「おや、起きたね」
おそらくはにっこりと笑っているのだろう鴎外の顔が視えないのは、自分が眼鏡をかけていないからだと自覚したが眼鏡の顛末を思い出して、佐登は目をぱちくりと瞬かせた。そうだ、眼鏡は壊れてしまったのだ。予備の眼鏡はどこにしまったかな、なんて考えた。鴎外は佐登の頬に指を這わせて、顔を近づけた。触れられると、ちくり、と頬が痛んだ。違和感を感じる箇所でもあって、頬のなぞりが明らかに通常の頬の滑りではない。
「矢張り酷く腫れてるね。――――冷やす物を用意させるから、今日は一日大人しくしていなさい」
「え、あ、は、はい……じゃ、なくて!」
「うん?」
「私、敵、に捕まって、」
鴎外は気遣うように佐登に微笑みかけると、佐登の肩を抑えてゆっくりと寝台へ押し戻した。柔らかな寝台の感触があまりにも心地が良い。確りと自分を受け止められて、佐登は困惑した表情で鴎外を見上げていた。鴎外はそんな佐登に困った教え子でも見ているかのような微笑みを携えていた。
「佐登くんね、君は分かっているのかな? 骨折などはなかったとはいえ随分と殴られて、ボロボロだ。本来は一週間はおとなしくしておくべきだね」
「……しかし、仕事が」
「君はいつ社畜になったんだい? 勿論、君がいないと私の仕事は差し支えるわけだが、そもそも君を守れなかった私の責任だ。今日から三日はゆっくりと休みなさい。此れは首領命令だよ」
佐登は寝かされたまま、驚いた顔をしている。誘拐事件が起きたばかりだと言うのに恐怖やそういったものはないのだろうか、と鴎外が観察していたが佐登はただきょとんとしているばかりだ。確かに、あの時佐登は恐怖を表情に浮かべていたはずだった。だが、今はそんな様子は微塵もない。眼鏡がないと、青い瞳が見えた。――――よく見ると、ただ青いだけではないようだ。うつむきがちで気付かなかったが、瞳孔の下の方はその瞳の色は薄く、光の瞬きによって金色に見えた。ふむ、と見た後、頭を撫でて、微笑んだ。
「ああ、それとね、佐登くん」
「……はい?」
顔にかかる、佐登の髪を優しく払い除けて、鴎外はにこりと笑った。きょとん、と自分を見上げてくる顔がよく見えた。
「君、眼鏡ない方が可愛らしい顔してるじゃぁないか」
顔が見えなくて良かった。――――初めて、心から十年近く連れ添った眼鏡がいなかったことに感謝した。見えないことに此れほど安堵したことはなかった。ばたん、と遠くからドアが閉まる音が聞こえて、佐登は一気に熱を持ったような気がする頬を抑えて、殴られたところの痛みも忘れて、冷たいシーツに顔を埋めて、呻いた。恋をしてしまった相手に可愛い、と言われることの破壊力と言ったらとんでもないものだと知った。というより、初めてかもしれない、かわいいなんて言われたのは。頬が熱い。否、殴られた箇所が熱を持っているはずなのに、それ以上に熱い。冷たいシーツでも冷やすことができないそれに佐登は心臓が痛くなってきた。必死で呼吸を落ち着けようとする。嗚呼、もう、どうしたらいいのか。
(可愛いのは、貴方の方です……っ、首領……!!)
