その瞳に映る

 その日は久しぶりに本部で宿泊した。秘書室の扉は堅く閉じられていて、基本的に開くことはなく、最上階は物静かだった。眠りを妨げるようなものは何処にも存在していないはずなのに、なにかに誘われるかのように佐登は目を開けた。起きて、暫し彼女は活動できない。ぼんやりとした意識を彷徨いながら、夢なのか、それとも現実なのかと判断するのに時間を要している。それから漸く自分が起きたのだと自覚すると、佐登は眼鏡を探り当てて、かける。視界が明瞭となり、スマートフォンを手に取ると時刻を確認する。深夜二時。何時もならばもう少し眠っている時間だと言うのに、どうして起きてしまったのかわからない。佐登は近くにあったカーディガンを肩にかける。眠るには少しばかり意識が覚醒してしまっているような、でも、なんだか、夢うつつのような。仮眠室で愛用しているスリッパでぱたぱたと冷蔵庫まで近づいて、水を取り出そうとしたところで、ふと、外から物音が聞こえてきた。
 数人が移動する音だ。佐登は物音を立てないように、そっと扉の方まで近づいていく。秘書室の向こう側は廊下だ。護衛がいるので、移動すること自体は決して珍しいわけではない。普段、熟睡する佐登がなかなか気付かないと言うだけのことだった。
 潜められた声が、佐登の耳に届いた。「――――太宰さんが捕まったんだって?」
 その声にはっと、息を呑んでしまう。つい、物音を出してしまいそうになるがこの時間、佐登という自分は眠っている時間なので決して物音を立ててはいけない。否、起きていると知られても問題ないのだが、どことなく佐登は緊張をにじませながら、口を手で抑えた。
「本当か。誰が捕まえたんだ」
「ほら、最近名前を聞くようになっただろう、三十五人殺しだよ」
 ――――三十五人殺し。佐登はそれが誰だか知っている。泉鏡花のことである。彼女はポートマフィアで急速に戦果を上げている暗殺者だ。仕事として、彼女は暗殺をしている。佐登自身が関わるわけではないが、書類だけならばいくらでも目にする。最終的に報告書は鴎外の元へ行く前に、佐登が目を通すのだから。
「太宰さんはどうなるんだ?」
「さぁな。最終的には首領がお決めになるだろうが……――――死刑じゃないか?」
 裏切り者の末路とはそういうものだ、と佐登は判っていても身に寒々とした何かが走っていった。それが薄着の侭暖かな寝台から出たことが理由なのか、死刑ということを聞いた寒気なのか、よく判別もつかず、佐登は慌てて寝台に戻るために身を翻した。
(……太宰、さんとはどういう人なのだろう)
 マフィアの闇に相応しいとまで言われた人。首領が佐登に語ることを拒んだ人。写真の中に居た、どこか読めない笑顔を浮かべる砂色の外套の男を思い浮かべながら佐登は頭を枕に沈めて目を閉じた。――――なんだか、眠れそうにはなかった。



* * *




「顔色が悪いね、昨日は眠れなかったかい?」
 ――――鴎外に声をかけられて、佐登は顔を上げた。先程から切り分けたウィンナーをフォークでつき回しているばかりで酷くぼうとしているように見えたらしい。確かにあの後から、目は閉じたものの眠れずに結局朝を迎えてしまったのだ。何時もよりも眠っていなくて、調子が悪いことは否めなかった。
「一寸、眠れなくて」
 佐登は素直に伝えた。何が、とは言わないが。鴎外は少し心配そうな表情を浮かべた。彼は既にベストに襯衣というほぼ仕事着の状態であり、今日は午前中から会合がある。午前中だが少しきな臭い企業との会合で、佐登は同行しない予定だった。なので、佐登も仕事着ではあるものの、佐登自身は午前休となっていた。まあ、午前休とはいったものの、実際は首領の執務室のそうじをしたり、と結局は動いているのかもしれないが。
「折角の午前休、ゆっくりとしたらどうだい? 何時も書類の整理とかしてくれてるみたいだけど、私が帰ってくるまで寝ててもいいよ?」
「……そうしても、宜しいですか?」
「勿論だとも。――――私は医者だからね、どうにもその青白い顔は見逃せないよ」
 鴎外にそう言われ、佐登は素直に頷いた。一寸寝不足なだけだが、激務が重なっていれば、一気に体調を崩してしまうだろうし、休める時に休ませてもらおう。佐登はそう考えて、漸く切り分けて以降、皿で転がされていたウィンナーを口に運んだ。

