「やぁ、佐登君」
彼は比較的穏やかに声をかけた。あれからも何度か広津には本部内で会っていたので、佐登は少しだけ表情を緩めた。お早う御座います、と丁寧に挨拶すれば彼は満足そうに頷いて、助手席を指さした。「乗り給え」と言われれば、佐登に断る理由はなかった。
助手席に佐登が乗り込み、シートベルトをつけたところを確認して、広津はゆっくりと発進させた。出勤時間は道路がこむため、高速道路を使わせてほしいと言われたときはおまかせします、と広津に返答をした。広津の運転はとても丁寧だったし、ゆったりと座っていられると佐登は出勤用の重たい黒い鞄を抱きしめながら思った。
「今日からかね」
高速道路に入ってから暫くして、広津が言った。その意味を一瞬測りかねた佐登はぱちぱちと目を瞬かせた後に、更に広津が続けて「秘書の件だ」と言った。わずかに声を潜められているのは、その秘書の話が本来であれば今日から内示され、組織内で周知されることだからだろう。盗聴などを懸念したのかもしれない。あの日、佐登を送った広津、総務課のメンバー、首領の護衛役、首領とエリス嬢以外は佐登が秘書になることを、五大幹部ですら知らされていないのだ。
「一応……昨日、総務課から名前を消しました。本日の九時付で、首領秘書室に名前が入るはずです」
一週間、総務課と首領の執務室を行ったり来たりして秘書になるための準備をしてきた。一応、出勤時間は九時となっているので、その時間で佐登は首領付きの秘書になり、組織内の五大幹部から順に連絡が行く手筈となっているらしい。――――らしい、というのは昨日、退社時に首領からそう言われたからだ。
『明日から、君は晴れて私の秘書になるわけだけれども』
佐登を前にして、鴎外がにこやかに言ってみせた。緊張した面持ちの佐登は異なり、いつもどおりの鴎外だ。机を一つ挟んだ先に佐登は足先を揃えた立ち姿で鴎外を見つめていた。机の上には用品がいくつか並んでいるお盆が置かれている。
――――スマートフォン型の携帯電話が一つ、従来型の携帯電話が一つ、小型タブレットが一つ、徽章の着いたタブレットケース兼手帳が一つ、黒い名刺の束と、名刺ケース、そして、小さな箱が一つ。
「却説、此れが明日に備えて君に渡しておくものだよ」
説明は今更必要ないね。
携帯電話は今まで使っていたものは、もう使えない。私用の携帯もポートマフィアから支給されたものを使用してほしいと言ってきたのは鴎外からだ。機密情報を扱うことが増えるので、必然的に盗聴防止の加工が施されている特別な携帯を用意されている。仕事用には従来型(此方は電話とメールができれば問題はない)と小型タブレット(此れは予定管理やデータ管理などに使用する)が与えられる。これらが敢えて分けられているのは、当然、一つを失っても全ての情報が漏洩しないために、である。特に小型タブレットは指紋認証が採用されている最新式のセキュリティが導入されているものを鴎外は用意させた。森鴎外という男の秘書をすることはそれだけ、ポートマフィアの機密情報に関わるということだ。
「スマートフォンの方は、君の好きなように使ってくれ給え。一応、盗聴や逆探知を防ぐための加工が施されているから、私用でも問題ないからね。嗚呼、勿論、君が今まで使っていた番号とアドレスで使えるから」
「有難うございます」
携帯電話を二つ、手に取り、片方を此れまでも使っていたケースへ入れ、もう一つは起動と番号帳を確認して背広の内懐へ入れた。後で、なくさないために鈴でもつけておこうかと考える。更に、名刺と名刺ケースを受け取り、タブレットを起動させた。
「君の指紋で反応するようになっている。後、当然起動用の解錠番号も忘れないようにね」
