嗚呼
麗しき
非日常

 ――――誰かに抱かれているような心地よさを感じる。自分以外の体温が自分の背にあるのを佐登は感じ取ってゆるゆると意識を浮上させた。目を開けてみれば、見たこともない場所だった。ぼやける視界と、寝ぼけた頭では今、自分がどこにいるのかもよく分からず、どうしたものかと、思考が鈍る。すると、とんとんと誰かに優しく叩かれた。もう一度寝なさい、まだ早いよ、と穏やかな声が聞こえる。そうか、まだ朝には早いのか、薄暗いのはそのせいか、と気付くともそもそと体の位置を変え、その腕の中で心地の良い場所を見つけて、そこに収まる。すると、誰かがくすくすと楽しそうな笑い声が聞こえてきて、優しく背を撫でてくれる。佐登は、再び、ゆったりと意識を手放して眠りにつこうとして、目を開けた。

「――――っ!?」

 慌てて身を起こし、自分を抱く腕から離れる。誰か、と聞くまでもない。きょとんと桑の実色の瞳を見開いて、今、まさに佐登を抱いていた腕を開いている森鴎外が佐登の目の前に居た。
「な、ななな、な、なん、なんで……!?」
 秘書室で眠りについた。早めに仕事が終わり、疲れて早々に眠りについたのだ。鴎外とは部屋の前で別れておやすみ、と言われたのだ。間違いない、間違っていない。なのに、今、鴎外と自分は同じ寝台で眠っている。これは明らかに秘書室に置かれている佐登の寝台ではない。だって、これほど飛び退いたのに佐登は寝台から落ちていないからだ。一人で寝るには明らかに大きい、否、二人で寝るとしても明らかに大きな大きさの寝台。その中央で鴎外と自分がどうやら同衾していたらしい。
「いやぁ、いい反応だねぇ。でも、本当にまだ朝までは早いよ、もう少し寝なさい」
 ほら、おいで、とシーツをぽんぽんと叩く。動揺してそれどころではない佐登は困惑に視線を彷徨わせている。自分の身なりは寝たときの寝間着の侭、乱れもない。警戒して自分を抱きしめると、鴎外が苦笑した。まあ、その反応も仕方のないことなのだが。
「大丈夫、何もしないよ。ただ、眠るだけ」
「……あの、ここ、どこ、ですか」
「朝になったら説明してあげる。ほら、おいで」
 柔らかな声で囁かれる。佐登はどうしていいのか分からなかったが、とりあえず、疲れからなのか眠たいことは事実だった。そういえば、最近、あまり良く眠れていなかったのだ。そこに気付いてしまうと、再びウトウトとしてしまう。ふふ、と笑った鴎外が佐登に手を伸ばしてきて、寝台へと横にさせた。彼の腕の上に頭を乗せられる。
「温かいね、暮は」
 鴎外の声が少し遠くに聞こえる。色々、聞きたいことがあったはずなのに、眠気には逆らえないまま佐登はゆったりと瞼を閉じた。