 朝食が終わり、鴎外が会合に出発するのを出入り口で見送った。鴎外に会合相手の確認と、時間の予定を再度確認してからの見送りに彼が苦笑していた。――――休みなさい、と再度念押しされて、額に口付けられた。あまりに唐突のことで、一人で百面相して動揺している間に、鴎外はさっさと外套を翻して車に乗り込んでしまう。
 鴎外がいなくなってからも暫く呆然と、否、百面相をしていると、後ろから肩を叩かれた。
「佐登秘書官、お戻りになって休まれては?」
 声をかけてくれたのは背の高い落ち着いた雰囲気のある女性だった。――――彼女の名前は広津桃子。名前から察するに広津の姪であり、歳は二十を少し越えたくらいだ。ちょうど半年くらい前から、佐登の護衛としてほぼ専属で入っている黒蜥蜴の構成員の一人である。桃ちゃん、と佐登がゆるゆると表情を戻しながら、その名前を呼ぶ。
「首領から、体調が善くないと聞いてますし。良ければ、なにか温かいものでも」――――彼女は護衛だが、名目としては首領専任秘書官補佐として、秘書室に出向している。なので、所属としては佐登の部下の扱いだ。初めて、彼女と引き合わされて、新しい秘書だよと紹介された時は、自分はついにお払い箱となったのかと動揺してしまったもので、鴎外に必死に弁明を受けた。
 佐登は桃子の申し出に首を振った。
「あの、桃子さん」
「はい」
「太宰さんが囚われている地下牢が何処か、わかりますか?」
 佐登が少し潜めた声でそれを聞けば、桃子は動揺して、視線を彷徨わせた。朝、首領が朝食の場で仕事の話をしたがらない、ということを除いても、元幹部で裏切り者の太宰が捕縛されたという情報を佐登に伏せていたのは、佐登にそのことを知られたくないと思ったからだろう。本当なら、もっとそれについて賑わっていてもおかしくないというのに、佐登と桃子がいるエントランスはいつもどおりの喧騒で、太宰の名前は一つも聞こえてこなかった。桃子が視線を彷徨わせたのは、おそらく、鴎外からできうる限り言わないようにと言われているのだろう。
「……佐登秘書官、あの」
「お会いしてみたいのですが、首領に怒られるでしょうか」
 佐登が困ったように笑う。おそらく、これを逃せば、佐登は太宰に会う機会を失うだろう。もしも、太宰が死刑にされるのであれば、これが最後だ。もしくは、太宰が逃げおおせるのか。どちらにせよ、この機会を逃すことはできないだろう。寝不足の原因を排除して置かなければ、今、休もうとしたところで、佐登は眠りにつくことなんて到底できそうにないのだから。
 じと、佐登に見つめられて桃子はふぅ、とため息を付いた。それからしばらくして、わかりました、と短く答えた。
「ただし、首領にはご内密に」
「はい、勿論です」
 にこりと、笑った桃子に連れられて、佐登は初めて本部の地下に足を運ぶことになる。近代的な作りとは違う、石造りのヒヤリとした空気の通る空間に佐登は寒気を感じた。思わず、自分の体を抱くようにして、両腕をさすってみるが寒さは一向に軽減されない。薄暗い空間を抜けていくと、一つの階段が見える。こちらです、と桃子に案内され階段を降りてみると、そこは広い空間が広がっている。柱と思しき場所に、捕らえられているのは砂色の外套、黒い蓬髪の男であった。
「おや?」
 ――――見たこともない人物に、太宰は驚いたように目を見開いた。佐登が一方的に調べただけの相手であるため、佐登は少しばかり困ったような顔を浮かべて、少し高い位置で捕らえられている太宰を見上げてみた。
「はじめまして、太宰元幹部。私は、総務部秘書課上級秘書室、首領専任秘書官をしています、佐登と申します」
「首領専任秘書?」太宰が顔をしかめてみせた。彼の記憶が正しければ、鴎外は大体の仕事を一人でこなしていたものだ。わざわざ秘書をつける必要性がない、と情報漏えいを防ぐためにも、秘書は、太宰が抜ける前まで一人も居たことがない。「あの、森さんが秘書?」
