「嗚呼、良かった。どうやら、無事みたいだね」
鴎外が笑った。佐登はどうやら、彼の外套の上に寝せられていたらしい。先程まで鴎外が着ていた外套を手のひらに感じると慌てて飛び起きた。高そうな外套を下敷きにしてしまった、と慌てていると鴎外の手が、佐登の額付近を撫ぜた。「あまり動いてはいけないよ」と佐登を嗜めるように言うと、鴎外が手袋を履いている手で佐登の額の傷になっている部分を撫ぜた。
少しだけ腫れていて、赤くなっている。血は出ていないようだが、と鴎外は淡々とつぶやいた。
「――――先程の衝撃で怪我をしているようだ。頭を打っているようだけれど、吐き気とかは無いかな」
まるでお医者様みたいだな、と佐登は思いながら、触られた事によりにじり寄るような痛みは感じるものの吐き気などは無いことを告げる。そうか、と鴎外はいうと周囲を見回した。先程までの昏い路地裏の光景はそのままのような気がするのに、先程までとはまるで違う場所に放り出されたような気分にさせられる。佐登は少しだけ不安になって、鴎外の外套を握りしめた。ここは、どこなのか、それを目の前にいる鴎外に問うのも気が引けて、口をつぐんでいると鴎外が少しだけ困ったように笑って佐登を見下ろした。
「どうやら、ここには出口がないらしい」
そういった鴎外はどうやら気を失っていた佐登からあまり離れない程度にではあるが周囲を見回してきたことを佐登に説明した。この奥は迷路のようになっていて出口らしい出口が近くにはなかったのだと話す。
「何度でも、ここに戻ってきてしまってね」と鴎外が苦笑するのをみて「え――――」と佐登が息を呑んだ。こんなことがあり得るのだろうか。徐々に顔面を蒼白にしていく佐登を見下ろす鴎外がすっ……と目を細めた。
「異能力、とは知っているだろうか」
鴎外が静かに言いながら、佐登に手を貸す。佐登は漸く立ち上がり、周囲を見回した。――――異能力、聞き慣れない言葉だが決して遠い言葉ではなかった。噂だ。本当に耳に挟んだ程度の話だが、この世の中には「異能力」と呼ばれる特殊能力を持って生まれた人間がいて、異能力を良いことに使う人もいれば、犯罪などに使うものもいるという話だ。佐登の周囲には異能力者などいなかったから、そんなものただの都市伝説だと思っていた。
そんな超能力みたいな力を持っている人間がこの世の中にいるのか、なんて冗談半分に聞いていた。
「おそらくこれは異能力者が作り出したものだろうね。……永遠に脱出出来ないか、それとも何か法則性があって外に出ることができるのか」
「……異能力、って、何でもありなんですか?」
佐登は路地裏を鴎外と歩きながら説明を受けて、ふと疑問を口にした。すると、鴎外は困ったように笑った。そして、佐登の質問に対して首を横に振る。
「なんでもできる、というわけではないはずだ。必ず、異能力には発動するための条件や制限があるはずだ」
――――少なからず、異能力は万能ではない。と鴎外が口にする。
完璧な人間がこの世に存在しないように、完璧な異能力も存在しないのだという。「まあ――――それに近しい異能力を使う人間は知っているが」そう語りながらも、鴎外は今までの表情は打って変わって、忌々しそうに顔をしかめていう。佐登はその表情を伺い見て、何かしら嫌な思い出でもあるのだろう、と口を噤んだ。誰にでも、聞かれたくない話の一つや二つ、あるだろうから。例えば――――佐登も、自分の幻覚症状については聞かれたくないものだ。
ふ、と視界の端をよぎった光景に佐登は鴎外の外套の端を掴んで、彼の歩む足を止めさせた。嗚呼、ほら、まただ。と佐登はひどく顔を悲しませた。この角を曲がってはいけない。その暗闇の先に向かってはいけない。――――ほら、伝えなくては。誰かの声に促されるように、「あの、」と発した佐登の声は弱々しいものだった。不安と、なにかに圧迫されているような緊張感を同時に感じているのかもしれない。だが、強く鴎外の服を握りしめている。
「その、先には行かないほうがいいです」
「どうしてかな」
間髪入れず鴎外が質問するため、佐登は答えに窮したようだった。大した答えがあるわけではなかったらしいと鴎外が判断しかけたが、さまよっていた佐登の瞳がなにか覚悟を決めたと言わんばかり鴎外を見つめて、続けた。
