星は夜に
瞬くべき

 路地裏での奇妙な出来事から、一週間ほど経っても佐登の日常は何一つ変わらなかった。当たり前のように出社して、総務の仕事をこなして、定時で帰宅する。とりあえず、ポートマフィアだったという事実をそれとなく先輩たちに聞いてみれば、矢張り彼らはそれらを知っていたらしい。これまでの新人がこの職場をバタバタとやめていったのは、それを知らなかった子達で、自分がやめずに居たのは自分もそういうポートマフィアだと知っていて入ったからだと思われていたらしい。知らなかった、ということを告げたときには全員から驚かれたが、知ってもやめないのかと聞かれたときに悩んでしまった。やめるわけには行かない気がした。先輩の一人が笑いながら、矢張り佐登は肝が座ってるんだなぁと笑い飛ばす。
(……多分、深くまで、というわけではなくても抗争を見てしまった以上、ここからやめれば消される)
 そんな予測が立ってしまうのは仕方がないことだった。それに――――ふと、鴎外を思い出して、頬を赤らめた。一般の事務職員が彼に出会うなど無理な話ではあるがそれでも同じ職場にいるという事実だけで満足だ。そもそも、これは憧れに近い感情なのだから、それ以上は望んでいない、などと必死になりながら自分に言い訳つけて、佐登は今日も黙々と仕事をこなして、家に帰り、食事を摂り、入浴し、そして、眠りにつく。
 あの路地裏の出来事から、ついに十日。朝の突然の電話に佐登はぼんやりとした意識が覚醒した。顧問役を名乗る人からの突然の電話が早朝七時、出勤前の準備時間にかかってくるなんて誰が予想しただろうか。電話の着信音をなることを何となく予見した佐登は携帯を手に持ってはいたが。何もその人物がナンバー2で有ることなど予想もしていなかったので、声が裏返った。「佐登暮、首領がお呼びだ」と短く用件だけ伝えられ、佐登は慌てて電車の時間を確認した。今からだと、十五分以上はかかる、と伝えると顧問役はそれ以上問うこともなく「首領には伝えておく」とそれだけで終わった。
 電話を切れるとしばし、呆然としてしまった後、やりかけになっていた化粧を慌てて整えた。そして、着ようとしていた背広をしまって、洗濯屋から帰ってきたばかりの背広に袖を通す。この後、首領が待っているという事務所本部を――――まあ、どの道職場なのだが、目指すことになるので、いつもの背広で行くのははばかられたからだ。朝食は、準備はしたけれど食べる気分にはなれなくて、ラップをかけて冷蔵庫の中に放り込んだ。お気に入りのパンプスにかかとを押し込んで家から出ていった。
 駅はいつもどおりの出勤や通学のために訪れている会社勤めや、学生たちでごった返している。佐登もその中に飛び込んで、目当ての電車に無事に乗ることが出来た。電車の中は相変わらず、酷い混雑具合でぎうぎうのすし詰め状態だ。はぁ、とため息を付きながら卸したての背広に皺が入らないことを願った。
(そろそろ、車でも持ったほうがいいんだろうか)
 目的の駅まで、十分。そこから、あのときの近道を使って走って五分で――――と考えたところで、佐登は思い出す。もしかして、処分されてしまうのだろうか、などと不穏な予感。これは、いつもの視えるものとは違うので確定ではなくて、単なる自分の妄想にしか過ぎないことはわかっているがそれでも一度考えてしまうと嫌なものだ。首を横に振って、電車から降りる。路地裏の近道を使うために、そちらに向かって足を進めると人混みからはあっさりと抜けられた。朝とはいえ、こんな薄暗い路地裏なんて誰も通りたくないのだろう、路地裏には入らず大通りへと皆が向かっていく。
 そのまま路地裏を進んでいけば鴎外と出会った場所にたどり着く。血の跡は何もなく、あのときの惨状などなかったかのように当たり前の、佐登がしっているいつもの薄暗いだけの路地裏に戻っている。朝だということもあってか、あの時に比べれば幾ばくか明るく、路地裏の様子がよく見えた。みー、と一つ鳴く猫の声が聞こえてきた。その声につい、足を止めてしまっていることに気づいて、慌てて腕時計を確認する。「拙い……――――!」佐登はその路地裏を見なかったことにして会社に向かって走り出した。

