「……」鴎外が箸を手に持ったまま、携帯を睨みつけている。佐登が苦笑しながら、それを嗜める。「電話は出ましょうね」
鴎外はため息を付きながら、箸を置いて、渋々携帯電話を手にとった。エリスは鴎外にお構いなしに朝食を食べ進めているものの、佐登は箸を止めて、鴎外を見ている。人虎のことも最近では大きな案件と言えるだろうが、ポートマフィアが抱えている案件はそれだけではないのだ。佐登が記憶している限りで、表の商談で大きいものが二件、裏の案件が人虎を含めて、五件ほどだろうか。鴎外は電話の話を聞きながら、的確に指示を出していく。もし、必要なら資料を出してこようか、と腰を上げかけたところで鴎外が手で制した。要らない、ということだろう。佐登は苦笑しながら、浮かせかけた腰を椅子へと戻す。
「――――では、任せたよ」
そう言って、鴎外は携帯を切る。食卓の上に置くと、箸を再び手にとった。冷める前に終わってよかったですね、と佐登が言えば、全くだよ、と鴎外が味噌汁椀を手にとって、味噌汁を一口。今日はわかめと豆腐の味噌汁である。
「うん、今日も美味しいよ」
「善かったです」
此処では仕事の話はしない、という鴎外が決めた規定に則って、佐登は敢えて電話のことは聞かなかった。どうせ、本部に行ったらその話を聞くことになるのだから、わざわざ詳しく聞こうとしなくてもいいだろう。甘い卵焼きに鴎外もエリスもご満悦のようで、佐登は安心する。実は、佐登一人分だけ甘い卵焼きではなく、だし巻きなのだが、これは単純に好みの問題だ。佐登は甘い卵焼きよりも、だし巻きが好きなだけのこと。残った分はこっそりと冷蔵庫に入っている。
「今日は夜、帰ってこれないかもしれないねぇ」
「嗚呼、会食が入っておりますから。今日の会食は私も同行の予定ですが、――――」佐登の言葉が途切れたのは、鴎外の視線が突き刺さってきたからだ。仕事の話はしない、という規定である。ちなみに、あまりにも破るようなら罰遊戯があるからね、と言われているので、佐登は口をつぐんだ。
「後で、口付け一回ね」
「やめたのに!?」
「そのまま、仕事の話し続けようとしたからね」
咎めるような視線に佐登は目をそらした。確かに、この家で仕事の話はできうる限りしないと約束した、否、箚せられた。
「唇に、とは言わないからね」
とてもすがすがしい笑顔だ。エリスがリンタロウ、キモい、とつぶやいているのが聞こえる。ぱくり、とフォークに刺した卵焼きは一口でエリスの口の中に消えていった。佐登はあわあわと顔を赤くして動揺しているのを見て、鴎外は確実に楽しんでいるわけだが、佐登としては勘弁してほしいところだ。おっと、と鴎外が時計を見て、苦笑した。
「早く食べないと、遅刻してしまうね」
「……あの、口付けって」
「いつでもいいよ、嗚呼、でも、今日中にね。ペナルティが増えると暮も困るだろう?」
本当に清々しい笑顔だことで。
執務室に着けば完全に首領の顔になるものだ。鴎外に引きずられるようにして、佐登も秘書の顔に変わる。慣れてくれば使い分けなんて大したことじゃない、と以前佐登に話していた鴎外のことを思い出す。ふむ、確かにそのとおりだと思う。見られる目、とも言うのだろう。
「広津さんより、報告が上がってきております。昨夜、以前より我々の積荷を横流ししていた組織を壊滅した、と」
「そうか、お疲れ様だね。その報告書は暮の方で処理してくれるかな?」
「承知いたしました」
鴎外から報告書を戻され、佐登はにこりと笑う。会食までの間は書類整理が鴎外の主な仕事になるので、佐登も本部にいることになる。報告書を受け取った時に、もう一度、にっこりと笑って念押しをする。
「予定通りに、進めてくださいね」
「わかってるとも」
鴎外が苦笑した。