タブレットを動かして、各種書類のデータや鴎外の予定をパラパラと開いていく。一通り目を通して、止めると、徽章のついたケースを手にとった。きらり、と光を浴びて輝く徽章は首領の秘書としての証明である。
「此れが君の徽章。此れをかざすと、たいていの部屋には入れる。勿論、私の部屋にも。此れが君の身分を証明するものであり、此れが有る限り、君は私の名を使うことが出来る」
「……首領の名前?」
「ポートマフィアには、私が権利を委譲する"銀の託宣"というものがあるんだが……君の其れは、殆ど銀の託宣と同等の価値を持つ。私の予定を含め、総務に関して私は君に信頼を置く証として遣いなさい」
「……乃ちは、私は必要とあれば、幹部の皆さんにもご協力いただけるということですね」
鴎外がにこりと笑った。今後、鴎外が他者に司令を出したり、報告書を受け取る際に、佐登を通すことになる。その際に、首領がそれを認めている、任せているという証拠が必要だということだ。此れが有る限り、佐登の言葉は首領の言葉で間違いがないということを証明してくれる。ただし、嘘は一切許されないが。
「まあ、今の所、君が幹部を頼って何かをするということはないだろうけれどね。私が任せた仕事で、君一人の手に余りそうだったら、人員を出してもらうといい」
鴎外の言葉に、佐登は頷いた。幹部とはまだ顔合わせをしていないので、今後彼らに会って事情を説明しなくてはならないのだろうと思う。そして、最後に小さな箱だ。
「開けてみなさい」鴎外の穏やかな声に促され、小さな箱を手に取って開けてみる。華やかなクリスタル花飾りがされたカフスボタンである。華やかな飾りが佐登の目を引いて、目を瞬かせた。
「あの、」
「其れは私から、佐登くんへ。秘書への昇進祝いと思ってくれ給え。――――まあ、ただの祝いの品ではないが」
そういいながら、鴎外はカフスボタンを一つ取り上げると、そのきれいな花飾り部分を押し込んだ。かち、と僅かな音が聞こえると鴎外の携帯が震えた。
「これは君の身の安全のためにもつけていなさい。嫌かもしれないがGPSと盗聴器、発信機と、非常通知が出来るようになっているからね。――――私の秘書の安全をできうる限り、保証するためにも」
鴎外の手で、背広の袖口部分にカフスボタンがつけられる。華やかな飾りは見ていて綺麗であったし素敵だったが、なるほどそういうものだったのか、と佐登は納得がいった。しかしながら、カフスボタンとしてよくできている。光に当てるとクリスタルが反射してとても美しいと思えた。感激しながら眺めている佐登に鴎外は笑みを深めた。
「私と仕事をしている分には問題もないと思うのだけれどね」
念には念を入れておくべきだから、と鴎外が言う。佐登は其れにやや納得の行かない様子ではあったが頷いた。
「それでは、明日。この部屋で待っているよ」
昨日の鴎外とのやり取りを思い出して、佐登は背広の内側に入れてある徽章付きのケースに入っているタブレットを取り出した。今後は此れでポートマフィアの関連の情報への侵入など好きにできるようになる。知りたい情報はいくらでも引き出せるというわけだが――――それは同時にポートマフィアの重要な核心部分にふれるということでもある。
(……やっぱり、簡単には引き返せない場所に置かれるということかな)
ケースを閉じて、背広の中へ戻す。
「先程のが例の徽章か。其れが有る限り、君は首領の名の下に五大幹部ですら顎で使える、というわけだ」
「……そんな大それたことが出来るとは思いませんが」
マフィアのこともろくに知らない小娘の話など、五大幹部は誰も取り合ってくれないだろう。何より隣りにいる広津だって聞いてはくれないはずだ。彼らが従うのは首領と五大幹部の威光であり、佐登のような一般人まがいの秘書のことなど歯牙にもかけない。そう有るべきだと、佐登も思う。