 なんとか時間に間に合った、と思いながら息をつく。入口に立っている警備員とはもはや顔見知りのために、互いに会釈で挨拶を済ませると佐登は一応自分の部署に向かった。相変わらず、欧州の高級ホテルを思わせるような玄関を抜けて少し昇降機に乗り込み、十階へ。佐登の所属している総務部はその、奥まった事務室のようなところにあり、奥へ入ると課長が慌てた様子で立ち上がった。
「ど、どうして、ここに!? 首領に呼ばれたのでは!?」
 ――――ああ、もう伝わってるんですね、という言葉は飲み込んだ。
「早く行かなくては!! ああ、ほら、荷物を置いて、襯衣歪んでるよ、背広の襟もちゃんと直して! スカァトも皺がないか……埃とかは大丈夫そうだね、はい、ぐるりと回って!」
 課長に言われるがままに、荷物を自分の机のところに置いて、襯衣と背広の襟を直し、スカァトを軽く引っ張って形を整える。全身鏡が無いので自分では確認できなかったが課長の前でくるりと回って問題ないか確認してもらう。課長がよし、と親指を立てて合図してくれたのでホッとして、佐登は先輩と上司に見守られながら、再び総務課から飛び出して、昇降機に乗り込み、最上階へのボタンを押した。
 ――――最上階など、夢の世界だ。社長、いや、首領と表現するほうがこの場合は正しいか。彼の判が必要な書類は大体、秘書室へとまず回されるので、総務課の出番はない。というよりも、佐登は十階以外の場所に出入りすることが殆どない。頼まれごとをして、届け物をしにいくことは度々あるが、それだけだ。あまり深く立ち入らない。危険だ、と瞳の奥に映像が現れたときはすぐに引き返していた。
 昇降機の中は硝子張りで、朝の横浜の景色が一望できた。実は高所恐怖症である佐登は徐々に高くなっていくと視線を逸らして、窓へ背中を向けて昇降機の扉をじっと見つめた。一つ、また一つと階が上がっていく。最上階までにはとても遠い気がした。それが、鴎外と自分の間にある距離なのだと思うと、ひどく寂しいような、切ないような気持ちになり、胸が苦しくなった。
 永い、時間はあっという間に終わり、最上階へつく。ぽん、と小気味のいい到着音が聞こえ、昇降機のドアが開くと、光源の位置がわからず、ぼんやりと乳白色に光る廊下が目に入った。床へ視線を落としてみると、どこまで歩いてもこそりとも音がしなさそうな毛足の長いカーペットがずうっと敷かれており、壁はとても頑丈そうで、どんなことを壊せなさそうだな、と佐登は思った。廊下の先が見えなくなっているのも、防犯対策――――襲撃対策だろうか。少し、ビクビクとしながら廊下を歩いていくと、執務室のドアの前に二人の警備員が立っている。彼らはどちらも銃を携行していて、佐登を見るなり、警戒するような視線をくれた。ここで、名乗れと総務部で言われたので、
「さ、……佐登、暮と申します。首領より、お呼び出しを受けて、ま、参り、ました」
 声が震える。佐登は少なからず、このポートマフィアに於いては新人のようなものだ。つい最近まで本当に一般人でこの組織がポートマフィアだとすら知らなかったくらいには。あまりの毒気のなさに演技ではないと悟ったのだろう、彼らは警戒を解いて、ドアの前を佐登へ譲った。大きな扉はそれだけで威圧感がある、と佐登は今このときに学習した。ノックをしてから、中にいるであろう人物に呼びかける。
「佐登です。――――お呼び出しに参上いたしました、」
「ああ、佐登くん」中から聞こえてきた声に、佐登は少しだけホッとした。
「入り給え」
 鴎外の声に促されるままに佐登はドアを開けて、最上階の執務室へと入った。おそらく窓があるのであろうところは黒い壁の、ようなもので覆い隠されていた。つい、そちらに視線を向けていると「珍しいかね」と薄暗い部屋の中、執務机の上に置かれているランプの明かりにだけ照らされている鴎外がニコリと笑った。彼の手元には沢山の書類が置かれていて、今まさに仕事をしていた最中なのだろう。呼び出しをされたとは言え、あまりいい時間ではなかったのではないのか、という申し訳無さがこみ上げてきて佐登は萎縮した。
「い、いえ、その、すみません」
「構わないよ。ああ、今、こちらの仕事を片付けてしまうから。――――その椅子で待っていてくれるかな」
