彼の築き上げた血と屍の山、凡ゆる殺戮と策謀の数々を見れば同じマフィアであったとしても震え上がるほどであると言われた程の、歴代最年少幹部。年齢は中原と同じ頃。――――実際に中原とは相棒だったらしい。と或る組織を一夜で建物ごと壊滅させた事件以降、二人は揃って、双黒と呼ばれるようになったらしい。佐登からすれば、震え上がるどころか、もう言葉もないほどだ。鴎外ですら血も涙もない、と思うことがあるのに、彼は、その何十倍も恐ろしい人物に思えた。何が恐ろしいかと言えば、彼の頭の中が見えないことが恐ろしい、彼の頭脳はおそらく、人よりもずっと遠くを見据えているに違いない、と確信した。
それほど、鴎外とポートマフィアに貢献してきた彼は丁度佐登が入社する一年前にポートマフィアから抜けている。ポートマフィアを抜けることは不可能ではないが容易ではない。彼の痕跡は以降ほとんど確認されていないところを見ると、矢張り彼は有り得ない程に頭が切れる人物だったのだ。彼を殺したがっている人物は今、ポートマフィアに如何ほどいるのだろう。佐登がそんなことを考えてしまうくらいには、彼は、あっさりと、何の未練もないかのようにポートマフィアを抜けている。芥川は――――彼に拾われて、このポートマフィアにやってきたようだった。
では。
では、何故、太宰という人物は此れほどまでに貢献してきたポートマフィアという組織を抜けたのだろう。佐登は更に詳しい情報を集めることにした。こういったとき、自らの身分は非常に役に立つ。秘書という肩書上、ポートマフィアの凡ゆる情報に入り込むことができ、閲覧することが出来る。当然、鴎外自身にとって都合の悪いものもあるだろうが、彼は今回「自分で調べてみなさい」と言ったのだから、佐登に太宰に関する顛末を見せることにしたのだろう。今まで、佐登が敢えて自分から触れてこなかったことだ。隠しているわけではない、と示しているのかもしれない。
かたかた、と打ち付けていたキーボードの手が止まった。――――織田、作之助。
今、佐登が知らない構成員に鴎外が彼に一度だけ、直接会っているという記録を見つけた。階級の表示を見てみれば、幹部派閥の表示もない。どういうことだろうか。鴎外が呼び出すほどの人物なのに、と思い、彼のプロフィールを漁ってみた。彼は、既に死亡していた。
「……”天衣無縫”。自身の危機に対して、数秒先の未来を予知する」
――――それが、彼の異能力だった。これ以上、見てはならないような気がした。自分の中にある、鴎外への思慕や敬愛の気持ちに薄れが生じるような気分にさせられたからだ。だが、佐登は見るのをやめなかった。知って置かなければならない、と思ったのだ。
(国外の傭兵組織、ミミックとの抗争。彼は、その折に敵組織のトップと戦闘している)
ミミックという組織はこれでもか、というぐらいに恐ろしい組織だったようだ。嘗ての拠点がいくつか亡くなっている。此れについては佐登自身も資料を読み込んでいる。嘗ての拠点、今の拠点、新しい拠点の照合と分析は鴎外のもとに入ってから何度も仕事としてやっている。嘗ての拠点がこのような形で亡くなったのだろう。そして、異能特務課の介入、――――異能開業許可証の発行のために、鴎外はミミックを滅ぼしたのだ。
(……敵組織との対決の折に織田作之助という人物は死亡している)
ならば、彼はミミックの頭であったアンドレ・ジイドという人物と一騎打ちをし、そして相打ちになったのだ。ミミックという組織が破れたからこそ、鴎外の手に、異能開業許可証が発行されているのだから。
嗚呼、忘れていた。異能開業許可証とは、政府から異能者を集めた会社として認可されたという証拠であり、此れがなくてはこの日本で、大手を振って異能力者を集めた会社は機能してはならないことになっている。幾らポートマフィアが当時から強大な組織で、横浜の裏社会を牛耳っていたとしても、異能特務課からの弾圧を防ぐためには此れが必要だっただろう。鴎外の、戦略が、少しだけ理解できた。
織田作之助という人物の備考欄に、最後に一文付け足されていた。――――幹部の太宰とは個人的な交友が存在していた、と。
(嗚呼、そうか。あの人は未来予測の異能力者を遣い、捨てたのだ。一介の最下級構成員、異能力が幾ら特異なものであったとしても、必要ならば、と切り捨てた。そして、それが、彼の友人であった、幹部の太宰の反感を買ったのだろう)