「私は首領からの司令を皆さんにお伝えする伝達係と思っていただければ十分ですよ」
「余り謙遜しすぎるのも感心しない。ある程度は首領に相応しい堂々とした品格を兼ね備えてもらわねば」
「……以後、留意します」
広津の言うとおりである。ポートマフィアの首領の秘書がこうも後ろ向きなのは、周りの構成員たちを苛つかせるだけだ。時として、らしい強気なふるまいも必要だ、ということか。佐登は大きくため息をつくと、両手で頬を叩く。――――気合を入れて、出社しなくては。
それに一度、広津は視線を送り、すぐに戻した。思ったよりもずっと肝は座っているらしい。ただの何も知らないお嬢さん、というわけにはいかなさそうだ。
本部の地下駐車場に広津が車を止めた後、佐登は降りた。有難うございました、と礼を述べると、広津は片手を上げるだけで、背広の内懐から煙草の箱を取り出している。車の中で一本も吸っていなかったのは、どうやら佐登に配慮してくれていたらしい。佐登はどこか困ったように笑いながら、再び礼をして最上階に上がるために昇降機へ向かった。昇降機は、今後首領が使うものと同じもの。唯一、最上階と直結している昇降機を使うことになる。佐登は釦を押して、ふうと息をつく。大丈夫、大丈夫、と何度か繰り返して、扉の開いた昇降機の中へと入り込んでいった。
長い。昇降機が最上階まで上がるにはとても時間がかかる。広津の車に乗せてもらったおかげで始業時間よりもずっと早く着くことができそうで安心した。昇降機の中はずっと一人だった。ずっと、窓の外を眺めているとやがて、高いビルはなくなり、ずうっと続く広い空が見えていた。――――高い場所に来ると、どうしても緊張する。足が震えだしそうになるのをなんとか叱咤して、佐登は振り返って扉の方へ向き直る。不安で、心臓が押しつぶされそうだ。本当は、今すぐにでも逃げてしまいという自分すらいる。でも、と思い、鴎外の顔を思い浮かべた。すると、不思議だ、足の震えが止まったような気がした。
やがて、昇降機が止まると、佐登は銃を向けられることもなかった。
「お疲れ様です、佐登秘書官」
「お疲れ様です、今日から宜しくお願い致します」
一礼して間をすり抜ける。この間、初めてここに来たときには銃を向けられて大層心臓によろしくなかったが、これからはこうやってここを通るのが当たり前になる。執務室の前にいる二人の警備に、佐登は徽章を見せた。二人は何も言わずに扉の前を譲り、佐登は――――ノックをして、扉を開けた。
そして、きょとんと目を見開いている鴎外とばっちり目があった。
「お早う、佐登くん。まだ、始業時間よりもずっと早いよ?」
「……お、お早う御座います…………お言葉ですが、その言葉はそっくりそのまま首領に当てはまるかと」
すでに執務机に着いて書類をめくっていた鴎外に佐登は肩からかけていた鞄をずり落としそうになってしまった。きょとん、としたいのはこちらの方だった。確かに待っているよ、と言われたが真逆秘書が、その仕えるべき人より遅く出勤なんて、本来はありえない。佐登は少しだけ、顔を青くしながら鴎外へ問う。
「ご予定では、もう少し遅く執務に入っているとのことでしたが……」
「なんだか、佐登くんが来ると思ったら張り切っちゃって。嗚呼、もし良かったら最上階の設備について案内しようか?」
にこにこと笑っている鴎外を見て、佐登はどことなく力が抜けた。もしかしたら、緊張しているのを解こうとしてくれたのかもしれない。佐登は困ったように張り切って先を歩く鴎外の背中を見ながら、微笑んだ。――――よろしくお願いします、というと彼はどことなく子供が浮かべるような笑顔を浮かべて、勿論、と答えた。