「あの、笑いませんか」
とりあえず、頷く。
「――――視える、否、見えたんです。その先に、行くと、多分、攻撃、みたいなのが来るって」
ほう、と鴎外は目を見開いた。そして、とても面白そうに目を細めて、先程まで歩こうとしていた方向とは別の方向へ足を進めることにした。佐登が少しだけほっとしたように息を吐き出す。不確かすぎる話で聞いてくれないとでも思ったのだろう。佐登が指差した方向へ進んでみれば、何事もなかった。ただ、変わらない平坦な路地裏の道が続くだけ。
鴎外はちらりと、佐登をみやった。不安そうな表情を浮かべている彼女はまるで気付いていないようだが、時折、深い青色の瞳が黄金へ変わることがある。そう、彼女が不安を訴える時、道を変えろと言う時の少し前。青が揺らめいて黄金に変わるその瞬間を、今、鴎外だけが見ていた。ふと、面白そうに微笑を浮かべ、鴎外は面白いことを考えついた。――――そう、ちょうどいいじゃないか、と。
不安で今にも泣き出しそうな顔をしている佐登に優しく声をかけることにした。
「佐登、君であっていたかな?」
「そうです、……どうして、名前を?」
佐登の疑問はもっともだ。事務職員の中でも末端中の末端である佐登のことを、企業のトップたる鴎外が知っているなんて誰も思わないだろう。その質問に対して、鴎外がなんてことのないように答えた。
「何、総務課でやめた昨年の新人がいない、というのはちょっとしたニュースなのだよ。今年の新人は二週間でやめた記憶があったが、どうかな?」
確かに、ついこの間、後輩になったばかりの男性職員がやめてしまったのだ。どれだけ理由を問うても彼は一言も語らず、ただ顔面を蒼白にして「貴方は何も知らないのですね」というばかりだった。佐登はそれを思い返して少し戸惑ったように頷く。鴎外はそれを見て、更に話を続けた。
「昨年、総務課に入った新人は一人だけ。ともなれば、いくらの私でもその名前を知ることは簡単だと思わないかな?」
「そう、ですね」
佐登は納得したらしい、頷いた。そして、同時にやっぱり総務課の新人は何かに付けてやめることが多いらしい。後輩になる子ができた、と喜んでいたのもつかの間、この職場ではやっていけませんと言われたときには佐登もなぜだろうと思ったくらいだ。それを何度か繰り返している。同僚はいなかったし、自分よりも下がいないのはとても寂しいことだ。ふと、表情を暗めた佐登を見て、鴎外は意外そうな顔をしていた。
「君は本当に気づいていないのか」
「へ?」
「――――成程、そうか、君はその目で逃れてきたのか」
鴎外は一人で納得したように話を続ける。「ならば、納得がいくよ」数歩先を進む鴎外がそういうので、佐登は首を傾げた。逃れてきた、と言われると確かに厄介事とかは昔から逃げる性質にあるが、とは言ってもそんな数週間で仕事が嫌になるほどの何かが総務課で起こっているとは佐登には思えないのだ。と、考えている内容が悟られたのだろう、鴎外が楽しげに声を上げて笑った。その笑顔は、なんだかいたずらを考えている子供のように見えて、三十代の後半も行っている男性には些か不釣り合いなもののように思えた。
「それとも、天然なのかな」
「……あの、社長」
「いや、面白い。確か、君は大学では秘書科を専攻していたようだが?」
「あ、はい」
佐登の言葉を聞いて、ふむ……鴎外が考え込むようにして、顎へ手を当てる。何か、楽しいことでも考えているような表情だ。佐登は更にわけがわからないと言わんばかりに首を傾げてしまう。鴎外の言わんとしていることは全くわからない。すると、鴎外がくるりと振り返って佐登を見つめた。
嗚呼、そうか、矢張りそうかもしれない。気付いていないのだ、彼女は。歓喜に身が震えそうだった。真逆、こんなところで思わぬ拾いものをするかもしれない、と思うと楽しくて仕方がない。
「君は自身を異能力者だと思ったことは?」
突然の質問に、佐登は目を見開いて固まる。「――――真逆!」声を荒らげそうになるのを必死で抑えながらも、言った。異能力者だなんて、周りには誰も居なかったし、こんなことができるような能力など持っていない、といえば鴎外は更に楽しげに笑みを深めていくだけだ。
