佐登は電話応対をしていた。現在中原は本部にはいない。西の勢力抗争のために長らく離れているのだ。ポートマフィアがいかに強大とは言えど、それは地道に勢力を広げる努力を続けているからであるのだ。無駄な戦いを嫌う鴎外ではあるが、この手の抗争は尽きないものだ。こちらが喧嘩を売らなくてもけんかを売ってくるなんていくらでもある、と中原が出発前に言っていたことを思い出す。この連絡はあくまでも定期連絡のようなものだ。首領への取次はいかが致しましょうと言えば、中原は構わないことを告げた。
「手前を信頼してるからな。――――首領によろしく伝えておいてくれ」
「承知いたしました。中原幹部もお気をつけて」
そういうと、はっ、と鼻で笑われ、電話が切られた。お気をつけて、というのはあまり良くなかっただろうか。まあ、中原ぐらいの腕になれば滅多なことでは怪我もしないだろうけれど。
(怪我をしたら痛いじゃないですか)
なにかと殴られて腫れることの多い頬をそっとなでながら、佐登は黒電話を元の場所へ戻した。そして、ある程度書類をまとめて立ち上がると秘書室から退出する。目指すのは鴎外の部屋である。今の時間であれば、書類仕事でうんうんと唸っているかもしれないので、紅茶も用意しよう。給湯室へ立ち寄り、紅茶を淹れてから鴎外の執務室へ続く扉を開けようとして佐登は顔をしかめた。僅かに、瞳が黄金へ変わる。
「エリスちゃ〜ん、お願いだよぅ〜」
見た映像と、現在がつながった。佐登はため息を付きながら、ノックなしに扉を開けた。
「……首領」
冷めた声を出すと、びくと鴎外の肩が震えた。こちらを見る目があまりにも弱々しくて、佐登はつい苦笑しそうになるが駄目だ、ここで一瞬でも気を緩めると甘えられてしまう。佐登はきりりと無表情を貫き通し、鴎外と見つめ合いをした。エリスは既に佐登の足元へと移動している。
「お仕事のお供に紅茶は如何でしょうか?」
にっこり、と笑うと鴎外が引きつった笑みを浮かべる。そして、そろそろと立ち上がると執務机の方へ戻っていき、そしてコホンと一つ咳払いをして同じようにニッコリと笑ってみせた。
「頂こうかな」
「かしこまりました」
最近、こういったところで佐登がしたたかになってきた。この職場に慣れてきたということでもあるのだろうが、鴎外としては書類仕事の時にピリピリと威圧を感じるのだ。非道いときにはとても冷ややかな目で見られるからたまったものではない。
良い香りのする紅茶が鴎外の前に置かれ、有難う、と鴎外がニコリと笑う。
「首領」――――ニコリ、と佐登が同じようにして笑った。最近、すごく笑顔を見ることが多いなぁ、と鴎外はしげしげと眺めながら考える。
「ちゃんと仕事してくれないと、今日の夕飯、エリス嬢の分までにしますよ」
「それは待って!!!!!」
鴎外が椅子から腰を浮かせて、絶望にも似たような声を上げる。佐登はじゃあ、仕事してください、と言って鴎外の肩を押さえると椅子へ戻す。全くと苦笑しつつも、今日の夕飯のことを考える。何がいいだろうか、鴎外は魚類があまり得意ではないし、といろいろ考えているのが鴎外に察せられたのだろう、どこか微笑ましい視線を向けられてしまった。
「今日の夕飯、何?」
「首領はお仕事終わらせないとありませんけれども」――――佐登は一度言葉を切って、ちらりと鴎外を見る。「今日はハンバーグにしようかな、って思いました」
鴎外はそれを聞いて、更に柔らかい笑みを浮かべた。
「いいねぇ。目玉焼きもつけてほしいなぁ」そういいながらも、鴎外の手は確りと書類を捌いている。先程に比べて少しだけ速度の上がった処理に佐登は満足げに頷いている。
「首領が望むのならご用意致しますね」
「うーん、首領というよりも、鴎外さんからのお願いかなぁ」
「……ふふ」佐登は笑った。
「どっちにしろ、ちゃんと用意してあげますよ」
佐登はそういいながら、次の書類に添付される予定である資料を鴎外に手渡した。きっと、書類の確認のためには必要だろう。鴎外はそれを受け取って、微笑む。こういう、日常が既に半年近く続いている。佐登と鴎外はともに暮らすようになっていて、それもある意味当たり前の流れであるかのように受け入れられている。まあ、このような惚気話を聞かされる護衛は些か苦笑しているのだが、彼らは微塵も顔に出していないので、佐登は気付かない。鴎外は察しているが敢えて何も言わない。言う必要がない。元々を考えてみれば、これが目的なのだから。
「ねぇ、クレ、私、旗立ててほしいわ!」
「ああ、あれですか? いいですよ」