今まで使われていなかったはずの施設もあったが、どこも埃を被ることなく清潔で、使いやすそうに整理されていた。森鴎外という人物はとても整理整頓にこだわる人間のようだ、と佐登は考えながら、これから自分専用の執務室となる秘書室の机の上や、並べられている資料を見る。
「却説――――此処まででなにか質問はあるかな?」
「いえ、有難うございます」
再び首領の執務室へ戻ってくる。昨日渡された備品は全て持てるように準備されてあるし、一週間此処で勉強させてもらっていたから大抵のことはすでに頭に入っている。今日からは此処と秘書室が自分の職場となる。最上階には秘書室についている仮眠室と、首領の私室が存在しており、それぞれ重要資料が保管されているため警備レベルはポートマフィア本部内で最も高く設定されている。基本的にこの階に自由に入室できるのは首領と専任の秘書である佐登、五大幹部、そして首領の警備役を仰せつかっている構成員数名だ。責任は重い、と思えば自然と背筋が伸びた。今後は自信のない表情も、猫背も許されない。いつでも、しゃんとしていなくては。
鴎外がそんな佐登を見ながら、テーブルに肘をついて手を組んだ。緩やかに笑ってみせる。
「早速だが、佐登くん。今日は五大幹部会があるのは記憶してるかな?」
「はい。本日、午後二時より、幹部の皆さまがお揃いになり、第一会議室にて予定しております」
「うん、宜しい」
佐登がつらつらと予定を述べたことに満足気に頷いた。
「佐登くん、丁度今頃に幹部たちを始め、上級構成員に君のことが通達されたはずだ。――――折角だし、幹部たちは今日は殆どが午前中から揃っているということだから、挨拶に行ってきなさい」
ぺらり、と一枚の紙が渡される。銀箔入りの越前和紙に、流麗な文字が描かれている。
「紹介状だ。一応、私からも連絡を入れておくが見せるといい」
にこりと笑われる。すでに命令に断る権利が無いのはわかっているので佐登は紙を両手で受け取って、承知しましたと一礼した。今後、首領からの仕事を五大幹部や上級構成員に伝えるという点も踏まえれば、顔を覚えてもらうことも、印象を良くしておくのも重要だと理解している。
――中原中也。
現在の幹部の中では最年少に当たる二十二歳。異能力名は『汚れちまつた悲しみに』。幹部の中でも有数の武闘派であり、首領の腹心の一人である。
読み込んだ資料を反復させながら、少し下がった階にある五大幹部の専用フロアに足を踏み入れた。当然、銃を構える警備員がいて、佐登は徽章を見せる。直後に、銃を下げて礼をした。佐登も同じように頭を下げつつ、お疲れ様です、と口にした。執務室の扉の前でも同じように徽章を見せれば、一瞬目を見開いて顔を見合わせた後警備員たちは道を譲った。
「失礼致します、中原幹部。首領の仰せで参りました、佐登と申します。お目通り叶いたいのですが、お時間は宜しいでしょうか」
丁寧なノックの後、佐登は声を震わせないように気をつけながら言った。中から返事が来るのにしばし時間がかかったため、佐登はじぃとドアを見つめる。「入れ」と聞こえてきた男の声に、一瞬肩が震えたが佐登は落ち着いて、失礼しますとドアを開けた。
そこにいたのは、若い――――背の低い青年だった。佐登よりも幾分化若いだろうか。
「お初にお目にかかります、中原幹部。私は本日付で首領付きの専任秘書を拝命いたしました、佐登暮と申します」
「おう、話は聞いてるぜ」
佐登よりも幾分背の低い男だが、溢れ出る気配が只ならぬものを感じさせて佐登は身を竦ませた。一瞬たりともその容姿に可愛らしいなどとは考えることも赦されなさそうだが、佐登は頭の隅でそのようなことを考えてしまった。悟られぬように平静を装った。中原は上から下まで佐登を一瞥し、ふぅんと一つ呟いた。