 ――――次に目を開けてみれば、鴎外はいなかった。夢だったのだろうか、とも思うが明らかに見覚えのない場所に自分はいる。眼鏡はどこだろうと、探す。すると、はい、と子供の愛らしい声が聞こえてきて、それを受け取って掛けると、そこにはエリスがちょこんと座っていた。いつもの赤いドレスに赤いリボン、ふふと楽しそうに微笑んで佐登に抱きついてきた。
「おはよう、クレ!」
「お、おはようございます、え、エリス嬢?」
 どうして、ここにと思うよりも先に、先程の眠る前の出来事が夢ではなかったことが確定した。エリスは鴎外の異能。彼女がここにいるということは鴎外もここにいるのだ。着替え、ここよ、とエリスに促され佐登は楽そうな丈の長いワンピースと毛糸でできた綾織のカーディガンに手を伸ばす。とりあえずは着替えて、と思ったがそう言えばこれは実際に自分が自宅で着ていたものだ。自宅では部屋着にとこういったものも着ていたので、なぜ、それがここにあるのだろうと気付いた。
「エリス嬢、首領は?」
「リンタロウなら、先に起きて朝ごはん作ってるわ!」
「――――朝ごはん?」
 自分で作れるんですか? とつい聞いてしまったのは仕方ない。エリスはにこりと笑って「それなりよ」とだけ答えた。ほら、それよりも早く着替えて、とせっつかれてしまえばさすがの佐登も着替えせざるを得ない。慌てて服に手を通して鴎外が待っているという居間へエリスに腕を引っ張られて向かうのだった。
 寝室と思しき部屋から出ると開放感のある居間へと出た。板張りの床に、少し段下りにあるソファスペースには大型のテレビが設置されている。居間から少し言ったところには台所と、食事用の木の卓と椅子があり、丁度台所ではエプロンを付けた鴎外が鼻歌交じりになにか料理をしていた。
「リンタロウ、クレが起きたわよ! 朝ごはんまだ?」
「もう一寸だよ〜エリスちゃん。暮もおはよう、よく眠れたかい?」
「え、ええ」
「朝ご飯、もう一寸で出来るからエリスちゃんと食卓についててくれるかな」
「……は、はい」
 とりあえずはまだ説明してもらえないようだ。佐登はエリスに手を引かれたまま食卓へとつく。珈琲の香りがしており、サーバーには珈琲が入っていた。カップはどこだろう、と探すと鴎外が「食器棚に三つはいってるよ」と教えてくれた。確かに、色違いの揃いのマグカップが三つ、鴎外が指さした食器棚の中に入っていた。何となくだが、紫が鴎外で、赤がエリス、青が佐登と言ったところだろうか。エリスは珈琲ではなく朝は牛乳か、オレンジジュースなので佐登は鴎外に確認して冷蔵庫を開けた。どちらも入っていたので、エリスにどちらがいいか聞くと、オレンジジュースと屈託のない笑顔で答えてくれたので、オレンジジュースをエリスのマグカップに注ぎ入れた。
 鴎外と佐登はそれぞれ珈琲だ。佐登はたっぷりと牛乳と砂糖を入れる。鴎外はどうするのかと聞けば、自分もそうしてほしいと言われたので鴎外の紫のマグカップに同じように珈琲を入れた。トーストの善い香りがしてきて、鼻腔をくすぐると、お腹が空いてきた。朝起き抜けとは言え、お腹がすくタイプなので佐登は素直に鴎外が用意したという朝食を食べることにした。
 トーストにスクランブルエッグとベーコン、サラダ、果物のたっぷりはいったヨーグルト。およそ洋食で考えられる理想的な朝食と言えるだろう。
「じゃあ、食べようか」
 ――――いただきます、と三人の声が揃うのは実はずいぶんと久しぶりな気がした。佐登はエリスのトーストにジャムを塗ってあげて手渡す。自分のにはバターを塗って、その上に卵とベーコンを乗せる。それを二つに折ってかじりついた。
「あの」
「うん?」
 鴎外もトーストにはバターを塗っていた。佐登がどうしたものかという顔をしているのでおいしくなかったかい? と鴎外が問う。佐登はふるふると首を横に振った。――――とりあえず、聞きたいことが多すぎて何から聞いていいのかわからなくなったのだ。
「首領、料理も――――」
「鴎外」
「え?」
「ここでは鴎外と呼んでくれ給え」
 にこりと返されて、佐登は閉口した。どうやら、ここでは首領という単語は認められないらしい。しばし熟考し、鴎外に質問に答えてもらうほうが優先かと考えた佐登は漸く、小さな声で、鴎外さん、と口にした。その瞬間に堪らなく嬉しそうな顔をするので、つい、頬が熱くなる。嗚呼、私はこの人が好きなのだ。
「鴎外さん、料理ができたんですね」
「ポートマフィアの首領になる前はエリスちゃんと二人だったからねぇ。外食もしたけど、どっちかというと自炊が多かったかなぁ。喜んでもらえたらいいのだけれど」
「……美味しいです」
「そう、よかったよ」
 にこにこと笑う鴎外に、佐登はつい視線をそらした。やっぱりその笑顔に弱いのだろう。朝食が冷めてはもったいないので、佐登はそのまま食事を進める。この環境が一体どういうものなのか、という確認はその後からでも出来ることだ。幸いにして、今日は鴎外も自分も休暇である。

