佐登は漸く、一人になった。
(……色々、ありすぎてもう頭が回らない)
お腹がすきすぎているのもあるかもしれないが――――と思ったところで、そういえば、冷蔵庫の中にゼリーが入っていることを思い出した。食べたい。でも、寝台からは一歩も動きたくない、と思っていると、扉が叩敲された。返事を返すのも、非常に億劫だが、この秘書室奥の仮眠室に入れるのは、鴎外しかいない。「は、ぁ、い」なんとか、絞り出した声は、とても情けないものだった。
苦笑した鴎外が扉を開けて、佐登を見ている。流石に疲れ果てているのが判っているのだろう、鴎外は扉を開ける佐登を期待していなかった。佐登の元にエリスと一緒に近づいてくる鴎外の姿は既に部屋着だ。まだまだ昼間とはいえ、休むつもりだったのだろう。
「暮、一緒に寝てもいい?」
「……ちょ、っと待ってください」
佐登はのろのろと起き上がる。鴎外が此処で眠るなら、自分がいつまでもこんな格好をしている訳にはいかない。さっさとシャワーを浴びてこなくては、と髪の毛を解いて、コンタクトレンズを外した。そして、鴎外に先に休んでてください、と言って、シャワー室へ向かっていった。
あっさりと置いていかれた鴎外は呆然とシャワー室へ消えていく佐登を眺めて、愛しいエリスを呼んだ。
「ねぇ、エリスちゃん」
「何よ、リンタロウ」
「……咎められなかったんだけど」
きっと、思考力が正しい状況の佐登だった慌てふためき、鴎外のほしかった反応をしてくれたことだろう。そもそも、此処で三人で眠ると狭いとか考えなかったのだろうか。矢張り、佐登はとんでもなく疲れていたのだと、鴎外は考えながらも待っていてください、と言われたので、素直に寝台に腰掛けて待つことにした。
それから、二十分も経たない内に佐登は戻ってきた。だが、本当に今にも眠りそうな顔をしていて足元は覚束ないし、髪の毛もちゃんと拭けていなくて髪の毛からぽたぽたと水滴が滴り落ちていた。着替えだけはなんとか済ませた、という印象だ。鴎外は苦笑しながら、佐登においでと言う。素直に鴎外の元へふらつきながら歩いてきた佐登の手からタオルを受け取って、佐登の髪を丁寧に拭いてやる。それがあまりにも心地いいのか、佐登は少しずつ、うとうとと首を前後に振り始めた。もしかすると、もう寝てるかもしれないな、と鴎外は背中側でドライヤーに手を伸ばしながら思った。一応、ドライヤーまでしてやると、佐登はこてん、と倒れてしまう。嗚呼、限界かな、と苦笑しながら、鴎外は佐登の位置を直してやり、壁側へとやって、自分がその隣へと滑り込んだ。
「お疲れ様、暮」
「ん……」
もぞもぞと鴎外の腕の中に収まって眠る佐登を眺めながら、きっと起きたら大騒ぎだろうなぁ、と思いながら佐登を抱き込んで、鴎外も目を閉じた。
「な、なななな、なんで!? なんで!?」
ごん、と佐登が壁に頭を打ち付けた音がする。嗚呼、矢張りそういう反応かぁ、と鴎外はいつもどおりの佐登の反応に少しだけ安心して、鴎外は破顔した。その顔に佐登は更に顔を赤くして、必死に寝る前の記憶を呼び起こしているのだが、本当に何も覚えてない。何時寝たのか、コンタクトレンズも、化粧もばっちりなくなっている。風呂に入ったのだろうか、とか色々思考してみるが、何も思い出せない。
「ちなみに。コンタクトレンズは自分で外してベッドボードの上、眼鏡もそこ。化粧はお風呂に入って落としてたよ」
「……??」
どうして、首領が知っているんです? という顔をして、佐登は鴎外を見つめている。
「だって、見てたから」
「……え、風呂を覗いたんですか?」佐登が信じられない、と言った顔で鴎外を見ている。今、佐登の中で確実に鴎外への信頼が損なわれた、と鴎外は判断して体を起こす。
「否、そこは見てないけど」
ここは確りと正しておかなくては、と鴎外が少しきつめの口調で言えば、佐登は少しだけホッとしたようにため息をつく。「嗚呼、でも」鴎外がにっこりと笑う。
「髪の毛は私が乾かしてあげたよ」
佐登の声にならない絶叫が響いた後、漸く落ち着いた佐登をなんとかなだめて、鴎外は佐登を夕食誘った。工合が悪くなければ何処かに食べに行こうか、という話もあったのだが、佐登はどうしても着替えて何処かに出かけるという気分にならなかったので、本部で佐登が夕食を作る事になった。鴎外も手伝うと言うので、鴎外には今、うどんを茹でてもらっている。簡単に卵うどんだ。野菜はたっぷりといれて、久しぶりに落ち着いてご飯を食べられるので、佐登は出汁の匂いをかぎながら、癒やされる気分になった。流石に栄養ゼリーだけはよろしくない。
「落ち着く匂いだねぇ」
鴎外がにこにこと笑っている。この笑顔は首領、ではなくて鴎外さんの方だ。本部内ではあるものの、さすがの鴎外も一息入れたいと言ったところだ。佐登はそう目星をつけると、そうですね、と笑顔で答えた。