佐登が必死で蹲っていると、治療のためにやってきた医者に余計な心配をさせてしまい、首領を呼ばれかけたときにはどうしようかと思ったが、とりあえず、なんともないです、なんでもありませんと医者の白衣を引っ張って押し留めた。頗る元気です、と主張してみれば、医者は訝しげな視線を佐登に向けながらも、それでも首領の命令です、三日は大人しく此方で療養してくださいと説明された。――――どうやら、此処は本部に着いている医療室らしい。もう少しすれば、秘書室の仮眠室に戻って構わないと言われ、佐登はホッとした。
「あの、自宅、へは?」
「そちらは首領が決定致します」
「……わかりました」
要するに暫くは本部から出るな、と言われている。まあ、当然といえば当然だ、と佐登は納得すると再び寝台へと沈んだ。誘拐されたのだから、しばらくは安全確保のためにも本部の方がいい。ここは警備が万全で余程のことがなければ侵入者もないだろう。どうせ動くなと言う首領の命令は絶対だ、おとなしくしていなければ。ぼんやりと医療室の天井を見上げていて、ゆっくりと目を閉じた。
(嗚呼、でも、良かった)鴎外の口調、声音を思い出して、佐登は安堵した。
(首領に見捨てられてなかった)
少しだけ感じた安堵のまま、心地の良い眠りへとつこうとしてそう言えば、と思い出した。「眼鏡なんですけど」医者にそう言えば、彼はああ、と言う。あれを常用するくらいは視力が善くないことは医者である彼は把握していたらしい。必要なら新しいものを、と彼は口に仕掛けたが佐登は首を横に振った。
「もし、人手があればで善いので、私の家から――――」
無いと、不安なんです。
「……何よ、クレ、そのだっさい眼鏡」
え、と佐登は突然現れたエリスに向けて驚いた。その後ろには美しい着物を纏っている紅葉の姿が見える。エリスは不満げに頬を膨らませている。先程届いたのは、瓶底のような眼鏡だ。黒服の人が届けてくれた時に本当にこれを使用されるのですか、と言われたが以前使っていたもののほうがいい。
「リンタロウが眼鏡ないクレが可愛かったーとか言ってたから見に来たのに!!」
「え、ええ……?」
「私も見に来たのにのぅ……」
「お、尾崎幹部まで」
佐登は困ったように丸い、瓶底のような眼鏡を少しずらした。前の眼鏡よりも古いもので、見辛いのだが、仕方がない。無いよりマシだ、と思って着けていたのだがどうやらエリスと紅葉からは不評らしい。「可愛くない!」と断言されてしまい、佐登は苦笑した。
「あの、えっと。――――そう言われましても」
「外して」
「でも、見えないんですよ」
「一瞬だけ」
「……前に首領がそのようなこと申してましたね」
エリス嬢に。「一瞬、ちょこっとだけ! さっと!」必死にエリスにドレスを着るようにせがむ鴎外の姿が浮かんできて佐登は更に苦笑を深めるだけだ。もう! といい加減にしびれを切らしたらしいエリスに眼鏡を取りさらわれる。子供とは思えない、速さだった。
「あ!」
佐登が手を伸ばすが、エリスが逃げるほうが早い。子供とは大人の思わない視点から、あっという間に逃げてしまったりするのだから恐ろしい。そして、紅葉とエリスの視線が佐登に注がれる。「えっと、」佐登が困ったように声を上げる。眼鏡を見ていない顔を直接見られるのはあまり慣れていなくて、佐登は顔が熱くなっていくのを感じる。照れくさい。
「お願いします……眼鏡、返して、ください」
「佐登、出かけるぞ」
「ええ、あの、首領からは三日は安静、って」
「構わん。私が説得する。善いか、今から、コンタクトレンズを作りに行く」
佐登は何が何やらわからない。紅葉はあっという間に携帯電話を取り出して、どうやら首領に連絡している。「ついでじゃ、背広も二、三点仕立てに往く」どういうことだ。佐登は理解できないまま、エリスがこれ、着替えと服を持ってくるので、それに着替えさせられている。「は? ついて行く? 仕事が終わらなくなるじゃろう、……致し方あるまい」どうやら、紅葉と鴎外の間で話がついたらしい。その間に佐登はエリスの手によって髪の毛までセットされていた。綺麗に髪の毛がまかれ、途中に編み込みが入れられ、可愛らしい赤いリボンで結ばれている。
「リンタロウ、なんて?」
「首領もついていくそうじゃ。よし、佐登、準備は善いな?」
「いや……え? どこへ出かけるんです?」
「買い物じゃ!」
――――こんなに楽しそうな尾崎幹部は、後にも先にもあまり見ませんでした。
佐登は車の中で、鴎外にひっそりとつぶやいていた。
「顔が腫れていなければ、完璧じゃったのに……」
