暗闇の星

 初等科、中等科と無難に学校へ進んだ後、高等学校、大学へと進むことが出来たのはそれなりに運が良かったのだろうと思う。学業は中の上ほど。特別良くもなければ、特別悪いわけでもない。
 大学では創立されたばかりだという秘書科という学科へ進んだ。国文科と最後まで悩んだのだが、後に就職することを考えたら国文科でなあなあに勉強するよりも手に職をつけるような学びをするべきだと思ったのがきっかけである。
 ちょうど、時代が時代だったことも助けて、女性の秘書科への進学率は決して低くはなかったので、珍しいことではなかった。女学校系の大学であれば、それなりに良い教育が受けられた。時代にしては珍しい秘書科の四年制大学だったため、じっくりと法的規約や、事務的な仕事、数学的な処理、電子機器の使い方など――――あらゆる必要な専門的技術や、幅広い一般常識、事務処理の仕方などを学ぶことが出来た。
 同じ学科に通っていた、多くの友達は専門職として、専属秘書に抜擢され、国会議員などの秘書に命じられていくものもいた。だが、私はどうにもそういったものに組み込まれることに抵抗感を感じた。何人か、自分のところへ来ないかと声をかけてくれた人がいたわけだが――――残念ながらお断りした。自分を秘書にしたい、と言ってきた人たちはそれなりに有名な人達であったが、後に汚職など、明らかに彼らの過失で起こったであろう事件で検挙された。最初は残念がっていた友たちも、次第にそんなところに行かなくてよかったね、と口を揃えて言うようになっていった。
 佐登にとってはいつものこと。彼らと話したとき、経歴を見たとき、なぜだろう、そう思ったのだ。「嗚呼、矢張りな」なんて、テレビを見ながらそっと呟いてたっぷりと砂糖と牛乳を入れて甘くした珈琲を飲み下した。

 そして、横浜で有名な大企業、森コーポレーションの一般事務職として就職した。先生方は皆、口を揃えて一般事務ではなく、もっと良い条件のところがと言ってくれたがあまり実家から遠くないところが良かったし、この企業はは就職的に条件が揃っていて、福利厚生もしっかりしていたので決して悪い条件ではないはずだ。下手な、合わないような人のもとで専従的に秘書をするよりも、下手をしたら気分的に楽だろう――――と思って、就職したのがおよそ一年前。
 森コーポレーションはやはり、ある意味でいい職場であった。黒尽くめの怖い男たちが出入りすることが多いが、それでも事務職や会計職の人間たちは普通の人達が多かった。残業はほとんどなくて、時折、多くの書類が総務に回ってくることがあるが――――それだけだ。
 特に疑問は抱かなかった。ここに一年前、ぽんと入った新人である佐登暮に対して先輩たちは一様にして優しい存在だった。佐登が大学で学んだ技術をいかんなく発揮していたというのもあったからだろうし、どうやら佐登が入る以前の新人は何かに付けてやめてしまうことが多かったらしい。最短で三日と聞いたときには流石にこの職場に何らかの問題があるのではないかと思ったが、特に問題がありそうには佐登には見えなかった。
 ――――もしかすると、佐登は自然とそういったものを無意識的に遠ざけていたのかもしれない。できるだけ、問題には関わりたくなかったし、人間関係も深くしたくなかった。人間関係を深くすれば、するほど、佐登は幼少期からの重い"症状"に思い悩まされてしまうからだ。残業も少なく、仕事後に上司から何かしら呼びつけられることもなく、同僚はなく、先輩方も仕事中は気にかけてくれる様子だが、仕事が終われば存外さっぱりとしたもので、佐登としてはとても好ましいものだった。
 その日はたまたま、佐登は残業を余儀なくされた。働いていて一年、こんなに忙しかったのは初めてだった。多くの人が残業をしていたが、気づくと佐登一人になってしまっていた。嗚呼、しまった。などと慌てて、仕事を済ませた頃には既に日付が変わる直前。下手をすれば、終電も危うい時間になっていた。もとから運動が得意ではなかった佐登は走らなければならない事実に辟易しながら事務所の裏口から外へ飛び出して、裏道を通り抜けようと思ったのだ。

 ――――思わなければ、佐登の人生はあまりにも平穏のまま、普通のままでいられたのかもしれない。
 おそらく、それは他者から見た評価だろう。この選択を、佐登自身はいずれになっても後悔しないだろう。そうでなければ、あまりにも普通の侭、何も気付かないまま、この、焦がれる感情も知らないままだったのだろうから。

