「ねぇ、エリスちゃん、ドレス着てよぅ」出社する度にこの声を聞けば、流石に呆れを通り越して微笑ましさすら感じてしまうから十分毒されてきているのだろう、と佐登は思いながら執務室へ続く扉を開けた。佐登が入ってきたことを認識した鴎外とその前にいるのは半裸の少女――――エリスである。あまり言及することは控えるが、まあ、鴎外は特殊な性癖の持ち主だということだ。有り体に言うならば幼女趣味である。佐登の恋はあっけなく敗れ去ったわけだがこの際、あくまで気にしないことにした。別に、叶う恋だと思っていないのだから、傷は小さくて済むはずだから。
佐登は二人に対して、丁寧に一礼し、挨拶を述べた。
「お早う御座います首領、エリス嬢」
「ちょっとクレーー!! リンタロウがしつこいの!」
「非道いよ、エリスちゃん!」
「……首領、本日は三十六件、書類が決済待ちで御座います。エリス嬢の着替えは私が賜りますので今すぐ執務にお入りください」
「ええ〜〜!?」
半裸のまま足元にまとわりついてきたエリス嬢に目線を合わせるようにしてかがみながら、首領に向かって一言。秘書は何よりもその人に仕事をさせるのが仕事であるためこの言葉は必定であったが、鴎外はわずかに抵抗するように視線を向けてくる。涙目だ。いい大人なのに、と佐登はこめかみをもんだ。首領の威厳もなにもない、おそらくはエリスの前でのみ見せるどことなく中年の哀愁漂う情けない顔を向けられ、訴えかけられるような目を向けられてぐらつかないわけではないが三十六件の裁可待ちの書類の中には期限が本日中のものもある、佐登は心を鬼にして、駄目です、と言った。
「さ、エリス嬢、私とお着替えして、その後にお絵かき致しましょう」
「うんっ」
床にいくつも散らばっている豪奢な襞や綾織の着いた服を回収しつつ、エリスの手を引いて奥へと向かう。その時にエリスが佐登の足にくっつきながら、べーと舌を出していたのを見たが、佐登は敢えて何も言わなかった。鴎外がとてもショックそうな顔を浮かべていたが、改めて釘を刺して「仕事、お願い致します」と言えば、鴎外は渋々執務机へと向かっていった。――――朝の恒例行事になりつつあるこれに、佐登は頭を悩ませつつも、エリスと共に服を選び、髪とリボンを整えてあげるのだった。
画用紙のみならず、床や壁にもクレヨンでお絵かきを始めるエリスを首領が咎めないので佐登も見守るだけだ。画用紙はとっくに佐登に預けられていて、佐登はぱらぱらとその画用紙をめくって眺めてみる。子供特有のクレヨンで描かれた柔らかな絵には赤がよく使われているように思えた。赤が好きなのだろうか。エリスのお気に入りの襞のついたドレスは赤だ。目にとまるような、綺麗な赤は佐登の瞳にもよく焼き付いている。ぼんやりと、そちらを眺めていると、エリスの翠玉がこちらへと向いた。にこりと、笑う。美しい、ビスクドールでも見ているような気分だ。
「クレ〜、クレヨン取って!」
「あ、はい」
床に散らばっているクレヨンをケースにまとめてエリスの手へ渡す。ちらりと鴎外の方へ視線を向けてみれば、エリスに微笑ましげな視線を向けていて手がまったく動いていない様子なので、佐登はこれみよがしに咳払いをして見る。「んんっ」びくり、と首領の肩が震えた。――――嗚呼、だめだな、これは。佐登はちらりと、首領へ視線を送った後にエリスの肩にそっと触れた。そして、にっこりとエリスに笑いかける。
「そう言えば、エリス嬢。洋菓子が御座います、宜しければ手を洗って食べませんか」
「洋菓子!?」
「はい。有名店のいちごタルトだそうですよ」
先日首領が買ってこられていました、と付け足しながら目を輝かせたエリスに手を洗うように促した。エリスは此れで食堂に向かうので執務室から姿を消す。
「さ、佐登君……」厳しくないだろうか、と鴎外がよよよ、と泣きながら佐登へと手を伸ばしてくる。少し位いいじゃあないか、と言う鴎外の手をぴしゃりと叩いて落とした。――――なりませんよ、と言えば、鴎外がぐっと言葉を止めた。しばし、沈黙が続いて、佐登がはぁ、とため息を付いた。
「午前中の書類仕事が終わりましたら、首領もお越しください。紅茶を淹れてお待ちしております」
この期間で佐登が学んだのは、とにかく甘やかすのは良くないということだ。甘やかせば甘やかすほど鴎外は仕事を先延ばしてもエリスにかまう。勿論、仕事の重大性がわかっている人ではあるので決して波に乗れればとことんやってくれる人では有るのだが……――――予定にはとても細かい人なのだが、どうもエリスが絡むとそうではないのが惜しい。
