その手は
いつでも

 ――――そっと、意識を手放す感覚がした。自分の体から、自分の意識だけをそっと引き剥がして、昏い場所へ降りていく想像をする。そこに、いるのだ。舞姫が。凡百の情報の波を一つ一つ紐解いて整理をする。虎の発見の情報から、数日前から全く姿を見せなくなってしまった情報のわずか、短い期間の話。佐登は自身の意識が、意識していない全てを動かしているのが認識できた。酷く脳が揺さぶられる気持ちの悪い感覚に耐えるようにして、目を瞑る。舞姫が凡百の情報を引きずり出し、そして、凡百の可能性を出してくる。この中で最も確率の高いもの、可能性の高いものが佐登の脳裏に見える映像となる。今日はそれ天啓ではなく、意図的に起こしているのだから、余計に佐登の脳は揺さぶられていた。

 長らく、息を止めていたかのような錯覚をする。水の中に押し込められて、漂っていたかのような。はっと、目を開けた佐登の瞳に一番に写り込んできたのは、鴎外だった。その桑の実色の瞳が心配そうに細められていた。短く浅い呼吸から、少しずつ長く深い呼吸に変わってくると、漸く佐登の焦点が現実に定まってきて、黄金色の瞳が、藍色の瞳へとゆるゆる戻っていく。
「判ったかい?」
「――――はい」
 佐登は呼吸を落ち着けるように心臓付近に手を添える。ゆっくりと、長く息を吐きだして、漸く落ち着いてきた。異能力「はかなきは舞姫の身の上なり」は要約すると未来予測をする異能力だ。だが、その条件は決まっていて、ある程度情報が揃っている事象か、それとも突発的な危険が起こったときにしか発動しない。情報を揃えて無理やり発動させるような――――今回のような――――方法も出来るが、それは佐登の負担が大きい。単なる天啓であっても、佐登には相当な負担になっている。その負担の原因を鴎外や医療チームは脳の酷使に寄るものではないかと推測しており、異能力はあくまでも脳を動かすまでしか作動せず、その後の処理は全て佐登の脳に依存しているのではないかと、考えている。まあ、今はそのようなことは蛇足でしかない。
「武装探偵社、に彼はいます」
 佐登が静かに天啓を告げる。鴎外がおや、と短く声を上げ、然し、それを樋口に伝えているのが見えた。本来なら、佐登の仕事だが、今の佐登にはそんなことをする余裕がない。徐々に瞼が重くなっていく気がした。脳の負担に耐えかねた体が、もう休むようにと指示を出しているのだろう。体が疲れているわけではない。絶望的なまでに脱力感は感じるが。
「暮、もういいよ」
 鴎外がそっと佐登の頬を撫でる。眠りにつく子供にするように、額にそっと口付けを落とす。そして、優しく抱きしめてやる。穏やかに眠りにつけるように、背中を優しく撫でた。しばし抵抗するように目を開けていたが、自然と佐登の瞼が落ちて、藍色の瞳が隠される。穏やかな、寝息が聞こえてくると鴎外は佐登を優しく抱き上げて、奥にある寝台へと寝かせるため歩き出した。