 昏い路地裏を抜ければ、その先に駅がすぐに見える。普段は街頭の一つもない路地裏なんて通らないが、今日は背に腹を変えられない。そんなことを言っている場合ではなかった。終電に間に合わなくては事務所泊まりだ。出来ないわけではないし、設備も整っているらしいと、就職した当時に上司から説明を受けたが、使用することがなかったがどことなく、あの事務所の中に居続けたら知らなくてもいいことまで知ってしまいそうで怖かったのだ。昏い路地裏が目に入って、佐登はふと、足を止めてしまう。
 ――――行かないほうがいい。
 頭の中で、何かが警鐘を鳴らしていた。ひらりと、白い、何かがちらついた後、目の奥に、今見ている光景とは違う、別の光景が見えた。ノイズのかかったそれははっきりと見えることがなかったが、それでもなんだか嫌なものだ。危険、だと何かが告げている。
(でも、ここを通らないと終電には間に合わない)
 終電を逃したら、何だか恐ろしい気配の強い事務所の宿泊施設を借りることになる。どちらがいいのか、もう迷っている時間もなかった。佐登は一呼吸で一歩踏み出して、走り出していた。もうどうにでもなれ、と思うばかりでこの先の危険をまったく考えないことにしたのだ。悪い映像が見えるのは、昔から自分が物事に対して慎重すぎるせいだと、周りから言われてきた。そのとおりだ。この昏い路地裏に生来の怖がりが現れただけなのだ。さっさと、通り抜けてしまえばこんなもの――――。
 と思ったところで、耳を劈く乾いた銃声に佐登の目に写ったノイズの画像がより鮮明になった。慌てて、近くにあった廃棄物の後ろに隠れて早鐘を鳴らす心臓を抑えた。
 複数人の靴の音が聞こえてきて、通り過ぎていく。昏いせいでよく見えないが、よく事務所で見かけるような黒いスーツの男たちだった。そして、また銃声が聞こえる。ひっ、と喉の奥が引きつって、変な呼吸音しか出てこない。また、一つのノイズ。瞳の奥に映る、そのノイズが消えるまで、佐登は固く目を瞑った。このまま、進んだら――――死ぬ、と見えた。見えてしまった。だが、止まっていても良くないことが起きる、そんな予感がしてならない。
 一つ、足音が近づいてきた。心臓がうるさい。呼吸がうるさい。必死に震えそうになる体を抑えながら、佐登は足音が通り過ぎるのを待った。然し、足音は通りすがらず、佐登が縮こまっているドラム缶の前で足を止めた。

「おや?」

 佐登は慌てて顔を上げた。黒背広を着た中年男性が視界に入り込む。黒い外套、黒い背広、黒い靴、濡羽色の髪、瞳とストールだけが特徴的な赤色をしていて、よく映えた。まるで、この世の夜を落とし込んだような男だった。佐登の早くなっている呼吸が、次第に、次第に収まっていく。
「こんなところに一人かい?」
 柔らかな声に穏やかな微笑を浮かべている男だった。その男の顔に、佐登は見覚えがあった、確か――――。
「森、社長……?」
「うん? 嗚呼、成程。うちの社員だったのだね、所属は?」
「そ、総務課の……」
「嗚呼、君が期待の新人の」
 ――――どういう意味で期待されているのだろう、と佐登は一瞬考えてしまう。森社長こと森鴎外は廃棄物の後ろで屈んで身を隠していた佐登に優しく手を差し伸べた。白い手袋に包まれている手だった。雲に隠れていた月が顔を出したこともあって、その人はとても神々しいものに見えた。
 その姿に、一瞬、ドキリと高く心臓が鳴り、頬が熱くなったのを感じた。柔らかそうなしかし、撫であげられている髪の一部が手を差し伸べられた拍子にわずかに落ちて行くのが視える。美しい、濡羽色の髪は月明かりを浴びて青白い光沢を帯びていた。
 捕まり給え、と柔らかな声で言ってくれるので佐登は小さく、息を吐きだしてその手を掴んだ。鴎外は外見的にはとても細身だが、あっさりと佐登を引っ張り上げて立ち上がらせてみせる。僅かに震えていた佐登の肩にそっと手をおいて笑う。震えてかわいそうに、と困ったような笑みを浮かべていた。彼は佐登の顔にかかる髪をそっと払ってやり、優しく微笑んだ。
「もしよかったら、送っていこう。もう、独りで帰るには危ない時間だ」
「で、でも」
「構わないよ。――――もうそろそろ、私も帰ろうと思っていたんだ」
 有無言わせぬ何かがあった。鴎外の言葉に佐登は押し黙って、ただ静かに頷こうとして――――目を見開いた。鴎外はふと、驚いた顔をした。先程まで、青色だった瞳が月でも映したか、黄金へと変わったからだ。
 見えたのは、黒い何かが鴎外を飲み込んでいく光景。黒くて、大きななにかがあっという間に鴎外を飲み込んで見えなくしてしまう光景。だめだ、と思うよりも早く、体が動いていた。無意識的に佐登は森を押しのけるようにしてその肩を押していた。「社長――――」と発した声に、鴎外が目を見開いているのが見えて、とぷり。と自分が飲み込まれていったことを自覚したのは視界が真っ暗に染まってからだった。

 後には何も残らず。
 二人の姿はどこにもなかった。




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