佐登はそっと、パソコンを閉じた。見なかったことにはできないだろう、秘書室にあるパソコンから情報へ入れば、記録が残ることになっている。そして、鴎外はこの記録を佐登が確認したのか、見るに違いない。
『自分で調べてみるといいよ、太宰くんについては私から説明すると主観が入りそうだからね』
――――鴎外は鴎外の目的のために、ポートマフィアという組織の長として、最もポートマフィアの為となる理論最適解を選択した。そのことに後悔もなければ、恥じるところなど、一つもないのだろう。それでも彼が佐登に主観が入るから、と自分で調べさせたのは、少しながらでも、太宰という人物に引け目があるからなのかもしれない。
(太宰、という人物は、鴎外さんが首領になる以前から、共に居た少年。そして、先代の首領が病で亡くなった際に、遺言を共に聞いた人物)
情報の整理がしたい、と佐登は立ち上がって珈琲を淹れようと思った。最近では、なにか考え事をしようと思えば、珈琲を淹れるようになっていた。気づけば、豆から挽いている。独特のいい香りが秘書室に立ち込める。簡単なペーパードリップだが、なかなか良いものだ。鴎外は紅茶党なので、あまり珈琲は飲まないが。入れながら、少しだけスッキリとした思考で考えてみる。
(広津さん、あたりならこの事件のことを知らないだろうか)
かなりの古株である広津のことが頭に浮かんだ。彼なら、この当時もポートマフィアに居たはずだった。牛乳を入れ、砂糖を一匙入れた珈琲を一口だけ啜って、マグカップを執務机の上に投げ出した。そして、秘書室から出て、最上階に待機している昇降機へと飛び乗った。
「――――太宰君?」
丁度まだ本部に居た広津を佐登が捕まえられたのはほとんど偶然――――ではなく、佐登は無意識的に異能力を使った。広津が何処にいるのか、予測したのである。彼は黒蜥蜴の待機所となっている階層で煙草をくゆらせていた。黒蜥蜴の、広津の部下たちは佐登の登場に一瞬戦いてみせたが、佐登の何処か、思いつめたかのような表情に察しを得た広津が下がらせたので、今は部屋に二人きりしか居なかった。
「元幹部の太宰君のことかね?」
「はい。宜しければ、少し聞かせていただきたく」
「――――私から語らずとも、彼の人物像は調べ上げたのではないのかね?」広津は佐登に対面のソファに座るように促した。何か飲むか、と聞いてくる広津に首を振る。彼はこの数十分後にはこの本部を出発して、ポートマフィアの積荷を横流しする組織の拠点を潰しに行く予定だと佐登は記憶していた。広津は、煙草をもみ消した。佐登は嫌煙家で、煙草の煙の類を嫌っているのを知っていたので、消したのだ。
「首領には」
「聞きましたが――――主観が入るから、自分で調べなさい、と」
「成程」広津は少し納得したらしい。
佐登がそこに行き着いた理由も概ね把握しているのだろう。人虎をおびき寄せ、捕まえるという作戦は失敗に終わった。その理由が太宰にあるということは、広津も聞き及んでいるらしい。最も、太宰だけが原因ではなく、人虎そのものの異能力の強さにも原因があるだろうということは佐登も報告書を読んで把握している。
「太宰君はおそらく最もマフィアに相応しい男だっただろうな。――――見たかね? 彼の作り出した血のリストを」
「拝見いたしました」
思い出して、佐登は僅かに視線をそらす。
「首領は太宰君が抜けて以降も、その幹部の座は空席にしておられる」
「それで、私が入った時に五大幹部全員には会えなかったのですね」
佐登は口元にそっと指を押し当てて、考える。どうしても連絡が取れなかった一人、は太宰だったのだ。欠番のようなものにされていて、空白のようで空白ではない場所。もう、この組織を抜けている人物には会おうと思って会えるものでもないだろう。
「その。」佐登は少しだけ、言葉を濁した。「織田作之助は、人殺しをしないマフィアだと目にしました」
突然の佐登の切り口に、広津は目を見開いた。最下級構成員の織田作之助といえば、知らない人物は少なかっただろう。太宰の、数少ない友人である。
「なのに、どうしてミミックの長と戦ったのですか」
「…………彼は当時、孤児たちを養っていた。その孤児たちはミミックに殺されたと聞いている」
「――――ミミック、に」
痛烈な、違和感を覚えた。確かに殺したのはミミックの兵士なのかもしれないが、だが。嫌な気配だ。避けろ、見るな、と何かが警鐘を鳴らしているような気がした。
「だが、孤児たちは太宰君が用意したポートマフィアの隠れ家に居たらしい」
「……情報を、ミミックに漏らしたものがいる」
「幹部級が用意した隠れ家の場所を知れるものなど限られているがな」
