救い給え
愛しき君

 佐登がほぼ一週間ぶりに鴎外の執務室へ踏み入れると、剣呑な空気が執務室に流れていた。一瞬、踏み込むことをためらってしまいそうになったが鴎外は佐登を見つけると、組んでいた手をほどいて、無表情から一変して、笑顔で佐登を迎え入れた。
「暮、体調はもういいのかい?」
「……はい。長らくお休みをいただきまして、誠に申し訳ありませんでした」
「いいともいいとも。寧ろ、私こそ、休みの最中に仕事のことで何度も連絡したり、会いに行ったりして済まなかったね」
 ニコニコとしている鴎外を見て、佐登はあれが夢だったのではないかと思う。肌に触れた鴎外の指や、唇の感触が今でも忘れられないが鴎外からは微塵もそんな様子は感じられなくて困惑してしまう。どうしたものか、どうしよう、と少し困っていたところで、くすくすと鈴を転がしたような声が聞こえてきて、佐登は目を見開き、鴎外は顔をしかめた。
「……もう、用は済んだのだろう。帰し給え」
「冷たいことだ。嗚呼、鴎外君にこれほど尽くしているというのに、君は私に対してとても冷たい。折角、君の――――」
「アスナ君」
 冷たい声はまるで氷の刃であるかのように感じられた。彼女はそんな鴎外を一笑に付すと、椅子から立ち上がった。そこで漸く佐登から姿を認識することができ、呆然としてしまった。燃えるような赤い髪は長く伸ばされており、確りと手入れがされていて流れるように美しい。白い陶器のような肌に、月のような黄金の瞳がきょろりと佐登を見つけた。おそらく、神が作った精緻な芸術品かなにかなのだろうと錯覚してしまうほどには美しい人だった。ごくり、と無意識のうちに生唾を飲み込んだ。
「はじめまして、佐登秘書官。私は首領相談役の火炎陣アスナだ。会いたいと思っていたのだが、鴎外君が中々会わせてくれなくてね。なにか困ったことがあったら、私に相談するといい。――――興味が湧いたら、手伝おう」
 では、鴎外君、またね。
 佐登に一方的な挨拶をしたアスナという芸術品は優雅な足取りで首領の執務室からいなくなった。なんだか、嵐のような人だなと印象を抱いて、扉から鴎外へ視線を戻すと、鴎外は既に疲れたと言わんばかりのため息を付いていた。何となく、本当に何となくだが嵐のような、ではなく嵐なのだろう、鴎外にとっては。佐登はどことなくいたたまれなくなり、始業前だが鴎外のもとに歩み寄った。
「紅茶でもお淹れいたしましょうか?」
 何時ものように。すると鴎外がば、と顔を上げた。どこか、期待に満ちた目で佐登を見ている。
「暮の淹れてくれる紅茶が飲みたかったのだよ……もう、一週間も飲んでなくて」
 佐登はきゅう、と胸が締まる思いがした。鴎外には別段そのような意識はなかったのかもしれないが、そんな風に言われるととても嬉しい。きっと、佐登がいない間は広津が淹れたりしていたのかもしれない。広津の方が紅茶を淹れるのは圧倒的に美味いはずなのに――――自分が淹れた紅茶が飲みたい、と言ってくれた。もしかしたら、お世辞かもしれない。でも、やっぱり、嬉しい。
「では、お淹れいたします。朝食は?」
「まだ食べてない」
「軽食も持ってまいりますね。お待ちいただけますか」
「勿論!」
 鴎外が笑ってくれた。むず痒い気持ちになりながら、佐登は一礼して一度執務室から辞した。ぱたぱたと走っていく佐登が執務室からいなくなると鴎外は表情を暗めた。アスナがここにやってきたのは、先日の佐登の誘拐事件の事の顛末を伝えるためだ。鴎外の代わりに指揮を取り、後始末まで行ったのはアスナなのでその報告書を届けに来たといったところか。勿論、彼女の本題が報告書を届けに来るだけで留まるところではないのだが。
『鳥かごの鳥が不幸だと、人間が決めるのはあまりにも傲慢ではないかね』
 その意図がわからないわけではない。
『鴎外君、君は彼女に責任がある。昼から夜へと連れ込んだのだから、守るためには多少の犠牲は必要だよ』
 言われるまでもない。判っている。
『彼女の、異能力はきっと君に善いものを齎すだろうからね』
 忌々しい、とばかりに鴎外は舌打ちをした。彼女は魔女だ、ポートマフィアに先代の時代から存在しているという魔女。しかして、鴎外がポートマフィアの首領になった意味をよく理解している女でもある。良くも悪くも、あの女は鴎外の理解者である。鴎外の共犯者であり、協力者だ。アレの言葉は確かに本質を射ている。悩むまでもないことだが、鴎外が判っていることなのだ。