「何、自分の思った通りの空間を作り出す、などという能力よりも君は更に優れた能力を持っている」
鴎外が佐登の瞳を指差した。その瞳は黄金ではなく藍色。然し、よく見てみると瞳孔の下の方は明るい色をしていることに気付いた。鴎外が瞳を覗き込もうとすると、佐登はさっと目を伏せるように視線を逃してしまう。どうやら、自分の目を見られることは苦手らしい。――――そうか、瞳孔の色が僅かに違うのを知っているようだ。
「君は言ったね?」
瞳に鴎外が映り込む。暗がりでもよく分かる。その瞳がゆるゆると、鴎外へ向けられた。
「理由はないが、――――視えた、と」
佐登が息を呑んだのが、鴎外にはよく見えた。異能力は何も、空間を作り出すばかりではない。何かしらの減少を引き起こす超常能力のことを総じて異能力というのだから彼女のそれも、間違いなく異能力と呼んで相違ないものだった。鴎外は最初に佐登を見つけたときのような穏やかな笑みを浮かべた。
「おそらく、君は"未来が視えて"いる。時間は数秒よりもずっと長いようだ。一分程度、もしかしたらそれ以上。残像的なものだというが、それでも普通の人間にはそんなことは出来ないよ」
普通の人間には見えない、そのとおりだ。だから、最初に言ったのだ。――――笑いませんか、と。昔から、そのことを口にすれば皆が佐登を笑い者にした。そんなわけがない、そんな事があるはずがない、と。だから、佐登も自然とそういったことを言わないようにしてきた。これは自分の思考回路が後ろ向きだから、心配性だからそうなってしまうのではないかと想像しているだけなんだ、と。――――そうだ、これは異能力ではない。
「た、ただ、心配性なだけで」
佐登の視線が不自然に鴎外からそれた。それは自身の心的外傷から逃がすための動作だと鴎外は気付いた。なにか、彼女はこの能力に良くない感情を抱いている。
「うん? では、そういうことにしておこうか。無理強いをしても、君に負担をかけそうだ」
鴎外はそれきり、その話をしなかった。
佐登の心臓が、先程隠れていたときとは違う意味で大きく揺さぶられていた。どくん、どくんと耳について聞こえるかのような心音を聞きながら、佐登は鴎外のことを思い返していた。
(未来が視える……? 真逆、そんなはずがない)
佐登がそう思った瞬間に過去に笑いものにされたときのことが頭をちらついていく。違う、違う、と首を振った。そんなこと、そんなことがあるはずがない。――――そう思わなくてはならないんだ。まるで、自分に暗示でもかけるかのように違う、と繰り返す佐登を鴎外は少し先を歩きながら見ていた。
少し先へと進んでいる鴎外を追いかけるために佐登は慌てて足を進めた。ふと、思った。この目があったから、自分がそういうことから逃げてこれたのではないか、と。自然と、嫌なことが起きそうなことを回避していたのではないか、と。鴎外が先程、一人で納得していたのはこのことだったのではないか、と。自分以外の新人たちが見てしまったものを、自分は無意識的に予見して、逃げていたのではないか、と。自分は知らず知らずの間にこの異能力を使って生き抜いてきたのではないか、と。
――――ごくり、と息を呑んだ。
(もしも、これが異能力だとして)
足が鉛のように重くなった気がして、つい足が止まる。
(私の手に余るものなのではないだろうか)
佐登はぎゅうと、誰かに心臓を掴まれたような気分になった。鴎外はそんな佐登を眺めて、目を細める。
路地裏にしては永遠と続いていくのではないかと、錯覚しそうになるほど進んできたところで、佐登が顔を上げた。
「……っ」
今までにないほど、恐ろしげに顔を歪めている。鴎外はそれを見て、どうやらこの先、もはや一本道しかないというのに、最大の危険が待っているらしいと予測した。――――その瞳は青から黄金へ。不安に揺らめきながらも、路地の先をじっと見つめていた。ふむ、と独り言ちて頷いた後、佐登にニコリと笑いかけて、自分の外套をかけてやった。
「問題ない。――――そこまで、悪い未来が視えるかな?」