佐登は静かに礼をして、退出した。
佐登の仕事は当然首領である鴎外の職務の手伝いが主であるがそればかりではない。鴎外にまつわる雑務から、仕事のための準備まで盛り沢山だ。殆ど鴎外の傍にいるように思えるかもしれないが、当然それらの準備に関わっている時間は鴎外から離れて、パタパタと走り回っている。仕事の連絡を幹部や上級構成員にして、もしも鴎外に外出の仕事があるならば車の点検を護衛役の人たちに依頼、状況の確認をする。上がってきた報告書の受理や精査なども佐登に任されている。鴎外に呼ばれれば、必要な資料などを集めて回り、紅茶やお菓子の支度、挙げ句はエリスの面倒などなど――――。気づけば、終電も近い時間になる。
「あ……拙い」
佐登が秘書室から飛び出す頃には、最上階も静まり返っている。鴎外は基本的にこの最上階で寝泊まりしている――――ことになっているが、正しい宿泊場所を知っている佐登はこの最上階がしいんと静まり返っていることにひどく納得がいく。鴎外がこの最上階の首領の私室を使っているのは週に一度。他六日はホテルやセーフハウスを転々とされている。セーフハウスならば、念のためにと鍵が秘書室の佐登か鴎外の指紋、声紋、眼球認証と十桁の解錠番号で開く特殊金庫の中で保管されている。ちなみに同じ金庫の中に、ポートマフィアの構成員の異能力リストなどの機密情報が詰まっている。秘書室のそれらの書類が全て揃っていることを確認した後、佐登は秘書室を施錠して、最上階から自宅へ戻るために昇降機へ飛び乗った。すでに眼下の街はネオンの明かりや建物の明かりで照らし出されるほど暗くなっている。残念ながら、今日は月が見えない。新月の夜、だった。――――少し、寂しいな、と思いながらぼんやりと空を見上げる。
「……ふぅ」
自然と、ため息が出るのも仕方がないことだった。一般事務よりよほど忙しい。まあ、秘書というのは機密情報を扱うことが多いという仕事からか、労基における労働基準法の労働時間の規定にひっかからないのだ。そもそも、マフィアが法令を守っているのか、という疑問については考えないようにしなくてはならない。前に比べれば残業も当然多いし、鴎外に緊急の用事が入れば休日でも呼び出されることがある。自分で理解してこの職場を選んだ、とは言えども少々過酷だ。
――――最も、自分よりも首領の方が激務なのだが。けろ、としているが彼の体が心配だった。周りはあまり季にしていないようだが、十分痩身でいらっしゃる。眠っているのだろうか、とか。食事は十分だろうか、とか。周りの護衛は気にかけないであろうことを気にかけるのが、佐登の仕事だと、自分で決めていた。
(どうせ、私は戦えないのだから、それ以外で首領で貢献しなくては)
だから、仕事が過酷だとか言っていられないのだ。眠気を吹き飛ばすように、首を振った。髪がぱさぱさと揺れる。最近、髪を野放しにするのではなく結うことを覚えて、少し洒落た髪型をするようになった。久しぶりにあった友人から、どうしたのこれ、と聞かれたのだが、心境の変化だと答えた。――――心境が変わったことには違いないのだから。ぽん、と昇降機がついたことを知らせ、扉が開くと、佐登は少しふらつきながら足を一歩出した。
昇降機を降りて入り口に立っている警備員たちが佐登に向かって頭を下げる。佐登は同じように礼を返して、事務所の外へ出た。月の上がらない、新月の夜。街灯がなければ、暗くて何も見えないくらいだ。あの、鴎外と初めて出会った日とはまるで真逆の景色の広がりに佐登は一人、トボトボと大通りを歩いていく。この時間であれば、当然のように道を歩く人は殆どいない。時折、酔っぱらいが佐登の隣を通りすがっていくだけ。駅までの道を中程まで、進んだ。
――――ふと、頭に浮かぶ。ざざ、とノイズが頭に霞をかけて、佐登は体が震えた。今すぐに、本部事務所へ引き返せと言われている気分になった。何かに後ろから掴まれ、口元にハンカチを当てられる。佐登は慌てて振り返り、その黒い影に目を見開いた。
「――え、」
かたん、と仕事用に持ち歩いていた鞄が落ちた。
首領である鴎外がその連絡を受けたのは深夜。日付も変わった頃合いだった。使用していたホテルの一室で電話が鳴る音に仮眠から目を開けた。携帯を探り当てて耳に押し当てる。