 ちょうど佐登が見ていた窓の前に二つの豪奢な一人がけ用のソファが置かれている。中央には小さなテーブルが置かれており、その上にはアンティークのポッドとカップの一式。腰掛けるのもいかがなものか、と思ったが勧められた椅子に座らないというのも失礼に当たるので、そろそろと佐登は腰掛けた。椅子には深く腰掛けられず、端の方に座って、緊張が隠せないという。つい、ちらちらと周囲を見回していると、鴎外が目に入った。鴎外はパラパラと書類をめくっている。なんというか、忙しそうだ。
 暫く待ったところで「すまなかったね」と微笑を携えた、鴎外が佐登の座るソファの近くまでやってきたので、佐登は慌てて立ち上がろうとするが、それを鴎外が手で止める。座っていなさい、と優しく咎められれば、佐登も腰を持ち上げることはできなかった。鴎外がその様子を見て苦笑しながら自分も椅子に腰掛ける。
「君のところの上司から、なにか話は聞いたかな?」
「……いえ、何も」
 何も聞いていない。早く、首領のところに行きなさい、とせっつかれたくらいなもので。佐登は正直にそのことを伝えると、そうか、と鴎外は楽しげに笑ってポットを慣れた手付きで持ち上げると、二つのカップに紅茶を注ぎ入れた。本来なら、自分がすべきだったのではないだろうか、と佐登が慌てるが、鴎外はいいんだよ、と笑ってみせる。今日、君を招いたのは私だからね、という。
 佐登は差し出された紅茶を一口飲む。甘やかな香りが特徴的で、実は紅茶があまり得意ではない佐登でも素直に美味しい、と思えるものだった。淹れる人も上手なのかもしれないが、善い茶葉でもあるのだろう。佐登が少し目を輝かせたのを見て、鴎外は口元を緩めて笑った。
「却説――――本題に入ろうか」
「はい、本日はどのようなご用件で」
 温かい紅茶のカップをソーサーに戻しながら、佐登は居佇まいを整えた。まだまだ、顔からは緊張が消えていない。鴎外から一つの紙が手渡されると、更にその緊張は深まった様子だった。
「まあ、所謂辞令というやつだよ」鴎外は笑顔のまま続けた。辞令――――社内での所属が変わったり、地位が変わる時に社長の名前で出されるものだ。要するに佐登は所属が変わるのだろう。非戦闘員である自分がどこの所属に鳴るのか、佐登には想像がつかず、ただ、鴎外を見て、困惑した表情をしていた。
「君には是非、私の秘書になってほしくてね」
 ――――佐登は、言葉を失った。自分の聞き間違いか、と鴎外を見上げて、もう一度聞いてみることにした。
「申し訳、ありません。もう一度、お伺いしても?」
「うん? だから、君には私の秘書になってもらいたい、と言ったのだが」
 やっぱり聞き間違いではなかった。佐登は困惑を深めたような表情をして一度手元の辞令に見た。黒い封筒に入れられており、なんだか辞令と言われてもピンとこないような外装をしている。
「理由を、伺っても?」
「理由が必要だったかな」
 鴎外は間髪を入れなかった。こちらの言葉を聞く気がないのかもしれない、と佐登は思ったが鴎外の柔和な笑みを前にしては中々言いたいことも口にできそうにない。少し、ほんの少しだけ唇を震わせながら、漸く声を出す。
「……いえ、その、私は、ポートマフィアの首領の付き人にも等しい秘書になんて、相応しくないのではないかと思いまして」
 視線を落としてみる。鴎外に開くようにと言われ、辞令を開き、中から紙を出してみる。上質な紙が二つ折りで入っており、それをひらいてみればやはり、そこには首領付き秘書室への転属、及び、首領付き専属秘書への役職変更の旨が書かれている。厳密に言えば、総務部総務課第一事務所属から、総務部秘書課上級秘書室所属、首領専任秘書に任命されるというものだ。
 これを佐登が受理すれば、辞令とは効力を持つ。辞令書が存在するというのが、それなりに表向きは一般企業を装っているだけはあるな、と佐登は思うわけだが、それでもつい最近まで一般人であった佐登には荷の重い話だ。
「君以上もいないと思うけれどね。君も概ね察していると思うが、私もどうしても狙われるからね、君の異能力――――ああ、君はまだ異能だと認めていなかったか。未来予測の力はとても欲しい」
 戦闘能力も、事務能力も二の次というわけだ。使えない異能力とやらにどれほどの価値があるのか、佐登には皆目見当もつかないが、鴎外の目には止まったらしい。佐登はふと、眼鏡に手をかけた。眼鏡の奥、青色の瞳が困惑に揺れていて、鴎外はそれをじっと見つめていた。
 まぁ、と言葉を区切ると、鴎外へ佐登の視線が向いた。肘置きに肘を付き、両手を組みながら鴎外が笑っている。