 太宰の胡乱な瞳を受けて、佐登は自分のやや後方、桃子の実力であれば一歩で近づける距離に控えている桃子に少しだけ席を外してほしいことを告げた。桃子はできません、と言ったが、捕まえられている彼には何もできませんよ、と佐登が言えば、暫し悩んだ末に、何かあればすぐにお呼びください、と伝えて階段を登っていった。桃子の気配がなくなったところで、佐登は太宰に振り返る。
「はじめまして、森さんの秘書さん。哀れな虜囚になにか御用で?」
「貴方のことを調べました」佐登がそういうと、太宰の眉がぴくり、と動いた。探るような視線を向けられて、佐登は同じように見つめ返した。彼に言葉遊びを使って、逸らしたところで、はぐらかされるだけのことだ。それに、佐登にはそれほど巧みな話術はない。
「私も、未来予測の異能を持っています」
 太宰の目が大きく見開かれた。喉が乾いているのかもしれない、かすれた声で「なに……?」と短いつぶやきが聞こえた。
「だから、貴方にお会いしたいと思いました。太宰元幹部、何故、貴方はここに? 貴方なら、その鎖を外すことだって不可能ではないはずです。おそらく、捕まったのも態となのでは?」
 ――――貴方はポートマフィアの凡ゆる追跡を逃れ、生き延びた人なのだから、と言外に込めて太宰を見上げた。太宰は暫し沈黙していたが、次第に乾いたように笑いだした。
「佐登さん、だっけ? 若しも、貴方が本当に未来予測の異能を持っているのなら、悪いことは言わない、此処から早く抜けることだ」
 佐登の質問に太宰は答えなかった。その赤い瞳が、少しの憂いと哀惜を込めて佐登を見下ろす。
「森さんは恐ろしい人だよ、きっと君を遣う。調べたと言うなら、織田作の末路を、森さんが何をしたのか、貴方はもう知っているんだろう?」
「ならば、この回答も予測がついているのでは? ――――知ったとしても、私があの人にお仕えする気持ちはわからない、と」
 藍色の瞳が太宰を写し込んで見上げている。予想通りの回答に、太宰はまあね、と言った。
「貴方は見るからにポートマフィアには向いてない。なのに、貴方はそこにいる。変わった人だね」
 いつも言われることだ。佐登は明らかに夜の世界に向いていない。戦うこともできなければ、――――幹部ですら佐登が異能力を持っていること知らない。故に、抗争に巻き込まれ、誘拐され何度も何度も、痛い目にあってなお佐登は太宰の前に、鴎外の秘書として立っている。
「似ていますね、貴方は」
 佐登がふっと笑った。太宰がきょとん、とした顔を浮かべた。
「あの人にとても良く似ています。――――だから、相容れなかったのでしょうね」
 でもきっと、貴方なら、あの人を理解できたのでしょう。
 佐登は静かに一礼をした。そして、くるりと踵を返して、光の差し込む方向へと進んでいく。太宰と話すのはもしかしたらこれが最後かもしれないし、そうではないかもしれない。太宰に引き止められることも、なにか声をかけられることもなく、佐登は階段を登りきって、桃子と合流した。桃子は一応、会話は聞いていなかったようで、なにかされませんでしたか、と頻りに聞いてくる。苦笑しつつ、何もなかったことを告げて、佐登は振り返ることもなく地下から上階へと上がっていく。薄ら寒さを感じない最上階へ戻ってきて、佐登はひとつため息をついた。
「……少し、休もうかな」
 佐登はそう呟くと、桃子には待機をお願いして秘書室へと入っていく。本当なら仕事着から着替えたほうがいいのかもしれないが、ソファに倒れ込んでしまう。なんだか、急激に眠たくなってきた。瞼が鉛のように重たいもののように感じられて、開けていられない。うつら、うつらと意識が遠のいていく。嗚呼、でも、これは眠たさではない。――――天啓が降りてくるときの感覚に似ている。
 逆らわずに、佐登は目を閉じる。意識の奥、黒いドレスの舞姫の手に招かれるままに、佐登は自身を手放した。