 佐登が紅茶と軽食を用意して準備を終え、執務室へ戻ろうとすると丁度樋口が現れた。
「佐登秘書官、お疲れ様です」
 声をかけられて、佐登はにこりと笑った。――――お疲れ様です、と笑顔で返すと樋口はどことなく表情を暗めて、後ろに組んでいた手を動かした。しばし、視線を彷徨わせていた樋口にどうしたものかと、悩んでいたらしい。しばらくして、佐登の瞳を見た後、決心してそれを佐登に突き出してきた。
「……申し訳ありません、その。全て、回収できなくて」
「……?」
 佐登は簡素なビニールの入を閉じることの出来る袋を渡され、首を傾げた。そして、ビニールの袋から見える中身を見て、目を見開いた。それは、クリスタルの破片だった。砕けてしまい、バラバラになっている形がまばらなそれを佐登は見て、きゅう、と唇を噛み締めた。
 ――――カフスだ。あのとき、壊されてしまったカフスだ。
「あり、がとうございます」
 もう、なくなってしまったのだと思った。二度と、戻ってこないのだと思っていた。壊れてしまっていても、破片しかなくても、それでもこれは佐登にとって愛しい宝物なのだ。小さな袋を抱きしめる。見つかって、本当に良かった。
「本当に有難うございます、樋口さん」
「……いえ、私は、秘書官がそれを大切にされていたのを、見たので。せめて、破片でもあれば、と」
 樋口がそういって微笑んだ。事の次第は樋口も聞いている。女として、純粋に怒りも湧いてくる。幾ら、この裏社会でそういったことが当たり前のようにあることとはいえだ。紅葉など、なぜ自分を混ぜなかったと、佐登の休暇中何度も首領に詰め寄ったのだという話を樋口は聞いている。彼女が加わっていたら制裁はなおも非道いものだっただろう。
 アスナは、多分、それなりに穏便に収めただろう。それどころか、新たな密輸の伝手をそこから作り出し、此れからそこがポートマフィアに齎す経済効果は億にも達するのではないかと言われている。佐登を利用した、と言えばそこまでの話だ。佐登も理解しているだろう。だけれど、せめて、彼女が大切にしていたものは回収して上げなさい、と樋口に指示したのはアスナだった。佐登がいたと思わしき部屋に散らばっていたクリスタルを回収するのは難しいことではなかったがあまりにも小さく砕けてしまったものは、回収には至らなかった。
「大切にします。本当に有難うございます」
「……いえ。お時間を取ってしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえ。樋口さんもお仕事があるのにわざわざ届けてくださってありがとうございました」
 佐登はそれを背広の衣嚢にしまって、樋口に礼をして、そこで別れた。

 少し上機嫌で戻ってくると鴎外が待っていた。
「時間かかったね?」
「一寸、そこで樋口さんとお話してしまいました」
 ――――カフスのことは黙っていよう。
 壊れてしまっただなんて、多分鴎外はもう知っているのだろうけれど。でも、自分の口からそれを伝えるのはすごく悲しいことで伝えられなかった。もう、この破片ではあれを元に戻すことはできない。だから、黙っていよう。この破片のことも、カフスのことも。きっと改めて発信機が用意されるだけのことだ。
 つきり、と胸が痛む思いがしたが、佐登は目を閉じた。


* * *



「本当にお主が戻ってきた善かったのぉ。暮、本当に体調は善いのかえ?」
「はい。ご心配をおかけしました。療養中は沢山お花やお菓子を頂きまして……」
 鴎外が会合に向かい不在になった折に紅葉が訪れた。出会い頭に抱きしめられ、よしよしと頭を撫でられるとむず痒い気分にさせられる。年の近い彼女はなんだかんだと自分を気にかけてくれる。鴎外との関係に、心を砕いてくれる数少ない人物だ。
 佐登が休暇をとっている間、何度も訪れては話をし、花を飾り、お菓子や果物を持ってきて佐登をねぎらってくれた。丁度、本部の秘書室で休暇を取っていたから、紅葉も気安かったのだろう。おかげさまで療養中も退屈せずに済んだ。
「ん……?」
 紅葉がじっと佐登の目を見つめて、押し黙った。
「主の瞳は藍色から色が変わるのじゃな?」
「え?」
 紅葉がさっと手鏡を差し出した。佐登の瞳は元々藍色だった。深い夜のような色だと、鴎外が喩えたのを思い出す。然し、今その瞳は藍色から、瞳孔の下へ向かうに連れて少しずつ、ほんの少しずつ明るくなっていく。まるで、月のような黄金へ。
「……色が、違う」
「気付いておらなんだか。否、然し、それも美しかろう?」
 紅葉がそう言って佐登の肩を叩く。確かな異変に、佐登は気付いていなかった。コンタクトを付ける時に鏡を見たはずだったのだが、あまり気にならなかった。指摘されなければきっと、瞳の色に自分は何の違和感も感じないままだったのだろうと、思う。
(……そういえば、首領が、私は異能力を発動している間、瞳が金に変わると言っていた)
 自分では見たことがないので、わからないが。だが、おそらくはこんな色をしているのだろう。佐登はしばし不安げに瞳を揺らせたが、紅葉を不安にさせてはならないのでまた笑顔を作る。――――なにか体に大きな影響があるとは思えない。

(嗚呼、そういえば、あの日、夢を見た)

 舞姫が、こちらに手を伸ばしている夢。そういえば、あのとき、彼女が言っていた。
 ――――君よ、救い給え。
「……『はかなきは舞姫の身の上なり』」
「どうした?」
「い、いえ、あの、なんでもありませんっ!」
 突然口について出てしまった名前。それを唱えた瞬間に、紅葉の向こう側に黒いドレスが見えた。楽しげにニコニコと笑っている彼女に向かって再び、心の中で「はかなきは舞姫の身の上なり」とつぶやいてみると、嬉しそうに頷いた。紅葉を越え、そして、佐登へ手を伸ばしてくる。

 ――――ア リ ガ ト ウ

 そう言って、彼女の影が再び消える。

 ――――ワ タ シ ハ ア ナ タ ノ ミ カ タ

 昏い影が消えるとそこには矢張り紅葉がいた。
「どうした?」
「あ、大丈夫です。今、お茶をお淹れしますね」
 佐登はそういって笑う。そうか、あれが彼女の名前、そして、異能力の名前なのかと自覚した。すとん、と落ちたそれに、佐登は穏やかに微笑んだ。
(おかえり)
 なぜか、そういいたくなった。
(おかえり、私の舞姫)
 どうして私は、貴方を忘れていたのだろう。




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