敢えて二人ともそれについては言及しなかった。言うまでもないことだと、わかりきっていたことだからかもしれない。佐登も、おそらくはと思っていたことだ。使い捨てた、と結論をつけた時点で、鴎外が織田作之助に何らかの形で戦闘に参加してもらうよう計らったのはわかることだ。佐登は長い、長いため息を吐き出した。
「……それで、私を」
そのつぶやきはもはや無意識だった。小さくて、広津は一瞬聞き間違えたかとも思ったが、佐登の瞳は哀惜に揺れていた。
「それで、私を見つけたのですね、首領は」
だが、その瞳には哀惜と同じくらい悲しい決意が込められているように広津には見えた。その表情は一変して、いつもどおりの柔らかな微笑へと変わると、佐登は立ち上がり、広津へ深々と礼をした。
「有難うございました、広津さん。お手間を取らせてしまいましたね」――――彼女は、非常にわかりやすいように見えて、分かりづらい人物だと広津は評価している。首領に対する態度は非常にわかりやすいし、日頃も人と接する時に裏はない。警戒するような何かは持ち合わせていないが、自分の、仄暗い感情を隠すことは得意なようだと、察した。
「否、昔話は退屈ではなかったかね」
「とても善い勉強になりました」
――――太宰という人物は、おそらく過去を洗浄し、全てを真っ白にした状態で武装探偵社に入ったのだ。何を考え、何を思い、何を織田作之助から伝えられたのか佐登にはわからない。だが、彼は明確に、今、ポートマフィアの敵側にいる人間なのだろう。
佐登は再び、最上階へと向かう昇降機の中に居た。織田作之助もおそらくはこの昇降機に乗って、最上階の首領の部屋に向かったはずだ。彼から直接仕事を頼まれたとき、彼は何を思ったのだろう。何を考えたのだろう。ミミックの長と戦い、死にゆく中で、彼は、何を思ったのだろう。
(……判っていたことなのに)
佐登は頭を、壁に預けて、ずるずるとしゃがみこんでいった。判っていたことを、改めて現実として突きつけられたと言ったところだ。織田作之助は異能力と、戦闘技能があったから戦場へ。だが、佐登はどうだろう。佐登は、異能力しかない。そして、この異能力をつかい続けた末路は決まっている。酷使を続ければ、きっと、佐登は佐登という人格を失うのだろう。
堅く、堅く目を閉じた。深い、闇の中に、鴎外が見えた。
(貴方は、何を考えて、そこに立っているのだろう)
誰もいない、深い闇の中で一人。組織の奴隷となり、横浜の平和の奴隷となり、ただ、ひたすらに凡ゆる人たちから非道と罵られてもなお、非情に、冷徹に、冷静に、最適解を選び続けるあの人は、今、何を思って、佐登にこの過去を調べるようにと言ったのだろう。――――酷く、悲しい気持ちになった。
佐登は鴎外の理解者には成り得ないだろう。そして、鴎外もそれを望んでいないことを知っていた。
(私は、本当に――――無力、だなぁ)
愛する人に、寄り添ってもあげられない。ただ、本当に隣に立っているだけの、弱い人間だ。
最上階に戻ると鴎外が予定通り仕事をこなしていた。
「おや、おかえり。広津さんには会えたかい?」
――――矢っ張り、予想していたのだろう。佐登はそう考えながら、はい、と応える。隠す必要はない。自分が調べることを鴎外は判っていたし、最終的に古株で、話しかけやすい広津へ向かうことは火を見るよりも明らかだった。
「一つだけ、お伺いしても?」
「いいよ」
言ってご覧、と鴎外は書類を置いて佐登を見た。桑の実色の瞳が佐登を捉えた。
「貴方は必要なら、私を、――――」佐登の言葉が不自然に途切れた。暫く、じっと鴎外を見つめていた、佐登が僅かに唇を噛み締めた。
「私を、彼のように遣ってくださるのでしょうか」
その声は、あまりにも悲壮で、鴎外は目を見開いた。そして、その桑の実色の瞳を細める。自宅にいるときの、少しだらしのない鴎外さん、ではなくて。ポートマフィアの首魁、組織の奴隷としての表情で、笑ってみせた。
「勿論だとも」
その声に佐登は少しだけ安堵した。自分は、まだ、森鴎外に必要とされているのだと。
「有難うございます」
「どうして? ――――見たんだろう?」
少しだけ、鴎外の声が震えている気がした。佐登は柔らかく微笑んで、鴎外を見た。鴎外が何処か、頼りのない子供のように見えた。だからといって、抱きしめてあげることなんて、今の佐登にはできないのだけれど。
「だって」佐登が、困った子供でも見るかのような笑顔を浮かべた。
「私は、”貴方の”、秘書ですから」