視えたのは、赤だ。だが、口にすることは憚られた。佐登は少なからず、一般人だった。この視える光景が異能力によるものだとしても、そんなものには自覚がなかったし、横浜では珍しくもないマフィアの抗争とか、そういったものからは無縁に育ってきた。報道で、テロがあっただとか、建物が爆発されたとか、そんな遠い世界の物語のようにずっと聞いてきたのだ。銃声だって、あんな間近で聞いたのは初めてだった。だから、赤い光景が視えたとして、それがなんの光景かはっきりとは理解できなかった。炎なのか、しかし、少なからず自分や鴎外が死ぬような光景は視えなかった、とは伝えた。
鴎外は笑ったまま「外套を預かっていてくれ給え」となんてことはない、散歩にでも出かけると言わんばかりの口調で佐登の手を引いて、永い路地裏から飛び出した。
――――久しぶりに解放されたような気分になったのは佐登だけではなかったはずだ。
一瞬のまばゆい光の後、すぐに鴎外から目を瞑るようにと言われて、佐登は慌てて目をつむった。鴎外に言われるままに外套にくるまり、小さく身を屈めて息を潜めた。そして、聞こえてきたのは何かを切り裂く音と、無数の断末魔にしてはあまりにも一瞬で消えてしまうような声だった。
「もういいよ、大丈夫」暫くして鴎外の柔らかな声が聞こえてきた。
佐登は恐る恐る、目を開けて外套から顔を出して、ひ、と声を引きつらせた。――――赤、だった。路地裏の灰色のコンクリートを塗り固めてしまうほどの赤。とっさに、壁に向かって後ずさってしまう。その、赤の中で鴎外が一人、先程と変わらないまるで散歩にでも行ってきたかのような笑顔で佇んでいる。手には血に濡れたナイフ……いや、手術刀を持って。
「済まないね、もう隠すのも不可能だろうし。どの道、知らなくてはならないことだったから」
赤、嗚呼、あのときに見た、恐ろしい感覚はこれだったのか。鴎外や佐登になにかが起こるというわけではなく、ただ鴎外が、人を殺したのだ。佐登には有り得ない手際の良さと、残虐性を持って。その光景を危険だと、頭の中の何かが判断したのだ。
鴎外は笑顔のまま、佐登に手を伸ばす。血が滴り、ぽたり、と灰色の凝固土を汚して、それをたどるように視線をそろそろと下ろしてみれば、複数の人が倒れている。多分、息はないのだろう。振り払うように首を振って、佐登は鴎外の手を借りて立ち上がった。今、ここに立っているのは鴎外と佐登だけだ。すなわちそれば、生きているのはということにも直結していた。
「我が社はね、横浜でも有名な――――そうだね、巷ではポートマフィアと呼ばれている組織なのだよ」
ポートマフィア、この横浜に住まうものなら誰でも知っている名前だった。横浜の港周辺を縄張りとする非合法組織で、参加の企業団体は数十を超え、横浜の政治や警察などにもその根を張る巨大な組織だ。あらゆる非合法の仕事を請け負い、あらゆる暴力を許容する。そういったことに疎い佐登はまるで他人事であるかのように思っていたが、自分は十分にその組織の腹の中に居たらしい。もしかしたら、そういうことも原因で遠ざかっていたのではないだろうか、などと一瞬頭によぎった。
「全く知らなかったのだね?」
鴎外の言葉に、佐登は一言も発することも出来ずに頷いた。その返事にも鴎外は満足したのか、佐登の手を引いたまま街頭の光が見える方向へ歩いていく。少し上機嫌らしい、鼻歌が聞こえてくる。どんどんと暗い路地裏が離れていき、あの血に濡れた光景も見えなくなってくる。ふと、突然鴎外の声が降ってきた。
「佐登君、やっぱり君は異能力者だよ」
鴎外に手を引かれたまま歩く最中、そう言いながら彼は振り返った。佐登はそれに先程のように強く否定することが出来ない。――――自分も、そうなのではないかと思うからだ。そして、異能力というものが自分に存在しているのならば、自分が他者と違うことにも納得がいくのだ。
「何らかの、条件があるのかもしれないけれど。君には未来が予測できる」
予知とは言わなかった。映像が見えることを、人は予知というのかもしれないけれど、佐登の気持ちを慮ったのかもしれないし、鴎外の中では予知と予測に明確な違いがあるのだろう。佐登は口を挟むこともせず、鴎外に連れられて漸く路地裏から出てきた。街頭に照らされた瞬間に、安心したのかもしれない、一気に体から力が抜けそうになり、鴎外の手で支えられた。
「大丈夫かい? 嗚呼、怖かっただろうね、でももう少しだけ我慢してくれるね」