「手前が首領の秘書、ねぇ」
「はい。……未熟ながらも、努力してまいります」
佐登は頭をあげずに、静かに述べた。中原の探るような視線をどう受け止めるべきなのか分からず、顔を上げては視線から考えを読まれてしまうような気がしたのだ。ずっと平伏を続けている佐登に対して、先に中原が居心地悪そうに頭をかいて、背中を向けた。
「――――……まあ、よくやれ」
「有難うございます。これから宜しくお願い致します」
佐登は静かに頭を下げた。応、と一声呟いた中原は片手を上げるだけだ。決して話しづらいわけではなさそうだし、佐登は最初に入っていた肩の力を抜いた。首領の腹心中の腹心だけはある。佐登に思うところがないわけではないだろうが、対応は悪くなかった。再度、礼をしてから中原の部屋を退出し、佐登は息をつく。これから更に幹部はいる。まだまだ挨拶を続けなければならないのか、と思えば気持ちは憂鬱だった。――――中原のように、話しかけやすい人物ばかりとは限らないからだ。
次の部屋は洋室、というよりも和室の雰囲気を持っていた。恐らくは部屋の主のイメージに合うのだろう。中央にいるのは花魁風の豪奢な着物を幾重にも纏った女だった。薄紅色の掛け物がとても良く似合う。女性の佐登ですらうっとりと見惚れてしまうほどだった。
「ほう? そなたが新しい秘書かえ?」
「は、はい。失礼致しました、私は佐登暮と申します。本日付で首領付き秘書としてお支えさせていただきます」
声をかけられて漸く正気に戻ってこれた。改めて挨拶をした佐登に幹部、尾崎紅葉は目を細めて笑った。
「愛いのう。首領もなかなか、隅にはおけぬな。――うん、私は尾崎紅葉じゃ。まあ、名前くらいは知っておるか?」
近くに寄ってきた紅葉は背が高い。勿論、踵の高いブーツを履いていたということもあるだろうが……それを差し引いても佐登よりはるかに背が高い女性だった。驚いていて、つい返事を忘れそうになるが慌てて、存じております、と返す。それもまた紅葉にとっては楽しかったのだろうか、クスクスと袖口で口元を抑えながら笑う。――――なんとも絵になる方だ、と率直に佐登は思った。事前に渡された情報では、佐登と一つ年が違う程度であるが、妖艶な雰囲気といい、落ち着いた表情といい、佐登などとは雲泥の差だった。
「そう萎縮するな。取って喰いなどはせん。首領の傍付きは色々難儀なことばかりじゃろうが……相談には乗ってやれる故、いくらでも声をかけるがよい」
きれいに整えられた指が佐登の頬を撫でて、どきりとする。女性でなければくらりと落ちてしまったのではないだろうか。いや、女性でもこれはくらりと行きそうだ。とても良い香りがする。佐登はうっすらと顔を赤くして、紅葉を見上げた。
「お、お気遣い有難う御座います。尾崎幹部」
「――――……まあ、今はそれでも良いか。だが、社交辞令ではないのでな」
社交辞令ではない、の意味を一瞬測りかねて佐登はきょとんと目を丸くしたが、紅葉は楚々と笑うだけだ。さあ、次もあるのじゃろう? と促されてしまうといつまでもそこの部屋に留まっているわけにも行かない。実際、次も、更にその次もある。紅葉には慌てて頭を下げて、退出する旨を伝える。今度は仕事ではなく、茶でも飲みに参れ、と緩やかに告げられ、佐登は萎縮するばかりで返事もできなかった。
――――その後は散々だった。首領から連絡が行っているはずなのに、会えなかった幹部が二人。そして、最後の一人で、新参であるAという幹部には正直言って二度と近寄りたくないと思われるほどのトラウマを植え付けられた。真逆、ダーツの的にされるなど、誰が想像するというのだ。未来予測が正常に働いてくれたお陰で間一髪逃れて出てきたが、最上階フロアに戻る昇降機の中で震えて立っていられなかった。こんなことではだめ、となんとか己を奮い立たせて首領の前に戻ったときにはなんてことのなかったという雰囲気を出すことが出来た。