普段もこれくらい仕事の進みが早ければいいのになぁ、と思いながら佐登は鴎外に紅茶を淹れて持ってきた。鴎外の前に出すと、彼は柔和に微笑んで見せる。そういえば、と佐登は思い出して首領、と鴎外を読んだ。「うん?」と鴎外が顔を上げる。
「勉強不足で申し訳ないのですが、」佐登が困ったように眉を下げる。「武装探偵社、というのはどのような組織なのでしょうか」
「嗚呼、最近名前をよく聞くからねぇ」
鴎外は怒ることも、嗜めることもしなかった。紅茶には綾織の模様がついた砂糖が浮いていた。おや、と物珍しそうに見ていた鴎外が顔を上げた。
「軍や警察に頼れないような危険な依頼を専門にする探偵集団で、昼と夜のあわいを取り仕切る薄暮の武装集団だよ」
「……探偵、なのですよね」
「勿論、探偵だとも。彼らがする仕事は普通の探偵がするような、猫探しとか、不貞調査ではないけれどねぇ」
紅茶を匙で混ぜると、綾織の砂糖はすっかりと溶けて消えてしまう。とても残念だが、この砂糖はこうやって度々鴎外の目を楽しませる事になるのだろう。佐登はこういう物を見つけてくるのが得意だ。視覚で十分に楽しませてもらったので、鴎外はカップを持ち上げて、紅茶を一口。
「軍や警察に頼れない、という時点で察するだろう?」
「確かに」佐登が頷いた。彼らの仕事は本当に危険なものや、警察には頼りづらい依頼が多いのだろう。特に異能力者絡みともなれば、武装探偵社に仕事が回ることも少なくはないと聞く。ポートマフィアが関連した仕事で、探偵社とかちあい、戦闘になったという報告書も佐登は目にしたことがあった。「噂では、」と佐登が続ける。
「調査員は全員、異能力者だと聞きました」
「うん、そのようだねぇ。まあ、あちらも異能開業許可証を持っているから、大半は異能力者だ」
――――異能開業許可証、という言葉に佐登は思わず身構えてしまった。実はそれは、鴎外自身が管理しているのではない。秘書室の最重要機密保管庫の中に入っている。開けるためには鴎外か佐登の生体認証と、十六桁の解錠番号が必要となっている。佐登でも滅多なことがなければ開けることのない、特殊な真っ黒な金庫の中に入っている。太宰の話をした時に、鴎外に連れられ、その金庫を開けて、取り出された黒地に、金の箔押しがされている封筒を見た瞬間に、一気に緊張が高まった気がした。それに、それを手に入れた経緯も、知ってしまった以上、此れまで通りとは行かないだろう。そんな、佐登の緊張を察したのか、鴎外が苦笑する。
「まあ、組織としては数十人程度の小規模なものだよ。まあ、社員一人ひとりの質を上げるなら、あちらのほうがいいのかもねぇ。それに、――――」
鴎外が何を想像したのか、佐登にはわかった。おそらくは、太宰という人物のことである。写真を見た。最新の写真である。黒い蓬髪、赤く見える瞳、小気味の良い笑顔――――一寸間違えると、鴎外とよく似ている、などと思ってしまう。嘗ては顔の半分も包帯で覆い隠していたという。黒い外套がよく似合うだろう、と佐登はその写真を見て思ったものだ。
「社長も凄腕なのだよ」
「――――首領よりも真面目に仕事をなさる方なのでしょうねぇ」
佐登は皮肉でも何でも無く、そういった。単純に福沢諭吉、と書かれた資料から読み取った単純な感想であったのだが、鴎外が見るからに面白くなさそうに眉を真ん中に寄せて、胡乱な目で佐登を見上げていた。
「どういう、意味かな?」あからさまな不機嫌な声だ。「私だって仕事してるじゃないか」
むう、と頬をふくらませる姿は、決して四十になる男のそれとは思えないくらいには可愛らしい。ん、と一瞬咳払いした佐登は大人気なくむくれたままの鴎外をちらりと見る。最近、こういうことが多くなったなぁ、と思うのだ。鴎外の前で、鴎外以外の男性と親しくしたり、褒めたりすると少なからず面白くなさそうな顔をする。前者はあまりないが、後者はあからさまだ。その時の扱いに困ってしまうのだが、ご機嫌を此処で取っておかないと、仕事に差し支えが出てしまうこともあるのだ。拗ねてしまう、というとわかりやすいだろうか。