「――――ああ、私だ」
そして、電話口から聞こえる声に、ニヤリを笑みを深めた。
「彼女には発信機が着いている。探すんだ、あの子の頭には数ヶ月とは言え、私達の喉元を掻き切るような情報を持っているのだから」
携帯を切って、鴎外は背広へ着替えた。結襟ネクタイを締めながら笑っていると、聞き慣れた愛らしい声が聞こえてきた。「悪趣味」そう言いつつ、彼女が責めていないことは鴎外が一番良くわかっている。彼女は寝台に身体を投げ出しており、もう少しすれば眠るところだったのだろう。鴎外は背広の上着へ袖を通す。そして、外套へ手を伸ばす。
「非道いよ、エリスちゃん」
「だって、情報流したのリンタロウじゃない」
その言葉に、鴎外は笑みを深めるだけで返事はしなかった。――――必要なことだからね、と一言、つぶやく頃には全ての支度が終わっていて、彼は部屋から外へ出た。ホテルの入口へ出てみれば、すでに護衛役が待機している。彼らは佐登が誘拐された事実をすでに聞いており、直接本部へ向かいますとのことだった。鴎外はエリスを伴いながら、車へと乗り込んだ。車の中は妙に静かで、物々しい気がした。鴎外は車の中から、外を眺めてふと微笑んだ。
本部内は深夜だと言うのに、騒然としていた。人が行き交うというほどでもないが、この時間に比べれば随分と人がいるように鴎外は思った。――――まあ、首領付きの秘書官が連れ去られたのだ。幾ら非戦闘員であるとは言え、マフィアとしては恥ずべき事態である。
「首領、お疲れ様です」
「中也君、お疲れ様。――――それで、発信機は?」
「今、解析中のようです。もう数分もしないうちに場所が割れるかと」
中原の返事に鴎外は意外と淡白に「そう」と応えるばかりで、昇降機に乗り込んで上階へと向かう。中原は鴎外を黙って見ていたが、最上階へ向かう昇降機の中へは乗り込まなかった。彼には彼でまだ仕事がある。高い昇降機は毎日のように乗っているが――――いつ見ても、横浜の景色は綺麗なものだ。
そう。この街を守るために鴎外はポートマフィアの首領という立場にいる。美しいこの街を、あらゆる無法から守るために、悪逆を敷く。ならば、彼女はそのための駒になってもらわなくては困る。あの異能力には価値がある。だが、その異能力への自覚が彼女は限りなく薄い。ならば――――それを引き出すだけ。
(……却説、佐登くんはどうするのだろう)
鴎外の深い赤い瞳がゆったりと細められた。
頬に走った、鈍い痛みに佐登は漸く目を開けた。昏い、場所だった。少なからず佐登の記憶にはない場所で、何だかきつい煙の匂い――おそらくは煙草の匂いと硝煙の匂いが混じったような――がした。佐登の蒼の瞳がゆるゆると上げられて鈍い痛みの正体を見上げた。
「よォ、お加減は如何かな?」
――――下卑た笑みだと、率直に思った。鴎外のあの美しい笑みとは違う。あの人は、とても優雅で美しい。静かな夜のような、そんな。佐登は硬い混凝土の上で寝かされており両手、両足は縄で固く縛られていた。まるで芋虫のように投げ出されているだけだ。縛られている手足が痛いし、混凝土の上に寝かされているのだから、当然身体が痛い。
「さて、此方が何を言いたいのかは、解るな?」
「――――はて。何のことか皆目検討も付きません」
声が震えた。必死で虚勢を張っては見るが、男に鼻で嗤われたかと思えば、強い力で一発。思い切り顔を殴られて、佐登の体が僅かに飛んだ。がん、と混凝土にも体を打ちつけてしまう。「止めておけよ」男は鋭く睨みつけて、佐登の頭を踏みつけた。鈍い、痛みを訴える呻き声が佐登の喉から零れ落ちた。そして、髪の毛を強く捕まれ顔を挙げさせられる。――――痛い。
「……ッ」
「お前が、首領の側近であることは知ってんだ。――――話せ、ポートマフィアの首領、その異能力と今後の行動予定をな」
「……しり、ません」
「嘘をつけ!!!」
もう一発殴られた。床に思い切り叩きつけられ、着けていた眼鏡が遠くに吹き飛んだ。それを別の男が踏みつけ、ぐしゃりと歪んでしまった。嗚呼、眼鏡。とか、どうでもいいことを考えてしまう。
「此処で話したほうが楽だぞ? お前は尋問にも、拷問にも耐える訓練なんざ、積んでないだろう?」