* * *




 目を覚ますと、寝台の上だった。鴎外の姿は無く、僅かに橙色の光が差し込んでおり、ぼんやりと周囲を見渡してみると美しい赤い髪に、着物を纏った女性が近くに座っているのが見えた。――――紅葉である。
「おお、目を開けたか」
「……こーよー、さん」
「ふふ、寝ぼけておるな」
 美しい麗人が微笑んでいるのがわかった。そこで、漸く佐登の意識が浮上してくる。嗚呼、自分は眠ってしまったのだと思いながらゆっくりと起き上がろうとするが、くらり、と目眩がする。頭を抑えて、起き上がり途中で動きを止めてしまう。紅葉がそっと手を貸してくれるので、支えられながら体を起こすと、そこにちょこん、と佇んでいる女の子が視界に入った。――――彼女のことは知っている。
「鏡花ちゃん、」
 佐登が声を掛けると、まるでお人形のように佇んでいた泉鏡花が顔を上げた。きっと紅葉が連れ出してきたのだろう。紅葉は孤児である彼女を甚くかわいがっており、まるで妹か娘のように扱っている。佐登もその縁で会うことができたのだが、彼女がどうしてポートマフィアに入ったかを考えれば、ここは決して彼女にとって善いところではないだろう。殺戮のための異能、夜叉白雪は、彼女の両親を惨殺した。その光景を目に焼き付けていた彼女は一体何を思ったのか、佐登には想像もつかない。
「あ、鏡花ちゃん、おいで」
 佐登が思い出したかのようにそっと手招きをした。佐登には彼女を救う力はない。深い闇の底から光のある場所に連れて行くことなどできないが、せめて、と願うことは出来る。ぱたぱたと近づいてきた彼女に手を出すように言う。近くにあった自分の背広の上着からそっと飴玉を取り出した。それをころん、と彼女の手の上に落とした。これも、彼女に会ってから毎度のことだった。偶々、その時は背広の上着の衣嚢の中に飴が入っていたので、渡したのだが思ったよりも喜んだ顔をしてくれたので、以降、飴玉は持ち歩いている。(たまに首領がほしいと騒ぐので、常備するようになった)
「今日はね、檸檬味」
「梶井が聞いたら喜びそうじゃな」
「その梶井さんに箱ごと頂きました」
 梶井、というのは梶井基次郎というマフィアの構成員である。ポートマフィアの中では芥川の次に名前が知られている構成員で、爆弾による攻撃を得意としているらしい。――――らしい、というのはあくまでも佐登は情報の上でしか彼の活躍、活動を知らないからである。鴎外の指示で建物の爆破などをやっているらしい。ポートマフィアというのは暴力を貨幣として経済行為体、という鴎外の持論通りに、あらゆる活動が暴力につながっている。
 さておき。梶井という男はこれもう大層檸檬が好きな男で。たまたまその日持っていた飴がはちみつ檸檬味だったことを大層気に入られて、箱で飴をもらったのだ。それも多種多様の檸檬味の飴だ。まあ、嫌いではないのでありがたく頂いているし、乾燥しがちな時期には重宝しそうだ、と秘書室に待機している。鴎外にその話をした所、少し面白くなさそうな顔ではあったものの、梶井くんらしいねぇ、と言われた。