「勿論、首領も日頃から頑張っておられますとも」
「本当にそう思ってる?」胡乱な瞳だ。信頼されていない。
「ええ、ええ。勿論です! 首領は常に完璧にお仕事をこなされているじゃないですか、私はそういう首領を心から敬愛していますよ!」
佐登はニコニコと笑う。少し大仰すぎるから、鴎外には演技だとバレているだろうが、敬愛しているという一念において全くの嘘はない。嘘ではない。敬愛している。心から。――――仕事が完璧だ、という点については敢えて発言は差し控えるが、最終的なところを見れば、全て綺麗に仕上がり、一切の無駄がないのだからいいのだ。その途中でエリスと戯れていたとか、ちょっと拗ねて進まないことがあった、とかそんなことは些事である。ということにしておきたい。
暫く、胡乱な目で佐登を見上げていた鴎外だが、少しずつ表情が緩んできている。もう一押かな、と佐登が思ったところで、鴎外の内線電話が鳴り響いている。此処で電話を受けるのは、佐登がいれば佐登の仕事であるため、拗ねる鴎外の相手は一時中断、と言わんばかりに、佐登は電話を手にとった。「はい、こちら首領執務室です――――」
「え?」佐登は電話口の相手のひどく落胆し、憔悴した声に目を見開いた。相手は樋口である。鴎外が少し、きょとんとした顔をして、佐登を見ている。佐登は少しだけ通話口を手で抑えて、鴎外に向かって話しかける。
「黒蜥蜴による、武装探偵社襲撃は失敗したそうです」
「ほう?」
鴎外がそういいながら、椅子へ深く腰を沈めた。幾ら、特殊部隊並みの戦闘力を持っているとは言え、武装探偵社相手ではあまり効果がなかったか、という感想のこもっている一言であった。佐登は樋口からあらましを確認すると、それでは、と一言区切り、電話を切る。
「人虎捕獲は思ったよりも時間がかかっているねぇ」
鴎外は先程までの拗ねていた顔を一変させて、薄ら笑いながらそういった。どこか楽しそうな彼に、佐登は困ったような視線を向けてみる。闇市での七十億は大きい。この横浜を牛耳って余りある報酬はポートマフィアにとっては惜しいだろう。資金はあるに越したことはない。
「人虎が探偵社にいるのも大きいでしょうか。矢張り、一筋縄では行かない組織なのでしょうね」
「勿論だとも。簡単な組織なら、ポートマフィアがあっさりと潰しているとも」
鴎外の声は矢っ張り楽しそうだ。探偵社にはただならぬ思い入れでもあるのだろうか、と考えてしまうくらいには。自組織の不利になっている、とは思えない様子だ。どこか、鼻歌でも聞こえてきそうな様子に僅かに首を傾げしまいそうになる。
「この後はどうなるかな。暮なら、どうする?」
「え、ええ?」――――突然と戦略の話をされても、専門外である。戦いとか恐ろしいもののことはいまいちよくわからない。探偵社を襲撃して失敗したのならば、矢張り、「奇襲、でしょうか」
どう答えていいか分からず、佐登がそう言えば、鴎外は鷹揚に頷いてみせた。どうやら、正解だったようだ。佐登は安堵したようにため息をつく。本人への奇襲、おそらくそれが最適解だ、と鴎外がつぶやいているのが聞こえる。
「勿論、芥川くんだってそれくらいは考えているだろうね」
鴎外は一枚の書類を持ち上げて、微笑んだ。おそらく、此れを佐登に見せたら、良心にあふれる佐登は抵抗感を示すのだろうな、と思う。彼女の愛らしい外見とは裏腹に、――――泉鏡花、という人間は生来からの暗殺者である。その彼女を遣って、芥川がどのように人虎を捕まえるのか、鴎外は少し期待しながらも、その書類に決済印を押して、書類受けの中へと戻していく。