「お腹空いてきますね!」
「……暮、実は相当おなかすいてるでしょ」
鴎外が苦笑しながら、茹で上がったうどんを笊の上からそれぞれの丼の中へと入れる。さくっと後入れの具材を並べて、佐登が少しとろみの付いている溶き卵をいれて味を整えた出汁を丼へ注ぐ。それを三つ、盆の上に上げて、鴎外が食卓まで運ぶ。エリスは既に食卓で絵を書いて遊んでいたので、佐登たちが台所から戻ってくると顔を上げた。
「いい匂い!」
「今日は簡単ですけど、うどんにしました。明日から、ちゃんと作りますね……」
エリスの画用紙やら、クレヨンやらを佐登は手際よく片付ける。その間に鴎外がそれぞれの場所にうどんを置いてくれたので、佐登も席に着く。「いただきます、」と三人の声が揃うのが珍しいことでなくなって、少しだけ感慨深いのは内緒の話だ。佐登はまず出汁を一口。味見はしたけれども、やっぱりほんのりとした出汁がいい。少しとろみがついているので、飲み口も柔らかだ。
「胃に優しい……」
「うん、生姜の香りがいいねぇ」
ちゅるるとうどんを啜った佐登が表情をなごませている。やっぱり温かいご飯が一番いい。暫くは栄養ゼリーを見たくもないので、買わないだろう。桃子にお使いを頼むこともないだろう。流石に栄養ゼリーばかりだった頃に桃子が心配して色々買ってきてくれたお菓子とかが秘書室に溜まっているので、あれはこっそりと消費しなくては、と佐登は考えた。
「それにしても、とりあえず一段落がついてよかったです」
佐登が丼を置いて、ふうとため息を付いた。それを聞いた鴎外が苦笑しながら、そうだねぇと呟く。一段落がついただけでまだ終わったわけではない。密輸船の損失による、取引の遅れやら中止やらの後始末にまだまだ時間がかかるのだが、それはもうどうしようもないとも言える。改めて武器を仕入れなければならないところから始まるので、完全にその損失が埋まるまでに半年以上、もしかすれば一年ほどかかるだろう。人虎の取引が完了していればその損失も大した額ではないのだが――――人虎は探偵社に回収されている。損失の補填は別のところからしなくてはならなくて、会計方は此れから二週間はまともに休めないのだろうな、と佐登は考えている。
「まあ、まだまだしなくちゃならないことはあるけどねぇ」
「そうですね。嗚呼、そう言えば、芥川さんの件ですが、」
「うん?」
「調べるようにと言われていた、運び屋のカルマ・トランジットのことです」
佐登がそう言うと、鴎外は静かに首領の顔へと戻っていく。続けていいよ、と言われたので、佐登は報告を続ける。本当なら、食卓ではしたくない会話だ。
「矢張り生き残りはいたようです。その残党は今、手勢を集めているようでして……海外の傭兵にも声をかけているのではないかと思われます」
佐登の報告に鴎外はため息を付いた。まあ、予想の着くことではある。ポートマフィアが如何に強力であり、芥川が如何に凶暴であろうとも、弱っていればその隙はいくらでも着くことが出来るだろう。然し、此れも芥川が招いたこと。彼の暴走気味には困ったものだが、それでいて成果は上がっている。却説、どうしたものか、と鴎外が考える仕草を見せる。
「暮なら、どうする?」
「わ、私ですか? って、あれ? これ、つい最近しましたよね?」
「あはは、そうだね」
鴎外の笑いで、その会話は一度中断された。何時までも話していてはうどんが冷めてしまうし、何より伸びてしまうからだろう。佐登はそう思いながら、自分の器に入っている、うどんを啜るのを再開した。
「七十億、残念だったねぇ」
鴎外のつぶやきに、佐登は振り返った。うどんの器はふたりとも空になっていて、佐登は番茶を注ぎ入れると、鴎外の前にそっと置いた。佐登は再び席に着くと、お茶を啜っている鴎外を見る。鴎外は穏やかな笑みを浮かべている。そうですね、と返すタイミングが一拍以上遅れてしまった。
「ねぇ、暮」
佐登ははい、と言って鴎外へ視線を向けた。彼の表情はどことなくあどけなく、然し、艶やかな笑みだった。ちょっといい方を変えるなら、壮絶、とも取れるかもしれない。何を考えているのか、まったく読めない笑みで、鴎外は佐登をきょろりと見た。その瞳に、恐怖も感じるが、言いようのない心臓の高鳴りも感じる自分は、実はおかしい人間なのかもしれない、と佐登は思う。
鴎外はなんてことのないように言った。まるで、夕飯にハンバーグを作ってよ、とか、紅茶を持ってきて、とかそんなノリだったと佐登は思っている。
「武装探偵社に行ってきてくれる?」
「はい……――――はい?」
軽い口ぶりにあっさりと言われてしまえば、つい普通に返事をしてしまう。して、気付いた。今、行けと言われた場所はとんでもない場所だったのではないだろうか。
佐登の困惑とは裏腹に、鴎外は清々しい笑顔を浮かべながら、なにか思案している様子だった。