 すると、ノックがして、佐登が返事をする。がちゃりと扉が開くと、鴎外が居た。おや、と柔らかく目を細めると、寝台に少し足早に近づいてくる。そして、紅葉とは反対側の位置に立つと、するりと佐登の頬を指でなでた。
「うん、調子良さそうだねぇ」
「ご、ご心配をおかけしました」
 佐登が素直に頬を染めて照れていると、紅葉がごほん、と一つ咳払いをする。鴎外と佐登がそちらを見ると、紅葉の手が鏡花の肩を抱いている。そして視線は鴎外に冷たく向けられている。まあ、要するに。『鏡花の前で不埒なことをするな』とでもいいたいのだろう。佐登としてはそんなつもりは一切ないので、慌てて首を横に振るが、鴎外はニコリと笑って済ませるだけだ。
「然し、寝不足などと……矢張り鴎外殿と一緒に暮らすのは無理があったのではないかえ?」
「寝不足?」佐登は一瞬きょとん、としかけてさっした。嗚呼、そうだ、紅葉も鏡花も、佐登が異能力を持っているということを知らないのだ。体調を崩した、と聞いて何事かと紅葉が鴎外に詰め寄ったのだろう。その際の説明に、鴎外は適当に風邪、とか寝不足とか、言ったのだろう。こういうことは決して初めてではなくて、佐登は慌てて「そうですね、寝不足です」と繰り返した。
「今、しれっと私はケダモノ扱いしたよね、紅葉君」
「佐登が今、この状況で寝不足と言ったら致し方あるまい?」
「言っておくけど、私は暮に無理強いしたことはないからね!」
 ――――事実無根なことを、よくもまあ、あることのように言うものだ、と佐登はある意味感心した。鴎外が佐登に手を出したのはあれきりない。あの、夜だけだ。あの一度だけ。あの夜だって、起きたら鴎外の姿は既になかった。代わりに服が一式揃えられており、二、三日本部で休養を取るようにという覚書があっただけのことだ。
「今回の寝不足は、あの、新しい電子遊戯に、熱中してしまって……」
 佐登が苦笑しつつそういう。紅葉は訝しげに佐登と鴎外をみやった後に、これ以上の詮索は不躾だと判っているからかあっさりと引いていった。ありがたい話である。周りのこういった配慮のおかげで、幸いにも佐登と鴎外の関係が守られているのだと思うし、紅葉は判っていてこの発言をしているはずだ。
「嗚呼、そう言えば、暮、おなかすいてない?」
「……ふえ」
 そういえば。お腹が空いてきた気がする。
「紅葉君も、鏡花君、よければ一緒にどうかな」
「何処へ行くのじゃ?」
「う〜ん、暮、何が食べたい?」
「え、私は、なんでも……あ、鏡花ちゃんは何が食べたい?」
「湯豆腐」佐登の質問にあっさりと鏡花が食べたいものを口にした。子供はこれくらい遠慮がないほうがいいというものだ。佐登はにっこりと笑って頷きながら、鴎外へ視線を向けた。
「じゃあ、湯豆腐がいいです」
「わかったよ。それでは、たちばな堂にしようかな」
 ――――たちばな堂。と聞いて、佐登はふと思い起こしてみる。そういえばすごく高級なお店ではなかっただろうか、などと考えながらも紅葉にそこへ行くのなら着物を着ようぞ、と言われあれよあれよのうちに着物を着せられ、あっという間に車へと押し込まれ、四人でたちばな堂へ向かうこととなった。
(嗚呼、矢っ張り、高い所でしたね)――――金額的に。と佐登は苦笑することとなるが、暮の食べたいものでいいよ、と鴎外がいうので、せっかくだから美味しいものを食べましょうとそれぞれ選んでいく。鏡花が湯豆腐を食べたいということは言っていたので、湯豆腐は忘れない。
「然し、例の虎、見つかったのか?」
 食事の会話としては些か物騒なものだっただろう、切り出した紅葉に向かって鴎外と佐登が視線を向けた。鏡花は会話にあまり興味が無いのか、黙々と湯豆腐を食べている。湯豆腐ばかりだと栄養偏るよ、と対面に座っていた佐登が他のものも食べるように促していた。
「見つかったよ。捕縛は芥川君達がしてきてくれるだろうね」
「大丈夫かえ?」
 その懸念は、芥川がその標的を殺さないかという懸念だろう。敢えてそれを口にしなかったのは食事の場だったからか、そういったことを嫌う佐登が傍に居たからか。
「虎自身は強力かもしれないねぇ。ただ、異能力を操りきれていないのなら、芥川君で十分対抗できるとも」
 鴎外はそういいながら、湯葉に箸を伸ばす。隣では佐登も同じように湯葉をしゃくしゃくと啄んでいる。鴎外はそれをみてニコニコと笑っている。佐登はそれを見て、どうやらこれは佐登への報酬だったようだ。――――異能力を使用し、昏睡したことへの慰労、かもしれないが。
「まあ、いざということがあれば次の手を考えるだろうね」
 鴎外が湯葉を食んで、ん、おいしい、と言う。それを聞いて佐登がくるりと鴎外の方を見て、笑う。そうなんですよ、美味しいんですよ、と言う。紅葉はそれを眺めやりながら、一つため息をつく。ある意味、紅葉だけがこの二人の本心を知っているようなものだろう。
 鴎外はあの事件以降自分の気持を確実に自覚した。だが、それを潜めるつもりだ。これまで通り、いつもどおりにいわゆる恋人役の侭、佐登を傍に置こうとしている。それでもその扱いは以前よりもずっと佐登を慮るものとなっただろう。佐登は佐登で気持ちを秘することはしないが、自分が利用されていると思い込んでいる。勿論、嘗ての鴎外がその意志で佐登を傍に置いたのだから仕方ないことだが。
(めんどくさいすれ違いをしとるのぅ)
 敢えて教えてやるつもりもないが、見ていてとても歯がゆいしめんどくさい。こうしてみている分には十分恋人らしいし、はては夫婦と言って差し支えなさそうなものだが、本人たちが否定するので黙っていてやろう、と袖で口もを隠しながら、紅葉はため息を付いた。


 少し遅い昼食から帰ってくると、鴎外の元に丁度報告が上がってきていた。樋口からである。そういえば、佐登が発見したと伝えてから、芥川は別件の仕事があり離れていたが樋口が捕縛のために人虎――――虎の異能力者はそうポートマフィアで呼ばれることとなった――――をおびき寄せる手はずとなっていた。
 鴎外が見る前に佐登が内容を精査するのはいつものことなので、鴎外はネクタイを少し緩めながら佐登に書類の束を渡し、執務机の豪奢な椅子に腰を据えた。佐登は渡された書類の文字の羅列を置いながら、はっと息を呑んだ。
「首領」少し、緊張のはらんだ声が聞こえて、鴎外はん? と顔を上げた。

「……太宰という人物をご存知ですか?」

 その名前に、鴎外はおやおや、と柔らかく、しかし、どこか冷えた瞳で微笑んだ。




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