――――そして、午後二時。
五大幹部が会議室に揃うと、五大幹部会が執り行われる。首領が席に付き、全員の視線がその後ろに控える佐登に向けられた瞬間に今すぐにでも脱兎の如くこの場から逃げ出したいと思ったのは仕方のないことだと思った。それらの視線を受けて、にこりと首領が笑う。事前に佐登は鴎外から凛々しくしていなさい、と言われていなければ情けない顔を浮かべていたに違いない、と思った。
「却説、皆に改めて紹介しよう。もう挨拶は済ませていると思うが、佐登暮君だ。今日付けで私の秘書として働いて貰うことになった」
「……宜しくお願いいたします」
首領の紹介に合わせて、佐登がゆっくりと頭を下げる。深々としたお辞儀をたっぷりと、二十秒。そして、ゆっくりと頭を上げる。癖のある髪が、ぱさりと落ちていく。
「私の伝令役や仲介役、勿論秘書として総務の仕事などに当たってもらうことがある。これからは彼女に予定も管理して貰おうかと思っているんだ」
一瞬ざわついたのは仕方のないことだ。五大幹部でも首領の予定を正確に把握している人間は居ない。そもそも、首領の予定は首領とその護衛役を担っている直轄の人間以外で詳しく知っている人間は居ない。それほど、狙われているというなのだが、それを管理する一人として、佐登は選ばれてしまった。
限りなく一般人であり、戦闘技能もない普通の人間が、である。
「問題ないのですか?」
中原からの言葉だった。佐登は心持ち不安があったが、それを顔に出してはならないと必死で平静に、沈黙を貫いた。ここは自ら発言するところではない。
「皆の心配は勿論わかるが彼女はこのポートマフィアの役に立つ。それらを活かすためにも私の近くに居て貰わないとね」
鴎外は異能力のことを口にはしなかった。そして、佐登も異能力について、一切口にしなかった。これは事前に幹部級であったとしても、異能力を明かす必要はない、と鴎外が告げていたからである。佐登は視線だけ、ふと鴎外の背中へ向けた。――――異能力について、話したほうがもっと穏便に進んだのではないだろうか、と思う。
首領がそこまでいうのならば、幹部からそれ以上の発言はなかった。ここではどうあがいても、首領の命令は絶対的だ。たとえ、幹部であっても。改めて、マフィアという組織を垣間見た佐登はわずかに表情を暗めた。やっていけるのか、不安しか無い。自分にこの場所に立っている資格があるのだろうか、と考えていたところで、鴎外の視線が自分へ向いた。にこりと、満面の笑みを浮かべている。
「佐登君」
「は、はい」
あらゆる思考で遮断されていた意識を漸く鴎外へと向けた。
「お茶を用意してくれるかな」
「……か、畏まりました」
自分に絡みつく好奇や敵愾心の視線から逃れるいい口実が出来た。恐らくはその機会をわざと作ってくれたのだろうが、首領には感謝せざるを得ない。それぞれの幹部から何を飲むのか聞き出し、佐登は静かな足取りで部屋の外へと出ていく。おそらく、自分が出ていった後の部屋は自分への悪意に満ちた言葉があるのだろう、とか想像するだけで怖い。いや、そもそも目の前に居た人間たちはマフィアの中でも実力があるから人を従える権利を得た者たちばかりだったのだ。
(生きる世界が違いすぎる)
わかっていたことだが、改めて突き付けられると心臓がバクバクと音を立てて煩い。
やって行けなければ、あの人の近くにいることは出来ない。佐登はそれを思い返して、腹をくくるとお茶を淹れるために給湯室まで足早に向かっていくのだった。
(頑張らなくては)