で拭ってやれば、ん、と僅かに佐登が身じろいだ。
「ぼ、す……」
「ごめんね」
ごめんね、ともう一度謝る。彼女は寝ていて、ただの寝言だ。
「夢の中の私は、君にとって善い人だろうか」
そうであってほしいと、願うのは身勝手だと知りながら、鴎外は佐登の額に口付けを落とす。そして、虚空に向かって、視線を向けた。
「エリスちゃん」
その名前を呼べば、真紅のドレスが揺らめいた。金の髪を震わせたエリスが冷え冷えとした瞳で鴎外を見下ろしていた。
「――――認めるよ、私の負けだ」
鴎外は困ったように笑いながら、佐登を抱きしめた。子供が大切なものを奪われそうになって、必死になってそれを守ろうとしているようにも見える。濃灰色の髪に手を差し入れて、必死に抱きしめた。
「私は、暮を愛してる」
こんなことで自覚するなんて、こんな形で彼女を失いたくないなんて――――。
エリスは何も言わない。ただ、鴎外が抱く佐登をわずかに一瞥して、そう、と呟くと姿を消した。鴎外は佐登を抱いたまま、そっと目を閉じる。
(……背負わなくては)
この痛みを。この責任を。
そして、この気持は押し殺さなければならない。赦されるはずがない。赦されてはならない。佐登の顔にかかる髪を払ってやる。不安げな表情はなく、穏やかに眠っているように鴎外には、見えた。そして、いだきながら寝台へ横たわる。
「おやすみ、暮。どうか、どうか、善い夢を」
――――そして、どうか。
目を覚ましたのならば、また、私に何時ものように微笑んでほしい。
佐登は、うっすらと目を開けた。ぼやけた視界の中、鴎外の寝顔が見えた。心地の良いぬくもりに抱かれて、ゆりかごの中にでもいるような不明瞭な意識の中、鴎外へ腕を伸ばす。そして、鴎外がゆったりと瞳を開けるのが見えた。「暮」――――柔らかな声で、名前を呼ばれると、少しだけ嬉しかった。
その、少し、上、視界の端に見えるのは、黒いドレスだった。
――――嗚呼、私は。
――――私は、彼を愛しているのです。
どうしようもなく、ただ、哀れみで抱かれたと知りながら、それに心地よさを感じてしまう。何て、卑怯で矮小な心なのだろう。佐登は自分が嫌いだった。抱かれる腕の心地よさに再び瞼が閉じそうになる。舞姫が、微笑んでいる。佐登の瞳が、うっすらと、黄金へと変わる。
――――救い給え、君よ。
『はかなきは舞姫の身の上なり』