ぐい。頭を揺さぶられた。眼鏡がないせいで、男の顔は見えなくなった。おかげで、少しだけ、恐怖が薄れていく。僅かに口元に浮かんだ笑みが、彼らにとってはとても気に入らなかったのだろう。再び、拳が佐登に叩き込まれる。今度は顔だけではなく、腹、背中、足、腕――――おそらく考えうるすべての場所に。拳だけではなく、足もだ。複数人で、殴られた。佐登には、随分と久しぶりの感覚だった。高校二年生のとき、この異能力もどきのせいで、同級生たちから恨みを買った時以来だった。だが、その拳よりも、その蹴りよりもずっと強く、ずっと痛かった。
(嗚呼、でも)ぼんやりと佐登は考えた。(あの時のほうが痛いって思ったなぁ)
結局、あの時は誰の扶けも求めなかった。求めてはいけないと思った。――――結局、両親にすらこの目に映る物を話せなかったから。あの時も。今も。――――最悪の光景は浮かばないのだ。どれだけ殴られても、蹴られても、今を耐えれば、それは結局止まる。あの時の彼らは、何も言わない自分を気味悪がった。今の彼らはきっと。薄れていく、意識の中で、ふと鴎外の顔が浮かんだ。意識が浮上してくるような、気分だった。声が、聞こえた。
『暴力を暴力で返されるということは、マフィアにとっては支出であり、負債だよ』
すなわち、彼にとっての今の自分は負債なのだ。暴力を暴力で返すことのできない、負債を負うだけの弱者。異能力を扱いこなせず、嬲られるだけ。そう思うと、少しだけ苦しかった。自分が傍にいられる理由は、異能力と秘書としての能力だけなのだ。ポートマフィアの掟には、暴力はそれ以上にして返せという掟がある。自分は最初からその掟を守ることのできない存在だ。暴力を受けるだけの、弱者。ならば、今、自分に必要なものとはなんだろう、と必死で思考が巡る。
――――これが、できないのなら、自分は。
佐登を殴っていた手が止まった。音がやみ、静になる。あれだけ、人がいて、あれだけ殴られていたのに。佐登は疑問に思った。ゆるゆると固くつむっていた目を開けた。――――誰も、立ってはいない。自分と同じ視線になっており、倒れている佐登の頬にぬるりとした温かい液体が通り過ぎていく。赤い、それが。
「佐登君」
聞こえてきた声に、はっとして顔を上げた。黒い外套に赤いストールが視界に広がる。柔らかな微笑を携えたその人は当たり前のように血を踏み越えて、佐登の前に立った。「無事かい?」――――何時ものようにおどけた声で、鴎外はそういった。手足が使えないながらもなんとか身体を起こして、鴎外を見上げる。呆然と、してしまう。どうしてここに彼がいるのか分からなくて。
「……首領、」
声が、続かなかった。痛みが肺にも広がっていく感覚がして、少しずつ呼吸が荒くなる。浅く、早くなる呼吸、震える体に、佐登は漸く恐怖を感じた。安堵とともにやってきた恐怖は死へのものか、嬲られることへか、それとも――――この人に見捨てられることだったのか。わからない感情が混じり合い、思考を鈍らせていく。鴎外は佐登の顔を見て、一瞬顔をしかめてみせた。
「……嗚呼、殴られたのだね」
鴎外の手が佐登の顎を持ち上げる。殴られた頬をなでた後、両手両足の縄をほどいて体を解放した。手足に血が通う感覚がした。血が通う感触は同時にしびれをもたらした。痛かったはずなのに、なんだか、もうそれもどうでもいい気がする。
「立てるかい?」
「……」
震えのせいで声がでないので、首を振った。すると鴎外は緩やかに笑みを浮かべて佐登を抱き上げた。首領の香りがした。――――驚いて、更に声が出なくなって、慌てて鴎外を見る。彼は困ったように笑った。
「怖かったね」
子供を宥めるような声だった。肩に触れている手が優しく佐登を落ち着かせるようにとんとんと規則正しく叩かれる。安心してくると身体から力が抜けた。鴎外の肩口に自然と頭が落ちた。鴎外は何も咎めず、ただ、規則正しく撫でてくれるだけだ。安心してくると、再び意識が遠くへ行こうとする。眠りなさい、と鴎外の声が聞こえてきて、ぼんやりと鴎外を見上げてみた。
(嗚呼、助かったのか)
佐登は、ゆるゆると目を閉じた。
鴎外は佐登を抱いたまま建物から出てくる。黒服の構成員たちに指示を出して車の方へ向かっていく。自分で迎えに来ることを選んだのはほんの気まぐれもあったが中々面白い。これだけ殴られても彼女は情報を吐いた痕跡がなかった。座席に座らせる。自分が隣に来ると、力の抜けているその体をそっと引き寄せて自分の方へ寄りかからせた。肩にかかる重さを感じる。
「……顔、腫れてるねぇ」
ふと、指で顔をなぞる。そして、目を細めた。
「矢っ張り、君は優秀だよ、佐登君」