「私は物事を合理的に進めたくてね。君がいればそれも不可能ではないと思うわけだよ」
「はぁ……」
 私など居なくても、首領であれば可能ではないでしょうかと佐登は思う。だが、口に出すのは憚られたので、曖昧な返事で留め置いた。
「後は純粋に君が秘書として専門課程をこなしてきている、ということかな。どうにも私は仕事が多くてね、それを手助けしてほしいのだよ」
 鴎外がちらりと視線を執務机へ向けた。確かにまだまだ仕事は山積みになっているようだが、専属の秘書なら既にいるのではないだろうか、という疑問は鴎外が「どうにも、信頼できない人間はそばに置けなくてね」という言葉で解消された。どうやら、今の彼には専属の秘書は居ないらしい。どのみち、このポートマフィアには三つの掟がある。首領の命令には絶対に従うこと。組織を裏切らないこと。受けた攻撃は必ずそれ以上にして返すこと。この順番はそのまま重要度の順番でもあり、佐登はこれについて、ついこの間、上司から説明を受けた。ならば、首領の命令であるこの辞令を断る権利は佐登には無い。この組織に属すると、決めるのならば。
「もちろん、今までの契約内容から一変するわけでから、君には一応拒否権はあるよ」
 佐登の緊張感が一気に増したことを察したであろう鴎外が少しおどけた口調でそういった。一応、とつけたあたりで随分と希薄な拒否権なのだろうと思う。相当明確な理由がなくては、拒否することも難しそうだ。――――そして、拒否するためにはこの組織から抜け出さなければならなくなる、ということだ。今まで辞職していった彼らは、本当に今も生きているのか、と聞かれれば佐登にはわからない。彼らとはもう連絡を取る手段がないからだ。
「……――――いえ、お受けいたします」
 佐登は漸く声を絞り出すようにして、そういった。佐登の言葉に驚いていたのは鴎外の方だった。本当はもっと、拒否されるかとばかり思っていたようだ。まあ、拒否されたらされたでもっと別の方法から自分のところに来るようにしようか、とか色々考えていたので断っても気にはしなかったのだが。
「ああ、良かった。これで私も助かるよ」
 ――――そんな言われ方をしては断ることも出来ないというものだ。
 佐登は顔をうつむかせながら、少し悔しそうな表情を浮かべた。恋、という気持ちはままならないものだと思う。遠くから見つめていられれば、と思っていた人の近くで働く機会が与えられたとするなら、その機会をみすみす投げ捨てる方も馬鹿らしいというものだ。佐登のそんな心情など、知らないのであろう鴎外が穏やかに微笑んでいた。
「引き継ぎなどもあるし、そうだね、実際には一週間後からにしよう。それまでは、総務課で片付けをして、こちらで仕事が始められる準備をするということでどうかな」
「わかりました、えっと……一週間は今まで通り総務課に出勤ということで宜しいですか?」
「勿論。ただ、半日はこちらで仕事を勉強してもらったりしようかな。予定を用意して、総務課長に渡しておくよ」
「……わかりました」
 辞令書を改めて、鴎外から手渡され佐登はそれを受け取った。その後、首領に言われるがままお茶に付き合った。鴎外の元にいるのだという少女のエリスが出てきたときにはそれは驚いた。エリスはとても愛らしい少女で、佐登をしげしげと眺めた後ににっこりと笑って、佐登の膝の上に上がった。鴎外は大層彼女をかわいがっているようで、お茶に付き合っている間ずっとエリスについて語られた。――――ついでに、彼が幼女趣味だと気付いてしまったので、心的損傷は否めない。
 そしてなんとか、総務課に戻ってきたわけだが。正直言って、総務課に戻ってきたときの記憶がごっそりと抜けている。意識がなかったわけではないはずだが、先輩たちが口を揃えて、「喜んでいるのか、悲しんでるのか、ちょっとよくわからない顔をしていたけれど、とりあえず戻ってきてすぐにガッツポーズしてたのは何だったんだ」と言われて、そうか、そんなに喜んでいたのか、と察した。
 嬉しいに決まっているのだが。

(どうしよう、どうしよう)

 来週からほぼ一日あの人と一緒に仕事するなんて、耐えられるだろうか。
 ――――否、耐えられるはずがない。




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