 見えたのは――――人虎。そして、鏡花だった。あれは、列車だ。列車の中で、彼らが戦っていて、そして。

「暮!!」
 叫びにも似た呼び声に、佐登は意識を取り戻した。視界が鮮明になって見えたのは、鴎外だった。必死に佐登に呼びかけていたらしい彼の表情は、安堵と不安が入り混じった独特の表情をしている。「首領、」と佐登が弱々しく声を上げれば、鴎外が佐登の手を握りしめて、なにかと問うた。
「きょー、か、ちゃんは?」
 鴎外が目を見開いた。――――先ほど、梶井と鏡花が人虎捕縛のために動いているという話を佐登の代わりに報告を受けた桃子が鴎外に伝えたばかりだ。人虎が探偵社から出たという情報から動き出したものだ。寝ていた佐登には伝わっていないものかと思っていたが。
「鏡花君は探偵社に連れて行かれたらしい」
「え……?」
 佐登がゆっくりと体を起こす。あれほど強いと言われている鏡花が? と佐登は目を見開いて、鴎外を見ている。鴎外が苦笑する。そして、佐登の頭を撫でる。
「なにか、視えたのかな」
「あ、いえ、あの……」
 あまりにも断片的なものだったのは、おそらく佐登の中の情報が足りなかったからだ。鴎外にそれを伝えるのははばかられて、視線をそらす。鴎外もなにか察したのか、それ以上は聞くこと無く、ゆったりと佐登の頭を撫で続ける。ここ最近、佐登の異能力は連続して発動しているようにも思える。脳に大きく負担がかかっている様子はなさそうだが、一度精密検査をさせるべきだろう。
「……あの、首領?」鴎外があまりに深刻そうな顔をするので、佐登は不安になってしまう。異能力は勝手に作動してしまい、佐登の意思には基本的に関係ない。何かの情報を拾った時に、突然作動してしまうそれが脳に負担をかけていることは佐登も判っているが、佐登自身で止めることができないのは、どうしようもない。それが、結果的に鴎外に心配をかけているのだとしたら、あまりにも申し訳無さすぎる。――――いや、この場合の、彼の心配とは、必要な時にこの異能が使えなくなることだろうか。
「否、大丈夫。頭が痛いとかは?」
「ないです。寧ろ、寝れたのですっきりしています」
 体調不良の様子もない。ちゃんと体は休めているらしい。起き上がってソファから足をおろして鴎外と向き合った。床に膝をついている鴎外が、佐登の手を握り込んでいる。――――指先が、冷たい。先程まで眠っていたのだから、少しくらい暖かくてもいいものだが、と懸念しながら、そう、と穏やかな笑みを浮かべた鴎外が、佐登の額に口付けを落とす。そして、にこり、と笑った。
「あ、あ、あの、ぼ、首領っ、」
「却説、調子が良いのなら、いつまでも寝ていられないよ? 早く仕事を終わらせなくてはね」
 百面相をしている佐登の手を引っ張り上げて、鴎外は立ち上がった。それにつられるようにして佐登も立ち上がった。手を確りと掴まれていたため、逆らうことができず、急に立ち上がったせいで足が縺れた。そのまま鴎外の方へ倒れ込んでしまうと、鴎外に抱きすくめられた。
「首領! 仕事は!?」
「一寸だけ〜」
 気楽な声を上げながら、鴎外は表情を暗める。彼女の異能力が発動するのは自分にとって、ポートマフィアにとって善いことであるはずなのに、自分の中に存在する何かが、それを拒絶している。最適解である、これを受け入れられないと、悲鳴を上げている。だが、佐登を抱きしめていると、それが少しずつ、溶けて消えていく。

(その、藍色の瞳には私がどう映っているのだろう)

 ――――きっと、この世で一番醜い男なのだろう。




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