鴎外が優しく佐登に告げた。佐登はなんとか頷きながら震えそうになる足を叱咤して立ち上がった。
「首領!」
鴎外の姿を見かけて黒い背広を着て、帽子を被っていた小柄の男性が駆け寄ってくるのが見えた。佐登はどうして良いかわからず、右往左往と視線をさまよわせているが鴎外は慣れた様子で彼に複数の指示を出している。すると、彼は佐登の存在に気づいたらしい、訝しげな目を一瞬だけこちらに向けた。
「彼女はうちの事務員だよ。不運にも巻き込まれたんだが……――――彼女のお陰で、助かった」
助け舟を出すように鴎外が笑う。
一見すると少年にも見えるような彼は、はぁ、と更に疑問を深めたような表情を浮かべたが、それ以上は鴎外に問うことはせず自分に与えられた指示を全うすべく走り出していた。彼が向かったのは路地裏であるため、あの死体の処理でもするのだろうか、と佐登は背中を視線で追いながら考えた。ぽん、と背中を鴎外に叩かれてはっ、と気づいた。近くには確りと外套、背広、襯衣にまで糊を利かせているらしい年嵩のマフィアが立っていた。
「最後まで送ってあげたかったんだが……私はこの後、処理もあって事務所に戻らなくちゃならないから。――――広津さん、この子を頼むよ」
「承知いたしました」
広津、と呼ばれた年嵩の男に案内され――――そういえば、佐登は彼に見覚えがあった。ちょうど、二週間前上司に頼まれて彼の執務室に書類を届けに行ったことがある。彼は佐登がただの事務員だと知っていて、丁寧な対応をしてくれた。その時と同じように、いや、それ以上に丁寧な対応で、黒塗りの特殊な装甲が施されている高級車に乗せられた。扉を広津が閉じてくれたところで、こんこん、と扉がノックされる。窓を開けてみると、鴎外が笑顔でこちらを見ていた。
「おやすみなさい、佐登君」
先程のことなど、なかったかのように彼は言った。
どう返答していいものか、佐登は一瞬悩んだが、一呼吸置いてから、できるだけ平静を努めて――――しかし、すごく久しぶりに発した声で、言った。なんだか、歩いている最中だって話していたような気がするのに、漸く自分の意志で声を出しているという気分になった。
「おやすみなさい、森社長……あの、ありがとうございました」
助けてもらったのはこちらだった。自分ひとりではきっとどうしようもなかったことは事実で、佐登は鴎外をじっと見つめながら言った。鴎外はしばし、豆鉄砲でも食らったような表情を浮かべた。――――そして、車が見えなくなって、鴎外は体から力を抜くようにして笑った。
「嗚呼、未来を予知できる異能力者が、真逆替えが見つかるなんてね」
否、替えにもならないか。
彼女はあれとは違う。方法と手段を替えなければ、一瞬であの異能は鴎外の手からこぼれ落ちていくことだろう。どうしたものかな、と考えながら鴎外は月を見上げてうっそりと笑うのだった。
「本当にこちらで宜しいのですか」
「は、はい」
車をまったく人気のない住宅街にあるとあるアパートよりも少し離れた場所で止めてもらった。電車で通わなければならない距離にあるアパートは安いし、そこそこの広さがある部屋で佐登は気に入っていた。何より、ここからだと実家が遠くなくて楽なのだ。病気の父と、それを支える母のためにもあまり遠くへ行くのは嫌だった。かと言って、自宅に留まり続ける選択をしなかったあたり、自分は卑怯だったのかもしれないが。
「家はもう直ぐなので、今日はありがとうございました、広津さん」
「いえ……首領の指示ですから」
そうだ、それだけのことだ。広津にもう一度頭を下げて、佐登はアパートに向かって歩き出す。車が発進した音を聞いたのは、アパートに入ってからだ。古びた木のドアにゆるゆると背中を預けて、座り込んでしまった。堅い、土間は冷たくて、徐々に早くなっていく呼吸に、佐登はただ、蹲った。
(怖かった、だけなのか)
佐登の頭には、おやすみなさい、と緩やかに笑ってくれた鴎外の顔が浮かんだ。心臓が更に早くなり、そして、同時に呼吸が落ち着いてくる。頬がたまらなく熱くて、両手で抑える。真逆、この年になってこんなに、こんなに心臓が早くなるなんてことを経験した。
「…………どうしたら、いいんだろう、私」
その声を聞くものはなく、当然返事をしてくれるものはいなかった。