車の中で佐登の顔を撫でながら紅葉が悔しげにつぶやく。佐登はすでにエリスにあの古い瓶底眼鏡は回収され、眼鏡がない状態で不安そうに座席の端を掴んでいた。鴎外がクスクスと笑うのに、少し恨めしげに佐登は鴎外へ視線を向けるが彼はしれっと流すのみだ。見えない不安というのは、見えている人にはわからないものだ。
「女の顔をあんなにも殴った連中はどうしたのじゃ?」
「当然、みんな沈んでもらったよ。"私の"大切な秘書である佐登くんをあんなにも殴ってくれたんだ、お礼はしなくてはね」
鴎外と紅葉の会話について、佐登は閉口した。隣に座っているエリスが何だか楽しげにニコニコ笑っているが気にしてはならないと佐登は決心した。数ヶ月此処にいて、佐登も大分慣れてきた。彼らはやっぱりマフィアであり、銃弾が飛び交い、誰かが死ぬ、そんな世界に生きているのだ。――――そして、自分も少なからずそういうところに足を踏み入れつつある。
「まずは眼科の方に行くよ。コンタクトはそちらで作ったほうがいいから」
「……はぁ」
「今日の買い物は全て経費で落としていいから」
「……はい?」
「まあ、私が払うけれど」
「いや、あの、」
「気にせず、揃えなさい」
「……え?」
鴎外は人の話は聞く気がないらしい。佐登の言葉は全て遮られた。あの、と言う前に車が止まった。運転席の方から広津の声が聞こえ、到着しましたとのことで、車の扉が開いた。本来であるなら、秘書である佐登が一番最初に降りて鴎外の安全を確認しなくてはならないのだが、今日は目が見えづらいので役に立たない。――――それに、佐登が降りようとする前に鴎外がさっさと降りてしまう。そして、佐登に向かって手を差し出す。
「今日は、見えなくて不安だろう? さあ、どうぞ、お嬢さん」
「へぁ!?」
――――お嬢さん、だれ、それ、と固まっていると、背中を思い切りエリスに押された。子供とは思えない大した力で押し出され、あっという間に鴎外の手を掴んで、車の外に立たされてしまった。眼科についてくるのは鴎外だけで、紅葉とエリスはそのまま車内で待機しているとのことだ。佐登は混乱した頭で鴎外に言われるままに問診票を記入し、医師の言うとおりに視力検査を済ませ、コンタクトレンズ作成のための様々な手続きを終え、一時間足らずで眼科から戻ってきた。その間、移動には全て鴎外が手を引いてくれ、素敵な方ですね、と看護師に耳打ちされたことは忘れられない。上司です、とは言えず、鴎外がニッコリと笑って有難うございます、と言うだけだ。
コンタクトレンズは一週間で出来上がるということなので、佐登ははい、と頷くだけだ。本当に此処の支払いも全て鴎外がしていた。佐登が戻ってくると、鴎外がもう支払いが済んでいるから次へ行くよ、とさっさと手を引かれ、車へ戻ることになる。
――――彼らの本題はどちらかと言うとこっちだったらしい。
「クレは! こっち!」
「ええ、エリスちゃん、佐登くんはこっちも似合うよ?」
「何を言うておるか、暮にはこっちのほうが愛いに決まっておろう!」
佐登はぐっ、と口をつぐんだまま、顔をうつむかせていると後ろから広津が肩を叩く。その意味はおそらく、諦め給えとかそんな感じであり、佐登は言われるまでもなく諦めていた。この中で、自分が一番発言権がない。とりあえず、見える状態であれば、スカァトは嫌ですとか、襞は控えめでお願いしますとか言えたのだが、何分にせよ相当近くに行かないと三人の持っている服がよく見えない。だが、近寄ればきせかえ人形にされることは間違いなかった。
(……厭、着せ替え人形だけは絶対に厭……っ!)
コロコロと服を変えなくてはならないのは苦痛だ。だが、鴎外の視線が此方に向いた瞬間に佐登は危機感を感じた。びく、と肩を震わせた。逃げようと、足を後ろに持ってきたが後ろには広津がいて、逃げようもなかった。彼はガッチリと肩を掴んでいて離さない。
「佐登くん、実際に着てみてほしいのだが……」
(嗚呼、やっぱりこうなるんですね)
「しょ、承知しました……」
これから三時間余り、佐登は彼らの着せ替え人形としていろいろな店を巡らされたのは言うまでもない。積み上がっている紙袋をなんとなくぼんやりと認識しながら、佐登はため息を付いた。こんなに買ってどうするのだろう、と率直に思う。もともと、佐登は服に頓着する性質ではなく、秘書としてそれなりに見栄えするように服を選んでいるつもりだったがどうやら三人的には華やかさが足りないと思っていたらしい。コンタクトのついでだ、そのまま連れ回してしまえという紅葉の意見に完全に鴎外が便乗した。
(……安静にしていろ、という言葉は一体何だったの)
「疲れたかい?」