 朝食が終わると、せめて食器洗いはさせてくれと鴎外に懇願し佐登は食器洗いをしていた。その隣では鴎外が佐登の洗った食器の水気を取ってエリスに手渡している。エリスは鴎外から受け取った食器を食器棚にある程度まとめて戻しに行く。
(……なんだろう、家族かな)
 昔、佐登もよく父や母と似たようなことをしたものだ。全ての食器の片付けが終わると、佐登は話がしたいのですが、と言う。鴎外も判っていたのか、紅茶でも淹れようかと言う。長い話になるのだろうか。佐登はではお淹れしますね、ととりあえずコンロにやかんをかけた。
 紅茶を淹れ、居間のソファへと持っていく。少し段下がりになっているので、二段ほどの小さな階段を降りる。茶器一式をテーブルの上に置いて佐登は鴎外とエリスに給仕する。エリスのカップには先にミルクを注いであり、そこに紅茶を注ぎ入れる。はちみつにしますか? とエリスに聞くと、にっこりと笑顔だ。はちみつをたっぷりと入れ、カップをエリスに渡す。鴎外は紅茶を受け取って、佐登に自分の対面にあるソファに座るようにと促した。
「……あの、首領」
「鴎外さん」
 ――――朝食と同じ会話だ。佐登はぐっと言いたいことを飲み込んで、鴎外、さんと呼ぶ。
「ここはどこですか?」
「横浜内のマンションの高層階の一室。私のセーフハウスの一つだよ」
 成程、と佐登は思った。しかし、佐登の記憶にないセーフハウスだ。一応、佐登は鴎外の所有しているセーフハウスや、懇意にしている宿泊亭は大体把握しているのだが。紅茶に角砂糖を一つ、放り込む。
「記憶が正しければ、このようなセーフハウスはなかったと思いますが」
「うん、新しく用意したからね」
 成程。
「では、私がここにいる理由は?」
「暮にはここで暮らしてもらおうと思って」
 ――――成程?
「……ここで?」
「うん。私と、エリスちゃんと、暮で」
 ――――うん?
「……なんだか、この手の会話前にしたような気がします」
「嗚呼、恋人役の話のときじゃない?」
 鴎外がからからと笑う。そうだ、あのときもこんな感じで話をしたのだった。鴎外がなんてことがないように話すのであっという間に話がまとまってしまったのだ。そうか、あれももう一年ぐらい前の話なのか。
「首領、」
「だから、鴎外さんだってば」
 ぷくぅと頬をふくらませる鴎外に佐登は頭が痛くなった。異能力の副作用とかそんなものじゃない、単なる頭痛だ。こう途方もない話と、目の前にいる鴎外に対して頭が痛くなっているだけだ。頬を膨らませたいのはこっちの方です、なんて可愛いんですか、と心の中で思いながらかき混ぜていた匙を抜いて、佐登は紅茶を一口飲んだ。もう少し甘くした方が、今の気持ち的に助かるだろうか。
「首・領」
「……」
 返事もしなくなるとは。佐登は大人げない鴎外の様子についに頬を膨らませた。いや、然しこのままでは埒が明かない。
「首領は身の安全のために宿泊先を転々とされておりましたが、それは宜しいのですか?」
「…………」
 鴎外がちらりと佐登を見る。鴎外さんと呼びなさい、と言わんばかりの顔をしているが、佐登はふいと目をそらした。駄目だ、この人の目を見ていたら負ける。佐登も譲らない姿勢なのだと理解したらしい鴎外ははぁとため息を付いて足を組み直した。ため息を付きたいのはこちらの方ですとも。
「色々考えた結果だよ。ここで君と暮らしを共にした方が利益が大きい」
「利益、ですか」
 佐登は少し表情を暗めた。判っているだろう、いまさら傷つくな、と自分に言い聞かせて顔を上げた。
「何より君の安全を私が保証できる。――――私の元ほど、安全な場所もないからね」