「え、エリスちゃんだけ?」
「首領は子供じゃないですよね?」
佐登は少し呆れたようにしつつ、仕方ない、鴎外の分も旗を用意しようか、と決めた。多分、一緒に作らないと拗ねそうだ。子供じゃないはずなのに、どうにも子供のようなことを言い出すのが、つい微笑ましくて甘やかしてしまう。
「嗚呼、そう言えば」
鴎外はふと思い出したかのように顔を上げた。「中也くん、何だって?」
その言葉を聞いて、佐登は待ってました、と言わんばかりに鴎外の前に書類を差し出した。中原からの報告を簡単にまとめた書類だ。あちらは今、佳境を迎えていてこんなものをまとめている時間はないと思うが、然しまとめてあったほうが後々、鴎外にも、中原のためにもなると判断して、佐登がささっとまとめたものだった。
「ふんふん……向こうも滞りはなさそうだねぇ。後、一週間ぐらいかな」
「はい。中原幹部も同様におっしゃっておりました。戻り次第改めて報告を上げるとのことです」
「うん。暮もありがとう、まとめてくれたんだねぇ」
「口頭よりわかりやすいかと思いまして……」
佐登は少しだけ顔を赤らめて、嬉しそうに微笑んだ。矢張り仕事のことで褒められるのが一番嬉しい。一番貢献できているという気分になれるから。佐登が嬉しそうにしているのをみて、鴎外は少しだけ柔らかく微笑んで、その書類を決済済みの印を押して、書類箱の中へと入れた。
「却説――――頑張らないと、暮が先に帰ってしまうねぇ」
「そうですよ。夕食の買い出しについてきたいのなら、頑張ってくださいね」
佐登が苦笑しながら鴎外に仕事をするように促す。一緒に暮らすようになってから、初めて買い物に連れ出して以降何かにつけてついて来たがる鴎外は余程の用事がない限り、佐登の夕食の買い出しにくっついてくるのだ。エリスが一緒のときもあれば、二人きりのときもある。まあ、その時の鴎外の気分なのだろうが――――実は、佐登もそんなささやかな外出が嬉しい。少しでも長く、一緒にいられるのが嬉しいのだ。
(……飯事、だとしても)
そうであったとしても、今、鴎外と過ごす日常が本物であると思いたいのだ。
「……虎?」
佐登は野菜を受け取りながら首を傾げた。八百屋の店主とは既に顔見知りで、おお怖い、と身を震わせた彼が言ったのは虎の噂だった。
「そうそう、虎」
「あの虎ですか? トラ猫とかじゃなくて?」佐登が僅かに顔を青ざめさせながら言っていると鴎外が隣から「真逆、トラ猫と虎は間違えないと思うよ、暮」と静かに言葉を重ねてきた。判っていますよ、そんなの、と言う佐登の手から鴎外が野菜の入っている袋を受け取った。今日のハンバーグの付け合せ用のポテトサラダの材料が入っているのだ。
「鶴見の辺りらしいよ」
「あんまり、遠くないんですね」
きゅ、と佐登が鴎外の服を掴んだ。鴎外はそれを見ながら苦笑してみせる。
「真逆、山から降りてきたんですかねぇ」
「らしいよ、先生。先生たちも気をつけな、暮ちゃんに何かあったらここらの商店街のおじさんたちは泣いちまうぜ」
「ははは、気をつけましょう」
先生――――というのは、ここらでの鴎外の呼び方のようなものだ。元々医者だったという話をしたらあっという間に先生という呼び名で定着してしまった。佐登が頻繁にこの商店街で買い物するので、鴎外も顔を覚えられてしまったというわけだ。別に構わない、と鴎外が言うので佐登も気にせず、買い物をしているのだが。
「虎……」
「大丈夫だよ、暮。まあ、心配になるのはわかるけれどねぇ」
鴎外はそう笑いながら佐登の頭を撫でる。それでは、と八百屋の主人と別れて、佐登と鴎外は連れ立って自宅へ向かって帰っていく。道中は夕暮れから、夜に変わる時刻であり、佐登は静かにため息を付いた。
「虎……が、山から降りてくるなんて」
「真逆」鴎外は一笑に付した。あっさりとあしらわれてしまったことに少しだけ不満を訴えて佐登がむくれて見上げている。少しだけ膨らんだ頬の空気を抜くように鴎外の指がつついてきた。ぷぅ、と空気が抜けて、胡乱な瞳で鴎外を見上げている。
「暮は先日の芥川君があげてきた通信、覚えていないのかな?」
一瞬、鴎外の瞳がポートマフィアの首領の顔へと戻った。さっと、むくれていた佐登の顔も真剣なものに変わって、顎に指を当てるとじっと考え出す。――――そう言えば、そんな報告があったような気がする。
「虎の異能力者を探している、という話ですか?」