一着、服を持って眺めていたところを背後から鴎外が話しかけてくる。慌てて振り返る。佐登には見えないものの、緩やかに微笑みを携えた鴎外が佐登を見ていた。彼の手には当然のように服が持たれている。色や仕立ての違う女性用背広とブラウス、襯衣だ。時代的に女性が襯衣を着る仕事はとても珍しく、鴎外が持っているのは外国からやってきた最新鋭の日本ではまだまだ見慣れない意匠のものであった。
鴎外は佐登の腕を引くと、全身鏡の前へ連れてくる。自分は背後に立って、持ってきた襯衣を佐登の体に合わせる。単純であるがゆえに女性らしい線の出る襯衣は綺麗な赤色をしている。鴎外が持っている黒い細身の女性用背広と合わせるととても綺麗だろう。うん、と鴎外は満悦に頷いた。耳元で響く、鴎外の声に、佐登の心臓が震えた。
「いいね」
「あの……」
「仕立ての違う物をいくつも用意しておいて損はないよ。――――相手に合わせて装いを変える、そういうのも大事だからね」
鴎外の言うとおりだ。――――だが、鴎外に後ろから抱きしめられるようにして襯衣を合わせられるのは心臓に良くはなかった。必死に顔が赤くなるのに耐えながら、佐登はきゅ、と唇を噛み締めた。喉の奥が、乾くような気がして、唾液を何とか飲み込んだ。ただただ、心臓がうるさくて辛い。恋とはこんなにも、厄介だったなんて知らなかった。鴎外にこの音が聞こえていないか不安になってしまって、話があまり耳に入ってこない。
「――――本当は」
鴎外が紅葉や、護衛の者たちに聞こえないように話しだした。潜められた声だと、気づいて佐登は少しばかり周囲を見渡しかけるが、どうせ見えない、鏡へ視線を向けるだけにとどまった。鴎外はそのまま話を続ける。赤い襯衣がぴたりと当てられていて、抱きしめられているかのような錯覚をしてしまう。
「君が辞めると、言い出すかと思っていた」
鴎外の言葉に、佐登は目を見開いた。そして、慌てて振り返りそうになって鴎外に視線で咎められた。この話を潜めておきたいらしい。辞めたいだなんて、と佐登は目を瞬かせた。なぜだろう、と考えてその原因にはすぐに思い至った。おそらくは、敵に捕まって暴行を受けたことを言っているのだろう。佐登からすれば真逆であった。辞めるなんて、微塵も想像していないことを鴎外から口にされて、慌てて鴎外の方へ顔を向けた。彼の表情は近くにあったからよく見えたが、佐登を試そうとしているような視線だった。だから、佐登は素直に自分の気持ちを伝えるべきだと思ったのだ。佐登が怖かったのは、誘拐されたことでも、殴られたことでもなくて――――。
「真逆――――私は、寧ろ、貴方に見捨てられるのでは、ないかと」
「私が? 君を」彼は心から驚いた顔をしてみせた。そして、暫く鴎外は目を瞬かせて言葉を失っていた。漸く出された声は苦笑が混じっていた。
「君は私を守れなかった、私は君に怒られるべきだと言うのに」
鴎外は心痛に表情を暗めて佐登から手を離した。襯衣も流れるように離れていき、佐登はつい視線で首領を追っていく。「……私は」一つ、決心を込めたように、佐登が微笑を浮かべる。――――これは一番最初に決めたこと。
「少なからず、貴方の傍にいると決めた時点で自分の命は無いものだと思っていました」
ポートマフィアの首領の、秘書としていろいろお世話をする以上、あらゆる情報が自分の耳に入ってくる。ならば、狙われても仕方がない。自分を守ることができないのは、自分の責任だ。異能を使いこなせば、不可能ではないのだから。
「……こんな私ですが、首領のお傍においていただける限り、全う致します」
礼を取って、佐登は笑う。鴎外はぽかん、とそれを見つめているだけだ。何も言えなかった。佐登は、自分を呼ぶエリスの声にそちらの方へ向かおうとしてしまう。鴎外は、無意識的に、その手を、つかもうとしていた。――――途中で気づいて、手は引いたので、佐登の手を鴎外が掴むことはなかったが。
(……全うする、か)
ならば、彼女は気づいている。鴎外が、自分が、彼女の異能力を目的として傍に置いていることを。勿論、それが目的であることは開示している。解っていることだ、自分も、彼女も。
(……真逆、殴られて、泣きもせずにいられる子だとは思いもしなかった)
長らくこの世界にいる紅葉が敵に殴られても動揺しないのは想像がつく。彼女は気高い。敵の前でそんな醜態はさらさないだろう。だが、佐登は違う。つい最近まで、本当にただの一般人であった。光の中で、ゆるゆると平穏を享受する女性であったはずだ。ならば、脅され、殴られ、命の危機に瀕して、あれほどまで冷静でいられるなどと誰が想像できる。――――いや、笑っていたその顔は、その手は、震えていた。怖かったと、言うこともなく、虚勢を張っただけの笑顔が。
(美しい、だなんて)
鴎外はエリスの着せ替え人形にされている佐登を眺めながら、口元を抑えて沈黙した。
こつん、と何かが落ちた音がした。