「……それは、そう、ですが」
 この建物にもある程度護衛が配置されているのだろう。横浜にあるマンションとだけ鴎外は言ったが、おそらくは佐登には想像もつかないような高級マンションに違いない。高層階と言っていたし。佐登はくらりと目眩がしそうだったが、なんとかこらえて鴎外を見る。
「勿論、これは恋人役としても必要なのだよ。もう交際して一年っていうぐらいだしね。私が暮を手放す気がないなら、こういうこともおかしくはない」
 鴎外が紅茶のカップを持ち上げる。まあ、確かにそういうことも、無きにしもあらずかもしれないが。無きにしもあらずかもしれないが! 佐登としては釈然としない。というか、これ、既に断る権利がないことを察していた。
「……私の荷物、勝手に搬入したんですね?」
 鴎外の視線が不自然にそれた。この私服があるということはそういうことだ。何ということか、おそらく鴎外自身が手をかけたわけではないだろうが、それでも勝手に自分の私物をいじられて気分のいいものは居ないだろう。抗議の視線を鴎外に向ける。
「暮の部屋はちゃんと別に用意してあるもん」
「もん、じゃありませんよ! 一言、先に相談してくださればいいじゃないですか!」
「だって、サプライズしたかったんだもん!」
「もんじゃないです!!」
 可愛いからやめてください、と叫ぶのをなんとかこらえて、佐登はソファに身を落ち着かせた。まあ、鴎外の言いたいこともやりたいことも理解できる。彼は彼なりに、佐登への責任を果たそうとしてくれているのだ。あの、誘拐事件で、佐登は深く傷ついた。鴎外はそれを気にかけてくれているのだろう。
「暮の荷物は大きくいじってないよ、本当だよ……?」
「……」
「うっ、暮が私に対して冷たい視線を向けるっ」
「…………わかりました、もう、これ、私に拒否権ないじゃないですか」
「……」
「まあ、最近、首領に朝、昼、晩の三食食事作っていましたし、一緒に住んだほうが楽そうだなぁとかは思っていたので、もう何も突っ込みませんが」
 佐登は少しだけ顔を赤らめた。
「……も、もしかして、ずっと、同じ寝室で、眠る、の、ですか?」
 それをきょとん、と眺めた鴎外が吹き出して笑った。もう、一度、あの流れだったとは言え体を重ねた間柄だと言うのに、こうやって照れるとは想像もしていなかった。
「嗚呼、ごめんよ。ふてくされないで。――――暮がそうしたいなら、毎晩でも私は一緒に寝てあげるよ?」
 勿論、その場合は本部で寝泊まりするときも一緒に寝てもらうけどね?
 佐登が顔を真赤にして慌てて首を横に振る。あまりに大きく振っているので目眩はしないだろうかと、鴎外は考えてしまう。佐登は首を振った後に、とんでもない、と繰り返した。
「で、で、出来るなら、一人で」
「ちゃんとそれぞれの部屋に寝台は用意してあるよ。紅茶を飲んだら、この家の案内をしなくちゃね。後、夜は私も手伝うからぱーっとごちそう作っちゃおう?」
 寝台がそれぞれあると聞いて、佐登は少しだけホッとした。毎日鴎外と共にあんなふうに眠るとなったら佐登はきっと耐えられない。耐えきれない。きっと、心臓が破裂してしまうに違いない。佐登はそんなことを考えながら両手で紅茶のカップを持って鴎外をそろりと盗み見た。クスクスと、楽しげな彼は何時もと変わらない。
「嗚呼、暮」
 鴎外は佐登を呼び止めて笑う。

「ここではちゃんと、鴎外さんと呼ぶんだよ?」


 ――――そして、この人との共同生活が始まった。




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