少し、声が潜められているのはここが自宅でも本部でもないからだ。周りに人がいないとは言え、ここでする会話としては適当ではない。それくらいの弁えがある佐登に、鴎外は鷹揚に頷いた。夕方とは言え、高級マンションがある方へ向かっていく道は人気が少ない。時折、家へと帰宅を急ぐ子供の姿を見かけるだけのことだ。
「北米の、組合、でしたか。確か、懸賞金の額は――――」
「七十億」
鴎外の言葉に佐登が頷く。
先日、芥川の報告で上がってきた、闇市場の情報である。横浜のポートマフィアへの依頼という形で寄せられてきたその話に鴎外はしばし考えた末に受けることを決定した。とある虎の異能力者を生きている状態で捕縛し、海上の指定区域に連れてきてほしいということである。
「し、しかし、先程の虎の話と、虎の異能力者の話はつながらないのでは? 虎は鶴見の辺りを徘徊していたという話ですし……異能力者なら、人間」――――佐登の唇に鴎外の指が添えられる。
「君は自分の意能力を完全に操れていると言えるかな?」
鴎外がにこやかにそういう。ぐさり、となにかナイフのようなものが突き刺さった気分に佐登はなったが、まさしくそのとおりである。この世で異能力は操りきれるものと、操りきれないものが存在する。中には、異能力が自分に存在していると自覚していないものもいる。――――嘗て、鴎外に出会う前の佐登が自分の見えているものを不安が招く妄想だと思いこんでいたように。
「野生の虎、というのが一体どれくらいいると思っているのだね?」
「……いえ、その、だって」
「動物園とか研究施設から逃げ出したのだとしても、一寸違和感があるねぇ。もっと、大騒ぎだよ」
鴎外の言うとおりだ。いつの間にか自宅の共用玄関についており、鴎外は鍵を機械に差し込んだ。自動錠であり、鍵がないとこの共用の玄関も開かない仕組みである。エントランスには数人の黒服が見てとれて、鴎外が彼らに視線を向ける。揃って礼をするのはいつものことだが、佐登は相変わらず慣れないままで、慌てて彼らに礼をしてさっさと通り抜けていってしまう鴎外を追いかけていく。
昇降機に乗り込んで、目的の階の釦を押す。
「なら、それは異能力者だと判断するのが妥当だと思うのだけれど、どうかな?」
「……確かに、そうですが」
「鶴見の辺りか……ふむ。暮、済まないけれど、夕食前に芥川くんと樋口くんに指示を出して置いてくれるかな」
「周辺の捜索ですか?」
「一応、情報の裏取りも任せようかな」
「かしこまりました」
自宅では仕事の話はできるだけしたくない、という鴎外ではあるものの、このような事態になれば積極的に動くのだ。先手を打つものが勝つ、というのが鴎外の信条らしい。ならば、未来予測の異能力を持っている佐登を重宝したがるのも頷けるというものだ。
「……情報の裏取りができましたら、私が」
「必要なら、ね」
鴎外は苦笑した。――――鴎外はできるだけ、佐登に異能力を使わせないことを決めている。異能力による反動は徐々に少なくなってきているように感じるが、あまり反動で苦しむ佐登を見たくないのだ。呼吸が薄くなり、苦痛に顔を歪めながら眠る佐登を見ているのは、心が痛む。自分が、そういう状況に追い込んでいると、自覚しているくせに。その力が必要ならば、何のためらいもなく使えと命令するくせに。
(私も、中々に狡い男だね)
鴎外は佐登ともに昇降機から降りて、自宅へと続く廊下を歩いていく。この階は全て鴎外が買い取っているので、使われている部屋は佐登と鴎外が暮らしているところだけで、廊下には数人の警備が常に立っている。彼らは鴎外と佐登を認識すると銃を下げて、通した。
「それよりも、暮」
「はい?」
「ハンバーグだよ」
「え、七十億より大事ですか?」
「今の私には見えない七十億よりも、目先のハンバーグがいいなぁ」
緊張の通った顔をしていた佐登が、困ったように笑う。そうそう、その顔。矢張り、佐登が笑っていたほうが鴎外は安心する。この家は、佐登のための鳥かごだ。佐登が逃げられないようにしてしまった以上、飛び立っていけない以上、彼女が安心できる場所を用意するのが鴎外の義務だ。
「困った首領ですこと」
「今は首領じゃなくて、鴎外さんだもの」
わかりました、と言って佐登がエプロンを取り出す。黒い猫のついているエプロンである。それを腰の辺りで縛って、着ていた服の腕まくりをする。
「私、お風呂の支度をしてくるよ」
「はい、お願いしますね」
佐登がそう言って手を振ってくれる。却説、と鴎外は風呂場に向かって風呂掃除と、お湯はりだ。ここではポートマフィアの首領ではなく、一人の森鴎外として過ごそうと決めていた。